祟徳天皇御廟 (京都市東山区)
Sutoku-tenno-gobyo(mausoleum)
祟徳天皇御廟 祟徳天皇御廟
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「浜千鳥 あとは都に 通ふとも 身は松山に 音をのみそなく」 崇徳天皇
 祟徳天皇御廟(すとく てんのう ごびょう)は、第75代・祟徳天皇を祭神として祀る安井金比羅宮の北に位置する。 
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 飛鳥時代、藤原鎌足(614-669)は、この地に藤を植え、藤寺、花の寺として知られていたという。
 平安時代、崇徳天皇(1119-1164)も藤を好み、たびたび訪れた。ある時、白衣の童子が現れ、藤は鎌足が植えたものであると伝えたという。天皇は殿舎を建て、寵妃・阿波内侍(あわのないじ、藤原信西の娘)を住まわせたという。
 1156年、崇徳天皇は左大臣・藤原頼長と保元の乱を起こす。だが敗れ、讃岐国流罪となり、その地で没した。その後、都では異変が相次ぐ。阿波内侍は剃髪し、仏種尼と改めた。付近の自宅に塚を築き、天皇の遺髪を密かに埋め弔ったともいう。 
 1184年、1179年とも、後白河法皇(第77代、1053-1129)は、憤死した崇徳天皇の怨霊を鎮めるために、鴨川の東、春日河原、保元の乱の古戦場に粟田宮(あわたのみや)を建立した。
 鎌倉時代、1237年、聖護院の森の西北(聖護院川原町、崇徳田、現在の京都大学病院付近)に遷される。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した。その後、荒廃した。
 1497年、この付近にあった光明院内に崇徳天皇御廟が再興された。
 江戸時代、1695年、太秦・蓮華光院がこの地へ移されている。
 近代、1868年、神仏分離令後、崇徳天皇の霊は、安井神社(現在の安井金刀比羅宮)に遷され祀られる。
崇徳天皇 平安時代後期の第75代・崇徳天皇(すとく てんのう、1119-1164)。顕仁。第74代・鳥羽天皇の第1皇子。母は待賢門院藤原璋子。白河法皇(第72代)の子ともいう。1123年、院政をしいた曾祖父・白河法皇の意により、5歳で皇位を継承する。1129年、白河法皇没後、同じく院政をしいた父・鳥羽上皇と対立した。1141年、鳥羽上皇に迫られ、異母弟・体仁親王(第76代・近衛天皇)が皇位継承する。1155年、近衛天皇が急逝後、崇徳上皇は子・重仁親王の即位を望む。だが、異母弟・雅仁親王(第77代・後白河天皇)が即位し、その子・守仁親王(後の第78代・二条天皇)が立太子となる。1156年、鳥羽法皇没後、崇徳上皇は、左大臣・藤原頼長らと挙兵する。(保元の乱)。平安時代初になった乱に敗れ、讃岐国に配流、その地で没した。死後、天皇初の怨霊(讃岐院怨霊)として恐れられた。 
 没後、1177年、崇徳院の諡号(しごう)を贈られた。1184年、保元の乱の戦場跡、春日河原には粟田宮(左京区聖護院)が建立される。崇徳天皇が流された讃岐の御陵にも、鎌倉時代に御影堂が建立された。堂は白峰寺が管理し、白峰宮と呼ばれた。1868年、京都に白峰宮(白峯神宮、上京区)が建立された。
◆御廟 御廟と粟田宮の関連については異説もある。現在の祇園新地歌舞錬場内(建仁寺塔頭福聚院跡)に、かつて崇徳院御廟所があり、現在の御廟はこの御影堂跡ともみられている。
◆年間行事 月次祭(毎月21日)。


※「上皇」は、皇位を退いた天皇の尊称。「法皇」は出家した上皇。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『平安の都』『京都大事典』『新版 京のお地蔵さん』


   安井金比羅宮      白峯神宮      白河北殿跡・保元の乱跡      積善院〔聖護院〕               
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 祟徳天皇御廟 〒605-0074 京都市東山区祇園町南側 

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