京都霊山護国神社(京都神社) (京都市東山区)
Kyoto‐ryozen‐gokoku‐jinja Shrine
京都霊山護国神社 京都霊山護国神社
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参道途中に立つ「維新の道」の碑、第二次世界大戦後荒廃していた付近一帯を整備するために、1968年に霊山顕彰会が発足し、1970年、「維新の道」と名付けられた。初代会長の松下幸之助揮毫による。結晶片岩。
 京都霊山護国神社(きょうと りょうぜん ごこく じんじゃ)は、京都神社ともいわれている。 
 祭神は、1853年以降の幕末、維新に戦没した志士、第二次世界大戦までの京都府出身の戦死兵など7万3000柱が祀られている。 
◆歴史年表 江戸時代末、1809年、村上都愷(くにやす)は、時宗の正法寺境内に霊明神社を建立した。以後、幕末期の動乱で犠牲になった尊皇攘夷の志士の葬儀が行われるようになり、各藩の戦没者が祀られた。
 近代、1868年、第122代・明治天皇の太政官布告により、霊山官祭招魂社(りょうぜん かんさい しょうこんしゃ)として全国に先駆け当社が創立された。長州、土佐、福岡などの諸藩が社殿を創建した。盛大な祭典が執り行われる。
 1878年、1877年とも、皇室費用により社域が整備され、その後も続いた。
 1929年、第124代・昭和天皇即位大礼の際の建物も移築される。
 1936年、造営奉賛会により境内拡張、社殿の新造が行われた。
 1939年、当社、ほか3社の官祭招魂社を合併し、京都霊山護国神社と改称される。第二次世界大戦の戦線拡大に伴い、護国神社制度の制定により各道府県に護国神社が指定された。当社社殿の造営、境内の拡張が行われ、京都府出身の一般戦没者も祀るようになる。
 現代、第二次世界大戦後、京都神社と改称した。
 1952年、京都霊山護国神社に復称になる。
 1968年、松下幸之助は、霊山顕彰会を設立し、荒廃した境内の整備、修復を行う。
 1970年、霊山歴史館が開館した。参道、史跡公園「維新の道」も整備された。
◆墓・慰霊碑 境内には幕末、維新の志士の墓300、1356柱がある。おもな墓は、1858年の安政の大獄関連の梁川星巌、三樹三郎、梅田雲浜、月照。幕府に対する蜂起、1863年の天誅組の変の中山忠光、吉村寅太郎、1863年の生野の変の平野国臣。1864年の蛤御門の変の長州・久坂玄瑞・来島又兵衛・入江九一・寺島忠三郎。1864年の池田屋事件の長州・吉田稔麿、肥後・宮部鼎蔵。1867年の近江屋で暗殺された坂本龍馬・中岡慎太郎。木戸孝允(桂小五郎)と妻の幾松など数多い。
 高知招魂社、山口招魂社、京都招魂社、岐阜招魂社、熊本招魂社、福岡招魂社、茨城招魂社、鳥取招魂社、六十七士骨碑、霊山表忠碑、木戸公神道碑などがある。
 陸軍特別操縦見習士官の慰霊碑をはじめ、近代以降の陸海軍、騎兵、捜索、歩兵、工兵、輜重兵、野砲、衛生、防疫給水部、駆逐艦『長波』など各連隊などの慰霊碑も数多く立つ。
 従軍記念公園「昭和の杜」(1997)、極東国際軍事裁判のインド代表判事で、唯一日本人被告全員の無罪を主張したパール博士顕彰碑(1997)も新設された。
 なお、幕末期の動乱による長州、土佐、薩摩各藩の維新志士、戊辰戦争戦没者は、1868年に鴨川河畔の河東操練場において戦没者慰霊祭が行われている。
 京都の連隊は、第四師団下の第三八連隊が新設され、その後、第十六師団が増設された。京都からは日清戦争(1894-1895)に派兵されたが戦死者は出なかった。日露戦争(1904-1905)の二〇三高地攻撃にも参戦、満州事変(1931-1932)、日中戦争(1937-1945)、太平洋戦争(1941-1945)ではフィリピン島、トラック諸島、硫黄島守備隊に派遣され多くの戦死者があった。これらの戦没者は当社に合祀されている。
 隣接する霊山歴史館では明治維新関連の資料、文献を展示公開している。
◆年間行事 春季例大祭(4月28日)、御鎮座祭(5月10日)、みたま祭(8月13日-16日)、秋季例大祭(10月14日)、龍馬祭(11月15日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都の寺社505を歩く 上』『おんなの史跡を歩く』『あなたの知らない京都府の歴史』『京都の自然ふしぎ見聞録』


