空也堂 (京都市中京区) 
Kuya-do Temple
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鹿角杖(わきづえ)


瓢箪(ひさご、はち)、室町時代の『七十九番職人歌合』のなかに、「無常声 人聞けとてぞ 瓢箪の しばしばめぐる 月の夜念仏」という和歌があるという。


歓喜踊躍(かんぎゆやく)念仏踊



六斎念仏踊
 空也堂(くうやどう)は、空也ゆかりの寺として知られている。空也極楽院とも呼ばれた。山号は紫雲山、院号は極楽院という。正しくは紫雲山光勝寺極楽院(しうんざん こうしょうじ ごくらくいん)という。光勝とは空也が比叡山延暦寺で受戒した法名を表している。 
 天台宗、本尊は空也立像。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、939年、938年、天慶年間(938-947)とも、空也による開創という。当初は三条櫛笥(くしげ、中京区今新在家西町)にあったという。(『空也上人絵伝』「空也堂文書」)。また、弟子・定盛の草創によるともいう。当初は鞍馬にあったともいう。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、時宗に属し、櫛笥道場、市中道場とも呼ばれた。
 鎌倉時代、時宗・一遍(1239-1289)は空也を深く敬愛し、両宗の関係は密接になる。
 南北朝時代、1428年、土一揆で焼ける。(『薩戒記』)
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼亡した。
 その後、道場は西光寺(現在の六波羅蜜寺付近)に移転した。
 江戸時代、寛永年間(1624-1643)、天正年間(1573-1593)とも、現在地に再建されたという。この際に、第108代・後水尾天皇中宮・東福門院の援助があった。(「空也堂文書」『筆のすさび』)。以来、時宗鉢叩念仏弘通派の本山となる。8塔頭を有していた。
 1788年、天明の大火により焼失した。
 1862年、現在地に再建されたともいう。
 1864年、焼失している。
 近代以降、明治期(1868-1912)、天台宗に改宗した。塔頭2院が残る。その後、廃絶する。
 太平洋戦争(1941-1945)中、建物強制疎開により本堂も取り壊しになる。このため、庫裏が本堂に当てられた。
◆空也 平安時代中期の浄土教の僧・空也(くうや、903-972)。詳細不明。第60代・醍醐天皇の第2皇子として生まれたともいう。寺を持たず常に市井にあったことから、市聖(いちのひじり)、弘也、阿弥陀聖、市上人とも呼ばれた。幼少より在家の優婆塞(うばそく)として全国を遍歴した。919年、17歳で市中の遺骸を念仏を唱えながら埋葬した。924年、尾張・国分寺で出家し沙弥空也と名乗る。播磨、奥州、四国で修行し、934年奥羽にも布教した。938年以来、京都で念仏を広める。939年、空也堂を開く。948年、比叡山・天台座主延昌から受戒し、光勝の法名を得たが、終生空也と名乗った。951年、都に流行していた悪疫退散のために、自ら十一面観音を刻み、車に乗せ市中を曳き廻した。病人に茶を授け、歓喜踊躍の念仏踊で病魔を鎮めた。病人は平癒したという。その典茶・皇服茶(おうぶくちゃ、王服茶)は、身分の隔てなく分け与えられた。その時の踊躍は六斎念仏として今も伝わる。963年金泥『大般若経』 600巻の書写事業を完成させている。鴨川河原に一寺(のちの西光寺、六波羅蜜寺とも)を建て供養会を行う。東山の西光寺(六波羅蜜寺)で没した。墓は全国に複数ある。
 各地で橋を架け、道路や井戸の整備、遺棄された骸を火葬して荼毘(だび)にふすなどの社会事業も行った。空也の菩薩行は行基につながる。称名念仏により、既存の国家、権勢、知識層の仏教から庶民の仏教を唱えた。後の法然、親鸞の専修念仏に影響を与える。一遍は空也を崇敬した。
◆平定盛 平安時代中期の僧・平定盛(生没年不詳)。詳細不明。定阿弥法師。かつて猟師であり、鹿を殺めたことを空也に諌められる。以後、殺生の罪を悔い、空也の弟子になる。有髪妻帯の僧となる。空也堂2世。瓢叩き、和讃を唱え洛中に念仏踊を勧め、空也踊躍念仏の祖とされた。
 武将・平貞盛は別人。
◆本尊 本堂に空也自作という「空也立像」が安置されている。
◆鉢叩き 江戸時代、寺は「鉢叩(はちたた)き」の本拠地になる。鉢叩きは、布教の際に竹枝の撥で瓢箪(ひさご、はち)を叩く事から名付けられた。後に鉢屋、茶筅とも呼ばれ、最下層の仏教教化集団(空也僧)として社会的に差別されていたとみられている。
 鉢叩きは、少なくとも南北朝時代より現れた。江戸時代には、光勝寺(空也堂)門前の敲町(たたきまち/たたきちょう)に、18軒の家(十八家)があった。彼らは剃髪せず、妻帯し、庶民向けに茶筅(物を洗う道具でもあった)を朝市で売っていたという。この茶筅で茶を点て飲む茶を大福茶といい、疫病退散の効用があるといわれた。また、極楽院内の上人という老僧は、肉食妻帯せず、剃髪し、僧衣を着ていた。
 伝承によれば、空也は貴船に住んだという。夜毎に啼く鹿の声を愛した。ある時、平定盛(平貞盛のことともいう)は、この鹿を殺す。空也は哀しみ、その鹿の皮を得て、皮衣とした。鹿の角は杖の頭に付けて愛用した。以来、定盛は自らの行いを悔い、僧籍に入る。十八家とはその子孫という。
 鉢叩きにより、冬(12月13日-大晦日)に寒行が行われた。墓所、葬場、火屋(火葬場)を回り竹枝で瓢を叩き、念仏を唱え、無常の頌文(じゅもん/きょうぶん)という詩を唱え歩いた。(黒川道祐『擁州府志』、1868年)。寺では、一遍の踊り念仏と関わり深い、空也堂の踊り念仏も行われていた。
 近世以降、空也堂は諸国の空也僧を統括する。幕末、六斎念仏講中に免状を与えるなどの特権を有していた。
◆年間行事 開山忌(空也忌)法要(江戸時代には空也の命日に当たる旧暦11月13日に行われていた。この日は、965年に空也が奥羽教化に旅立った日という。当日、勤行、王服茶<おうぶくちゃ>の献茶式、空也僧による歓喜踊躍<かんぎゆやく>念仏が行われる。瓢箪、鉦、太鼓を鳴らす踊り念仏をいう。六斎念仏焼香式<重要無形民俗文化財>も行われている。)(11月第2日曜日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『一遍辞典』『京都古社寺辞典』『京都 歴史案内』 『京都府の歴史散歩 上』『京都の寺社505を歩く 上』『京都隠れた史跡100選』『京の寺 不思議見聞録』


                六波羅蜜寺      空也寺          
 空也堂 〒604-8253 京都市中京区亀屋町288,蛸薬師通堀川東入  075-255-1585
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