七条仏所跡 (京都市下京区)
The ruins of Shichijo-bussho(Buddhists culpture workshop at Shichijo)
七条仏所跡  七条仏所跡
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民家の脇に駒札だけが立てられている。


 七条高倉の南東交差点に、七条仏所跡(しちじょう ぶっしょ あと)がある。七条大仏所とも呼ばれた。ここには、平安時代中期の仏師・定朝、一族、子弟らによる仏所が存在した。いまは駒札のみが立つ。 
◆歴史年表 変遷の詳細は不明。
 平安時代中期、この地には、仏師・定朝(じょうちょう、?-1057)が住み、一族、子弟らによる仏所が存在した。
 定朝の子・覚助(?-1077)は、この地に七条仏所を開く。
 定朝の弟子・長勢(ちょうせい、1010‐1091)は、三条仏所を開いた。
 定朝の孫・頼助(1119-1054)は、七条仏所より分かれる。奈良に移り、奈良仏所を開く。
 院助(いんじょ、?-1109)は、七条仏所より分かれ、七条大宮仏所を開く。
 鎌倉時代、1301年、七条仏所の仏師(康弁)が、定朝の邸宅を他阿上人に寄進し、金光寺の始まりになったともいう。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、21代(12代とも)・康正(1534-1621)の時、豊臣秀吉の命により、この地を時宗市屋派本寺の金光寺に寄進し、四条烏丸南(水銀屋町)へ移転した。
 江戸時代末期、兵乱によりこの地の仏所遺構は焼失した。
◆定朝 平安時代中期の仏師・定朝(じょうちょう、生没年不詳)。康尚の子、弟子ともいう。1020年、藤原道長の法成寺無量寿院阿弥陀堂の丈六九体阿弥陀像を康尚の下で造仏する。1022年、法成寺金堂、五大堂の造仏により仏師として初めて法橋に叙せられた。1024年、薬師堂の造仏、1046年、焼失した興福寺の復興を手がけ、その功により1048年、法眼となる。1053年、平等院鳳凰堂の本尊・丈六阿弥陀如来像、1054年、名作といわれた西院邦恒朝臣堂などの阿弥陀仏を造仏した。
 定朝は、和様といわれる定朝様式を確立した。旧来の一木造より寄木造へ、割矧(わりはぎ)造の手法を完成させ、仏師の分業方式を可能にした。頭部、胴部も複数の角材を縦に束ねると、像内を刳りやすくなる。部材を分割すると作業効率も高まる。像全体の軽量化とともに細部の彫刻が容易になる。材のひび割れ、狂いの防止にもなった。定朝は、飛天光、七重蓮華座を創案したとされる。
 定朝様式は「仏の本様」とされた。仏像そのものにとどまらず、像の周囲の造形物にも配慮した。仏所を創設、仏師の制度(大仏師10人、その下に小仏師各5人)を整備し、仏師の社会的な地位向上にも貢献した。番匠(木地師)、職人集団の漆師、金箔師、彩色師、飾り金物師らも束ね大きな役割を果たした。
◆覚助 平安時代の仏師・覚助(かくじょ、?-1077)。定朝の子、弟子ともいう。定朝に劣らない技能を備えた。1059年、法成寺の造仏、1062年、平等院塔の五智如来像を造仏、1067年、興福寺の造仏により法橋に叙される。1070年、円宗寺の造仏により長勢とともに法眼となる。1071年、京都・大蓮寺の薬師如来像を造仏したとされる。法勝寺・金堂の造営中に亡くなる。後は院助に引き継がれた。
 七条仏所の創設者。
◆長勢 平安時代の仏師・長勢(ちょうせい、1010‐1091)。長成。定朝の弟子。1064年、広隆寺の日光・月光菩薩像、十二神将像を造仏。1065年、法成寺金堂造仏により法橋、1070年、円宗寺の造仏により、覚助とともに法眼に叙せられる。1077年、覚助没後、工房を支えた。1077年、法勝寺金堂、講堂、阿弥陀堂の造仏により、仏師初最高の法印を与えられる。法勝寺九重塔、常行堂の丈六阿弥陀像などを手がけた。
 宮中、藤原氏関連の造仏に際して、三条仏所(仏所)を開く。円派の始祖。
◆頼助 平安時代後期の奈良仏師・頼助(らいじょ、1119-1054)。覚助の子、弟子とも。早くから南都で、興福寺の仏師になる。1096年、焼失した興福寺仏像の復興修理をした。1103年、落慶供養に際して法橋に叙せられた。1110年、興福寺諸像を修理。1113年、興福寺大衆による白河法皇(第72代)呪咀事件で不空羂索観音像を造仏したと疑われ、後に晴れる。1116年、春日西塔仏を造立。