  霊明神社      正法寺             


拝殿右に東控、左に西控、背後に本殿がある。本殿西に神饌所、楽舎が建つ。






坂本龍馬(手前)・中岡慎太郎の墓、坂本龍馬(1836-1867)は、1867年12月10日、河原町蛸薬師の醤油商「近江屋新助」宅母屋二階で、「十津川郷士」ら数人により暗殺されたという。当日、訪れていた中岡慎太郎(1838-1867)も斬られた。まだ2日は息があり12日に亡くなる。龍馬33歳、慎太郎29歳。
 墓は1868年に海援隊、近江屋の資金により立てられた。近江屋内儀・スミ(?-1915)が生涯にわたり墓参を続けたという。

坂本龍馬(奥)・中岡慎太郎の銅像。


蛤御門の変の戦死者の墓石



高杉晋作墓

久坂元瑞墓

木戸孝允墓(1833-1877)、長州藩士、政治家。隣に妻・幾松の墓もある。



木戸公神道碑

安政の大獄犠牲者の慰霊碑、梁川星巌、三樹三郎、梅田雲浜、月照らの慰霊。



霊山表忠碑木戸公神道碑


各連隊などの顕彰碑が建ち並ぶ。下はビルマ戦線の戦死者2953柱、第53師団歩兵第128連隊。

従軍記念公園「昭和の杜」、戦没者の氏名が刻まれている。

パール博士顕彰碑(1997)、ラダ・ビノード・パール(Radha Binod Pal、1886-1967)は、インドの法学者、裁判官。極東国際軍事裁判(東京裁判)において、11人の判事の中で唯一、東條英機、板垣征四郎ら被告人全員を無罪とする「意見書」(「パール判決書」)を作成した。

特操の碑、太平洋戦争の1943年10月以来、陸軍特別操縦見習士官は4期、2500人の募集が行われた。師範学校・専門学校・高等学校・大学に在学した学生を対象としていたが、戦局の悪化に伴い繰り上げ卒業した若者が多数を占め、特攻の予備役将校として多くの犠牲者を出した。

墓地よりの市街地の景観

【参照】霊山歴史館




【参照】山荘京大和、維新の道の途中にある翠紅(すいこう)館、かつては正法寺塔頭の叔阿弥(宿阿み)であり、貸座敷のひとつとして文人墨客が訪れた。
 送陽亭では、1863年に尊皇攘夷の志士が初めて合同の会議を開いた。1月27日、翠紅館広間に坂本龍馬、三条実美、桂小五郎が集まる。6月17日、各藩の代表による翠紅館会議が開かれた。

【参照】幕末志士葬送の道(霊山正法寺道、龍馬坂)、江戸時代末期、1867年11月15日、近江屋で殺された坂本龍馬、中岡慎太郎、山田藤吉の遺体は、この坂道を担がれ霊山社へ運ばれ葬られたとみられている。


【参照】幕末志士葬送の道の南の墓地には、土佐高知藩神霊社があり、その東に大和国で挙兵し戦死した吉村虎太郎、天誅組志士の墓があった。

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 京都霊山護国神社 〒605-0861 京都市東山区清閑寺霊山町1  075-561-7124
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