高倉宮跡・曇華院跡・初音の森 (京都市中京区) 
The ruins of Takakuranomiya(Palace)
高倉宮跡・曇華院跡・初音の森 高倉宮跡・曇華院跡・初音の森 
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「高倉宮跡」の碑京都市教育相談総合センター


京都市教育相談総合センター


「平安京高倉小路西側側溝跡」の表示板、京都府京都文化博物館


「平安京高倉小路西側側溝跡」、長方形の部分、京都府京都文化博物館東の入り口


京都府京都文化博物館



「初音の庭」
 三条烏丸東入ルに建つ京都府京都文化博物館の東、京都市教育相談総合センター西側に、「高倉宮(たかくらのみや)跡」の鞍馬石の石碑が立っている。 
 この付近は、平安時代、平安京左京三条四坊四町にあたる。平安時代後期には以仁王(もちひとおう、1151-1180)の高倉宮御所があった。高倉宮の名は邸宅が、三条高倉に位置していたことに因む。その後、南北朝時代より近代まで通玄寺(つうげんじ)、曇華院(どんげいん)が存在した。
◆歴史年表 平安時代後期、1180年、検非違使・源兼綱、源光長は、平家の命により以仁王を捕えるため高倉宮に向かう。(『山槐記』同年条)
 鎌倉時代、1213年、右近衛中将・藤原成定の邸宅、大膳大夫・平業忠の遺邸、入道三品源顕兼の邸宅が存在したという。(『明月記』同年条)
 南北朝時代、1380年、三条東洞院の高倉宮跡地で、通玄寺の仏殿起工式が行われる。この頃、寺は開かれたとみられ、順徳天皇孫・四辻宮尊雅王娘・智泉聖通(智泉尼)を開祖とした。(『空華日用工夫略集』同年条)
 1385年、智泉尼は通玄寺内に庵室、曇華庵を建て隠居する。
 室町時代、1465年、『蔭涼軒日録』中に通玄寺の記述がある。南門、北門、仏殿、方丈が建てられていた。
 1467年、三条東洞院通玄寺西頬扇屋付近が焼失したとみられる。(『教言卿記』)。通玄寺と合し、曇華院と改称した。
 1485年より翌年、曇華院の築地塀が修造される。(『蔭涼軒日録』)
 1527年、曇華院は焼失し、仏殿だけは残る。
 1552年、後奈良院(第105代)皇女・聖秀尼が曇華院に入寺し再興する。
 天文・永禄年間(1532-1570)、上杉家蔵上杉家本「洛中洛外図屏風」に寺院が描かれ、「どんけいとの」と記されている。
 安土・桃山時代、1603年、曇華院は焼失する。
 江戸時代、寛文年間(1661-1673)、第111代・後西天皇皇女・聖安尼(成禅尼)が入寺し再興する。中興の祖となる。
 1708年、宝永の大火で焼失したとみられる。25世・聖祝尼が入寺し、再興する。
 1788年、焼失したとみられる。
 1807年、竹ノ御所の号を勅許される。
 1827年、27世・秀峰尼が3歳で没後、一時、無住になる。
 1864年、蛤御門の変により焼失する。その後、再び無住となる。
 近代、1873年、28世・清山慈廉尼が入寺し、朝命により嵯峨野・旧鹿王院の子院の瑞応院跡に移る。(『嵯峨誌』)
 この地の東洞院側に府立集書院が建てられる。
 1882年、府立集書院が閉鎖になる。
 1893年、上京第二十六番組小学校が旧地(高倉御池上る柊町)よりこの地に移転する。その後、初音尋常小学校、初音国民学校と引き継がれる。
 現代、1947年、初音中学校に改称する。
 1975年以来、平安博物館、京都文化財団による6次の発掘調査が行われる。
 1880年、南西に西京郵便役所が移転してくる。
 1981年、3次の発掘調査が行われる。
 1906年、南西に日本銀行京都出張所が竣工する。
 1965年、日本銀行京都出張所が二条河原町に移転する。
 1968年、旧日本銀行京都出張所の地に平安博物館が開館する。
 1993年、初音中学校は閉校した。その後、京都市教育相談総合センター(パトナ)などが建てられている。
