蹴上 (京都市左京区)
Keage

50音索引  Home 50音索引  Home

蹴上付近の町並み、ただ、ほとんどはビル建てに変わっている。山科、滋賀県に通じている三条通は交通量もかなり多い。


蹴上発電所


合槌稲荷明神
かつて粟田口には刀鍛冶の集落があった。ここには、平安時代の中期に、刀匠三条小鍛冶宗近が信仰した稲荷の祠堂があったという。宗近は、信濃守粟田藤四郎と号し、粟田口三条坊に住んでいたという。謡曲「小鍛冶」には、稲荷明神の神助により名刀小狐丸を打つ。この時、合槌をつとめた明神を祀ったともいう。また、宗近は、鋳るのに稲荷山の土を使ったともいう。


 蹴上(けあげ)は、旧東海道が京都三条通に通じる九条山などの谷あいの急坂をいう。かつて愛宕郡と宇治郡の群境になっていた。 
 近代以降は、琵琶湖疏水(1890)の完成に伴い、船溜、インクラインや発電所(1891)、浄水場(1912)、京津電気軌道(現・京阪京津線、1912)などの施設が集中し、東京遷都(1869)後の京都復興、近代化の象徴的な場所になった。
◆歴史年表 江戸時代、1684年、「蹴挙水(けあげすい)」について記されている。(『雍州府志』)
 1706年、貝原益軒は「蹴上」と記し、地名の初出になる。(『京城勝覧』)
 1780年、「けあげの水」と記されている。(『都名所図会』)
◆蹴上 蹴上の語源としては「つま先上がりとなるほどの急坂」を意味するという。
 平安時代の源義経(1159-1189)についての伝承がある。牛若丸(義経)は、鞍馬山より橘次(さつじ)末春(金売吉次、吉次信高)に従い、奥州平泉・藤原秀衡のもとに赴いた。それに先立ち、首途(かどで)八幡宮で旅の無事を祈願した。
 現在の蹴上付近で、京都へ入る平家の武士、美濃国の関原与市(与一)らの一行とすれ違う。その従者の一人が峠の湧水を撥ね、牛若丸の衣を汚した。牛若丸は怒り、10人(9人とも)の武士をその場で切り捨て、与一の耳鼻は削いで追い払った。また、与一も斬られたともいう。牛若丸は、東へ向かう門出の吉兆として喜んだ。斬られた人々のために、九体の地蔵(九体仏)を安置して弔ったともいう。その場所は九体町付近とされる。(『雍州府志』)
 そのうちの一体は、「義経大日如来」としてインクラインを登った近くに祀られている。かつて、祠の傍らに「鎧掛けの松」があったという。九条山には4体の石仏がいまも点在するという。
 義経が血糊の刀を洗ったとされるのが゜太刀洗池」といわれる。蹴上の南東に当たる現在の山科区御陵血洗町(みささぎ ちあらいちょう)付近にあったという。
◆与謝野晶子 蹴上浄水場には歌人・与謝野晶子の歌碑がある。かつてこの地に、「辻野」という旅館があった。1900年夏、与謝野鉄幹(1873-1945)、弟子の鳳晶子(後の与謝野晶子、1878-1942)、山川登美子(1879-1909)は、互いに歌人として大阪で知り合う。秋、3人は旅館「辻野」に同泊した。
 「御目ざめの鐘は知恩院聖護院いでて見たまへ紫の水」と晶子は詠んだ。
 その年、登美子は結婚、次の年に鉄幹は晶子と再々婚した。結婚後の鉄幹は目だった活躍の場はなく、晶子は、歌人、作家としての名声を得て、評論活動、女性解放運動の思想家としても幅広く活動した。
 登美子の夫は結婚2年目に病別する。やがて登美子も肺結核を発病し、伏見桃山で静養の後、30歳の生涯を閉じた。
 佐藤春夫『晶子曼荼羅』には、旧師鉄幹と2人の女性が見たであろう永観堂の紅葉の一説がある。
 なお、与謝野晶子の歌碑は市内各所に12か所ある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都隠れた史跡100選』『京都の地名検証 3』


  粟田神社      合槌稲荷明神      三条大橋      琵琶湖疏水                

インクラインを上り詰めたところにある「義経大日如来」

義経大日如来

蹴上浄水場内にある与謝野晶子の歌碑「御目ざめの鐘は知恩院聖護院いでて見たまへ紫の水」

蹴上浄水場はツツジの名所で知られており、例年5月初旬に公開されている。
 蹴上 京都市東山区谷川町付近 

より大きな地図で 蹴上 を表示
50音索引  Home   50音索引  Home  
  © 2006- Kyotofukoh,京都風光 http://www.kyotofukoh.jp