宝鏡寺 (人形寺) (京都市上京区)
Hokyo-ji Temple
宝鏡寺 (人形寺) 宝鏡寺 (人形寺)
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大門、江戸時代、1788年の天明の大火により焼失した。1830年に再建された。













大玄関


大玄関





本堂


寺の辻向かいにある京和傘店が、境内で和傘を天日干していることがある。塗られた亜麻仁油を境内で乾かしす。


庭園


庭園、御輿寄せの石


人形供養祭、島原大夫による舞いの奉納


雛人形、江戸時代後期の有職雛(直衣、小袿)、公家の姿が忠実に再現されている。


人形塚、「人形よ 誰がつくりしか 誰に愛されしか 知らねども 愛された事実こそ 汝が成仏の誠なれ」、武者小路実篤の詩文。像は吉川観方作。


【参照】百々橋跡、境内の東小川通寺之内角にある。かつてここに小川があり、橋が架けられていた。室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)の際には、東西軍がこの付近で対峙し、度々戦闘を繰り広げた。


 門跡尼院の宝鏡寺 (ほうきょうじ)は、皇室とゆかりある人形の蒐集で知られ、「人形寺」とも呼ばれている。かつて、景愛寺派の比丘尼御所になっていた。「百々御所(どどのごしょ)」とも呼ばれた。山号を西山(せいざん)という。
 臨済宗単立の門跡の尼寺。本尊は聖観世音菩薩。 
 神仏霊場会第97番、京都17番。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 鎌倉時代、応安年間(1368-1375)、北朝初代・光厳天皇皇女・華林宮恵厳禅尼(かりんのみや えごんぜんに)が、御所に安置されていた聖観世音菩薩を景愛寺支院・建福尼寺(けんぷくにじ、建福寺、福尼寺、五条大宮)に安置した。寺を現在地に移して再興し、西山宝鏡寺と改めたことに始まるという。(寺伝)
 北朝第4代・後光厳天皇(在位1352-1371)により、寺号の宝鏡寺を贈られたという。聖観世音菩薩が膝の上に小さな宝鏡を持っていたことに因る。
 足利義満(1358-1408)は、父・義詮(1330-1367)の安牌所として鹿王院(右京区、現在地の北)の西に西面して建てたともいう。義満の妹・恵照(桂林理昌尼)を1世としたともいう。
 室町時代、1426年頃、宝鏡寺は嵯峨・天龍寺近くにあったという。(『応永鈞命絵図』)。現在地には、足利義政(1436-1490)・日野富子(1440-1496)夫妻の住した小川御所(小川殿)があったという。かつて細川勝元より借用していた別荘地だった。
 1468年、嵯峨の兵火により焼失した。洛中に避け、小川殿、北路寺之内を隔てた現在地の南半に移る。北には南御所大慈院があった。
 1474年、義政は不仲な富子、息子の義尚(後の9代将軍)と別れ、花の御所から小川御所に移る。
 1476年、花の御所が戦火により焼失した。富子・義尚も小川邸へ移り住む。義政は東御殿に、富子は西の御所に別れて住んだという。
 1483年、東山山荘常御所が完成し、義政は一人移る。
 15世紀(1401-1500)末、宝鏡寺は洛中・大慈院近くに移ったとみられる。
 江戸時代初期、宝鏡寺、大慈院は一境内にあり、寺之内に宝鏡寺の門があり、大慈院の上﨟恵聖院、瑞華院は西北隅にあった。
 1644年、第108代・後水尾天皇皇女・久厳理昌尼(くごんりしょうに)が入寺し、以後、再び尼門跡寺院になる。「百々御所」とも呼ばれた。小川付近の東西の通りが、「百々の辻」と呼ばれたことに因む。
 1689年、徳巌理豊尼(とくごん りほうに)が22世門跡に就き中興する。