以仁王 平安時代後期の皇族・以仁王(もちひとおう、1151-1180)。第77代・後白河天皇の第3(第2とも)皇子。母は藤原成子。高倉宮、三条宮とも呼ばれた。天台座主・最雲法親王弟子となる。1162年、師没後還俗する。1165年、八条院暲子内親王の猶子となる。皇位継承争いで、異母弟憲仁親王(第80代・高倉天皇)生母・平滋子により阻まれた。父と確執もあり親王になれなかった。1179年、平氏の後白河法皇幽閉に伴い、王の寺領は没収された。1180年、源頼政の勧めにより平清盛・平家追討の令旨(りょうじ)を発した。だが、最勝親王と称した挙兵計画が漏れ、皇族籍剥奪、土佐配流と決まる。検非違使の王の館襲撃から脱し、園城寺から興福寺を頼り奈良へ向かう。途中、山城の綺田付近で追手の藤原景高・藤原忠綱らにより討たれたという。以仁王の乱(挙兵)は『平家物語』 『源平盛衰記』に描かれた。学問、詩歌、書、笛にも秀でた。
◆智泉聖通 鎌倉時代末-南北朝時代の臨済宗の尼・智泉聖通(ちせん しょうつう、1309-1388)。智泉尼。第84代・順徳天皇の孫の四辻宮尊雅王の娘。石清水八幡宮の社家・善法寺了清(通清)に嫁ぐ。足利義詮妻・紀良子らを産む。出家し夢窓疎石に師事した。1374年頃、清水坂に庵を結ぶ。1380年頃、高倉通三条上ル西側に通玄寺を創建する。1385年、通玄寺東庵に隠居した。
◆高倉宮跡 遺構は、平安時代の11世紀後半から安土・桃山時代、16世紀にかけてのものが見つかっている。中世以前では石組、井戸、柱穴、土取りの土杭(穴)、溝、柵列があった。近世の石組、井戸、土壙(墓)があり、華南三彩の盤、寺で使われたとみられる敷きせんなども見つかっている。
 平安時代の以仁王の邸宅、高倉宮の発掘調査では、東洞院大路東側溝、高倉小路西側溝、三条大路北側築地跡などが確認された。西側溝からは10世紀の馬の頭骨が見つかり、祭祀に使われたとみられている。12世紀の井戸跡からは多量の土器が出土した。
 なお、西側溝跡は文化博物館入口の床に示されている。また、館内には築地の土層断面の剥ぎ取り標本が保存されている。
◆曇華院 南北朝時代、この地には尼寺五山の一つ、臨済宗の瑞雲山通玄寺という大寺院が建立された。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失、曇華院に統一されて再興された。その後も、焼失しては再興された。江戸時代、1864年、蛤御門の変(禁門の変)で焼失し、以後、再興はされず、近代になり1871年に嵯峨に移された。なお、現在も一帯に、曇華院前町の町名が残っている。 
◆初音の森 かつて、境内の東北の隅には森が広がっていた。「初音(はつね)の森」と呼ばれていたという。
◆番組小 近代、1893年、町衆により創立された上京第二十六番組小学校がこの地に移転し、その後、初音尋常小学校、初音国民学校、初音中学校と引き継がれ、1993年に閉校した。
 現在、京都市教育相談総合センター(パトナ)が新築され、水琴窟のある「初音の庭」も新たに造られた。また、京都万華鏡ミュージアム姉小路館(2004)、不登校の生徒を受け入れる洛風中学校(2004)も併設されている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』、「平安京左京三条四坊四町-高倉宮跡・曇華院跡の調査-京都市埋蔵文化財研究所」、「平安京高倉宮・曇華院跡 平安京跡研究調査報告 8号」『京都・山城寺院神社大事典』


         三条烏丸御所跡      三条東殿跡         曇華院    高倉神社(木津川市)         
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 高倉宮跡・初音の森 京都市中京区曇華院前町,東洞院通姉小路下る  

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