子安観世音(北白川石仏) (京都市左京区)
Koyasu-kanzeon
子安観世音 子安観世音 
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子安観音、今出川の北にある。
「みちばたの 川にはさまれ 東むき あさひをうける 子安観音」作者不詳。



子安観音、地蔵菩薩ともいう。



 今出川通の東端は、白川村の入り口になり、洛中の荒神口から近江へと通じる街道筋(志賀越道)にあたった。また、出町から百万遍を経て、浄土寺へ向かう細道もこの地で交差していた。 
 今出川通から白川通に入る路傍に、子安観世音(こやす かんぜおん)といわれる石仏が安置されている。
◆歴史年表 鎌倉時代中期作、石仏が安置されたという。北白川石仏、北白川子安観音、北白川弥勒石仏とも呼ばれた。大日如来、阿弥陀仏ともいい、古くより子安観世音として地域の信仰を集めた。
 安土・桃山時代、1587年、聚楽第完成後、豊臣秀吉は石仏を気に入り、聚楽第の庭に運び入れたという。その後、再び元に戻されたという。以後、太閤地蔵とも呼ばれた。(『山州名跡志』巻5)
 江戸時代、1788年、希代の大像として描かれている。(『拾遺都名所図会』巻2』)
◆子安観世音 地蔵尊は、鎌倉時代中期作とされる。北白川石仏、北白川子安観音、北白川弥勒石仏とも呼ばれる。大日石仏、阿弥陀仏ともいう。古くより子安観世音として地域の信仰を集めた。
 安土・桃山時代、1587年、聚楽第完成後、豊臣秀吉は石仏をとても気に入り、聚楽第の庭に運び入れたという。石仏は独りでに動いたとされ、秀吉が興味を示したという。その際に、石仏の首は切り離されたともいう。そのため首切観音、首切地蔵とも呼ばれたという。遷された石仏は、夜になると白川に戻りたいと鳴動した。このため、再び元に戻されたという。以後、太閤地蔵とも呼ばれた。(『山州名跡志』巻5)
 焼痕があるという。また、近年顔を彫り直したという。像高2m、花崗岩製。
◆弥勒菩薩 今出川通の南に弥勒石仏2体も安置されている。阿弥陀仏ともいう。この地蔵尊も北白川石仏と呼ばれた。
 右の石仏は衣文のひだが残る。定印の坐像、二重円光式光背、光背に月輪13個、その中に経文梵字を陽刻する。厚肉彫、1.4m、花崗岩製、
 左は自然石の光背がある。いずれも鎌倉時代中期作、蓮華座より下は土中にある。厚肉彫、像高1.5m、花崗岩製。
◆志賀越 かつて、京都から近江に通じた志賀越が地蔵尊前にあった。今出川からは、山中峠か志賀峠を越えて近江に抜ける最短の道だった。古くは、荒神口を起点とし、北白川街道を経て峠越えで坂本まで通じた。志賀山越、山中越、白川越、今道(路)越、安土海道などとも呼ばれた。
 南北朝時代、『太平記』(1318-1368頃)にも記され、京都へ入る軍勢が通った。安土・桃山時代、1570年、織田信長は道を整備している。
◆年間行事 盆供(8月17日)、お火焚き(11月17日)。


*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『新版 京のお地蔵さん』『京都の地名検証 3』『京都大事典』『昭和京都名所図会 3 洛北』


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今出川の南にある石仏

弥勒石仏(阿弥陀仏とも)

道標、江戸時代、「嘉永二年(1849)」の銘がある。「右さかもと からさき 左 百まんべん」と刻まれている。沢村道範建立、白川石製。
 子安観世音(北白川石仏) 京都市左京区北白川西町

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