 頼助以後の系統は、奈良仏師と呼ばれた。
◆院助
 平安時代後期の仏師・院助(いんじょ、?-1109)。覚助の子、長勢の子とも。1077年、第72代・白河天皇の御願寺・法勝寺金堂の造仏、法勝寺薬師堂の丈六大威徳明王像の造仏により、法橋となる。1105年、円勢と協力し第73代・堀河天皇の病気平癒のため、公家御所の諸像を造立、尊勝寺新堂の造仏により法眼。1107年、迦三尊像、1108年、堀河天皇の法事のため阿弥陀三尊像を造立する。
 七条仏所より分かれ、七条大宮仏所(院派)を興す。
◆康正 安土桃山時代-江戸時代初期・仏師・康正(こうしょう、1534-1621)。定朝21代と称した。康秀の子という。1577年、教王護国寺(東寺)大仏師職を継ぐ。1585年、日吉神社の神像を製作した。1602-1604年、豊臣秀頼の命で東寺金堂・薬師三尊像、十二神将像を造像。蓮華王院本堂(三十三間堂)、王東寺講堂の五大尊や四天王像などの修理も行う。
◆七条仏所・ほか 鎌倉時代、定朝没後、七条仏所は、定朝の子・覚助(かくじょ、?-1077)により始まる。本拠は、奈良・興福寺にあった。
 定朝の弟子・長勢(ちょうせい、1010‐1091)は、三条仏所を開く。
 定朝の孫・頼助(らいじょ、1119-1054)は、七条仏所より分かれた。奈良に移り、奈良仏師と呼ばれた。鎌倉時代に、運慶(1148/1151?-1124)、湛慶(1173-1256)、快慶(生没年不詳)ら、定朝直系の優れた仏師を輩出した。運慶は、京都にも進出している。慶の字を用いたため慶派ともよばれた。七条に仏所があり、七条仏所と名づけられた。 
 鎌倉時代後半、康誉(生没年不詳)の七条西仏所、室町時代、康祐の七条東仏所に分かれた。安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、康正(1534-1621)は、中仏所の中興の祖になる。
 円派は、長勢(ちょうせい、1010‐1091)を祖とし、三条仏所を構えた。円勢、賢円、長円らがいる。
 院派は院助(いんじょ、?-1109)を祖とする。七条仏所より分かれ、七条大宮に仏所があった。院尊、院実らがいる。
◆七条道場金光寺・慶派仏師 七条道場金光寺(七条通東洞院東入南側材木町)は、鎌倉時代、1301年、時宗2代・他阿真教が4代・他阿呑海に課して創建されたという。七条河原口道場とも呼ばれた。以後、時宗総本山になる。南北朝時代、1395年、3代将軍・足利義満は13代・尊明に帰依し、広大な敷地(七条以南、塩小路以北、東洞院以東、高倉以西)を寄進する。また、信徒の寄進相次ぎ隆盛を極める。4代将軍・義持は1420年、遊行上人、時衆が各所の関所を自由往来すること、上人、金光寺の布教活動を厚遇した。時宗の法要に義教、義政も参詣した。武士は戦の際に、時衆を伴い、戦陣で行事を行い、最期は念仏十念を受けた。
 江戸時代、1858年、1864年、焼失する。近代、1906年、長楽寺に合併された。本尊、慶派仏師による上人像などが長楽寺へ遷された。
 七条道場金光寺と慶派仏師との関わりは、鎌倉時代、1301年、運慶3男・大仏師第10代・康弁が道場に土地を寄進したことに始まるという。以来、21代まで七条道場に住し、念仏修業とともに造仏を行う。遊行上人は慶派歴代に、「覚阿弥陀仏」という最高の阿号を授けたという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 駒札、『京都史跡事典』『意外と知らない京都』『京都大事典』『京都事典』『京都 歴史案内』

 
  平等院(宇治市)      七条大橋         枳殻亭      長楽寺              
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 七条仏所跡 京都市下京区七条通河原町西入材木町 

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