 1763年頃、23世・逸厳理長尼(いつごん りちょうに)の時、画家・円山応挙が寺に出仕していた。
 1764年、「百々御所」の御所号を勅許されたともいう。
 1788年、天明の大火で焼失している。
 1789年、第119代・光格天皇の勅命により書院が再建された。
 1830年、1827年、天保年間(1830-1844)とも、本堂、書院、使者の間、玄関、阿弥陀堂などが再建される。光格天皇皇女・欽宮蓁子内親王(1824-1842)が入寺し復興される。
 1847年、御所の建物の古材により阿弥陀堂(勅作堂)が再建された。
 1849年、末寺・養林庵に寂宗觀光が入り10世となる。以後、養林庵は曹洞宗に転じた。
 1857年、皇女和宮は1月より4カ月間(5カ月間とも)を当寺で過ごした。
 近代、1868年、皇族の出家が禁じられ無住になる。相国寺派が管理する。
 1871年、門跡、比丘尼御所が廃止された。
 1873年、再び住持が決まる。
 1884年、養林庵は宝鏡寺末を離れ、曹洞宗天寧寺末に転じた。
 現代、1957年、27世・花山院慈薫尼の時、寺宝の人形の一般公開が始まる。以後、恒例になった。
 1959年、人形塚が建立される。
 2003年、ワールド・モニュメント財団(ニューヨーク)により勅作堂が修復される。
◆華林宮恵厳禅尼 南北朝時代の尼僧・華林宮恵厳禅尼(かりんのみや えごんぜんに、?-1386)。北朝第1代・光厳天皇皇女。尼五山のひとつ景愛寺6世。御所に安置されていた聖観世音菩薩を景愛寺支院・建福尼寺(けんぷくにじ、建福寺、五条大宮)に安置し、寺を再興、西山宝鏡寺と改めたともいう。
◆恵照 室町時代前期の尼僧・恵照(けいしょう、? -1422)。法名は桂林昌公。宝鏡寺殿。室町幕府第2代将軍・足利義詮の娘。第3代将軍・足利義満の妹。宝鏡寺に入室、初代住持になったともいう。足利将軍家女子の中で尼寺に入室した初例であり、以後、将軍家女子の比丘尼御所入室が続いた。
◆日野富子 室町時代の女性・日野富子(ひの とみこ、1440-1496)。日野政光(重政)の娘、日野勝光の妹。1455年、16歳で8代将軍・足利義政の室となる。男子死産により、1459年、義政の乳母・愛妾の今参局(いままいり の つぼね)を呪詛事件の咎により自殺に追う。義政に世継ぎなく、1464年、義政は弟・浄土寺門主義尋(義視)を還俗させ養子にした。だが、翌1465年、富子は義尚を産む。1466年、富子は我が子を将軍後継とし、山名持豊(宗全)と結ぶ。義政・弟義視(よしみ)を推す細川勝元と争い、応仁・文明の乱(1467-1477)の一因になったとされる。1471年、義政は室町御所より細川勝元の屋敷に移る。1473年、義尚が9代将軍となり、富子は幕政に関与した。東西軍の武将への高利貸し、米相場、賄賂、1459年、関所7か所新設による関銭の徴収などで蓄財した。1473年、義政没、1477年、応仁・文明の乱の終結に尽力した。1489年、義尚没となり、晩年は尼僧になり妙善院と称した。
◆耀山 室町時代-安土・桃山時代の尼僧・耀山(生没年不詳)。詳細不明。大慈院耀山聖□尼。足利義輝(1536-1565)の娘。大慈院住持、宝鏡寺兼帯。
◆玉山理光尼 江戸時代の尼僧・玉山理光尼(生没年不詳)。詳細不明。公卿・鷹司信房(1565-1658)の娘。徳川家光室・孝子の姉。耀山の弟子。宝鏡寺住持、大慈院兼帯。
◆理昌女王 江戸時代の皇女・理昌女王(りしょうじょおう、1631-1656)。久岳理昌尼。第108代・後水尾天皇の第5皇女、母は逢春門院。幼称は八重宮。玉山理光尼の弟子。1646年、得度し宝鏡寺20世、景愛寺住持となり紫衣をゆるされた。26歳で亡くなり仙寿院と追号、法名は久巌(くごん)理昌。
◆徳巌理豊 江戸時代の尼僧・徳巌理豊(とくごん りほう、1672-1745)。理豊女王。第111代・後西天皇の第11皇女。母は典侍清閑寺共子。1683年、宝鏡寺に入り理忠女王により得度、1689年、宝鏡寺22世門跡として修復、中興する。1707年、景愛寺住持となり紫衣を許された。絵を狩野周信に学び、能書家としても知られた。墓所は真如寺内の宝鏡寺宮陵にある。
◆霊厳理欽 江戸時代の尼僧・霊厳理欽(れいごん りきん、?-1842)。光格天皇皇女。第24世門跡。
◆和宮親子内親王
 江戸時代の皇女・和宮親子内親王(かずのみや ちかこ ないしんのう、1846‐1877)。京都御所の東、橋本邸で生まれる。名は親子、和宮、静寛院宮。第120代・仁孝天皇の第8皇女、母は権大納言・橋本実久の娘・経子。第121代・孝明天皇の妹。孝明天皇の思し召しにより、1851年、6歳で有栖川宮熾仁親王(17歳)と婚約した。1860年、桜田門外の変後、婚約破棄となり、朝幕関係融和のため、公武合体政策により政略結婚として降嫁の話が出る。孝明天皇は当初、反対した。桂宮邸に移る。1861年、内親王宣下、桂宮邸より江戸に出発し、14代将軍・徳川家茂の正室として降嫁した。1862年、婚儀、1866年、家茂没後、落飾して静寛院と称した。この頃、母、夫、兄を相次いで失う。1867年、大政奉還以降、徳川家救済のため朝廷との間で尽力した。1868年、戊辰戦争で熾仁親王は東征大総督となり、江戸城を目指した。和宮は親王宛に江戸城中止を懇願する。1869年、和宮は京都に戻り聖護院、旧朝彦親王邸に過ごす。1874年、東京に戻る。1877年、療養地の箱根で亡くなる。墓は芝・増上寺に夫ともに葬られた。32歳。
 宝鏡寺には、幼少期の和宮が庭で遊んだという。一時、寺に預けられていたともいう。
◆景愛寺
 鎌倉時代の無外如大尼(1223-1298)が中国よりの渡来僧・仏光国師(円覚寺開山 無学祖元、1226-1186)の門に入り出家、1285年(弘安年間<1278-1288>とも)に景愛寺(けいあいじ)を創建したという。
 臨済禅の尼寺で、「京兆尼五山」(1285)(景愛寺、通玄寺、壇林寺、護念寺、恵林寺)の第一位になる。尼五山とは、将軍家の姫君が比丘尼(びくに)として出家する寺を意味し、比丘尼御所ともいわれた。足利家の庇護により栄えた。
 室町時代、1498年に堂宇は焼失し、その後、再建されなかったという。景愛寺開山の無外如大尼の法脈を称する「建聖院文書」は、建聖院より恵聖院、大慈院を経て宝鏡院に移された。この中で、宝鏡院の開山は、華林恵厳とした。建聖院歴代を宝鏡寺に入れ、真如寺を菩提寺に加えた。真如寺は無外尼と建聖院の塔所になる。さらに、従来の菩提寺である龍安寺の華屋理春尼の塔より分霊した。
 景愛寺の称号は、法燈を継ぐ宝鏡寺、大聖寺両住持により継承された。宝鏡寺は、比丘尼御所第二席となり、黒衣の他の尼寺に比して、大聖寺に継ぎ紫衣の勅許を得る二寺になった。
◆仏像・木像 本堂内陣の本尊「聖観世音菩薩」は、小さな宝鏡を手にし、寺号の由来になった。伝承がある。菩薩はかつて伊勢二見浦で漁網にかかり海中より引き揚げられる。その際にこの宝鏡が光り輝いたという。菩薩像は朝廷に献上され、御所に安置されていたという。華林宮恵厳禅尼により、景愛寺支院・建福尼寺を経て、その後、宝鏡寺に遷されたものという。
 ほかに御所より贈られた「釈迦如来像」、歴代天皇、皇后の位牌も安置されている。
 勅作堂(阿弥陀堂)に、江戸時代の第119代・光格天皇作という「阿弥陀如来像」がある。兄の第120代・仁孝天皇没後に安置された。また、近代に入り包括された大慈院の本尊だった「阿弥陀如来立像」、開基・「崇賢門院像」、「日野富子坐像」も安置されている。大慈院は、寺に隣接しており、日野富子が入寺、出家した。像高30cm。
◆建築 書院、本堂、阿弥陀堂、表門が京都市有形文化財に指定されている。近代に入り、小書院、上﨟休所が失われた。
 「本堂」は、天保年間(1830-1844)の再建という。
 「阿弥陀堂(勅作堂)」は、光格天皇皇女・霊巌理欽尼が宮中より移築した。
◆文化財 中世以来の古文書を所蔵する。近世の宝鏡寺、大慈院、建聖院文書も残る。
 江戸時代の「徳巌理豊尼自画像」、大随道機和尚筆「徳巌理豊尼印可状・源流法脈」「徳巌理豊尼所用七条袈裟」。伝・後水尾天皇筆「達磨像」、徳巌理豊筆「達磨像」「飛鳥田大明神名号」「源氏香絵」、栄子内親王画「梅花小禽図」、光格天皇より贈られた「三麼地院宮産着」「旅用茶道具」、狩野晴川院筆「団扇、桜図・波に兎図」、三麼地院宮所用「深曽木道具一式 横目扇と青石」、「源氏絵カルタ」、「千代のさうし」、「投扇輿」、羽子板の「左義長図」。
 第120代・仁孝天皇の第8皇女皇で、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂正室の皇女和宮(和宮親子内親王、1846-1877)が幼少期に寺に住んだ。遺愛の「黒塗桜螺鈿文箱」などがある。
◆障壁画 書院に、江戸時代の円山派絵師で応挙の孫・応震筆による襖絵「四季耕作図」18面(1833)は、金砂子地に淡彩で描かれている。
 吉村孝敬筆「猿島鶴図(桧に猿図)」11面がある。金砂子地に淡彩で描かれている。
 本堂に、江戸時代の狩野探幽筆「秋草花図」「花鳥図」12面がある。
◆御所人形 江戸時代の第119代・光格天皇、第121代・孝明天皇遺愛の人形「孝明さん」、皇室関連の人形(御所人形、加茂人形、市松人形、有職雛人形、猩々人形)がある。「享保雛」はもっとも古い。調度品、蒔絵の盤双六などの小道具も数多く残る。
 22代門跡・本覚院宮(徳巌理豊尼)作で遺愛の「万勢伊(ばんぜい)さん」といわれる童女の三つ折り人形は、腰、膝、足首の部分を曲げることができる。季節毎の衣裳、漢詩和歌小屏風などの調度品、硯箱、百人一首、歌留多などの小道具も揃えられている。万勢伊さんについての逸話がある。夜に文机に向かう人があると、万勢伊さんが筆を差し出してこれを手伝っていたという。
 光明天皇遺愛の御所人形「孝明さん」は、三頭身の坐った男児の人形で、赤い縮緬の着物を着せられている。天皇没後に形見分けで当寺に贈られた。
 光格天皇より贈られたという衣裳人形「猩々」は、能を舞う立ち姿の人形で、紅く髪を長く垂らしている。疱瘡に罹った娘・10歳の霊厳理欽尼(24世)のために作られた。人形に託す病除けの意味があり、幸いに病気は平癒したという。
 毛植人形「小犬」は、首を傾げ坐る白と黒の斑の犬で、首に赤い首輪を巻き鈴をかけている。張子になっており、絹糸で植毛されている。
◆百々 宝鏡寺は百々(どど)御所とも呼ばれる。百々は百々氏という豪族が住んだ地のためともいう。境内の南の寺之内通の一部を「百々の辻」と呼んだ。森幸安が応仁・文明の乱(1467-1477)以後、120年間の荒廃した京都の様子を図にした「中昔京師絵地図」(1753)にもその名がある。
◆庭園 本堂南の南庭は、枯山水式の平庭であり、一面に苔が広がる。南の塀よりに楓の老大木が植えられ、見事な枝振りが庭面を低く覆う。葉枝は透かし剪定が行われてる。東南隅にはモッコクの古木がある。
 本堂の東に東庭があり、桜、椿、楓、柿、花梨など四季を彩る樹木が植えられている。
 本堂の北に「鶴亀の庭」がある。江戸時代、徳川家に降嫁した皇女和宮(1846-1877)が遊んだ庭という。苔の覆う築山を亀とし、灯籠の傍に斜めに亀頭石を置き、枯地の御影切石の護岸石組を鶴に見立てている。苔地に松などの植栽があり、石組、切石、飛石が配されている。
 本堂の北に書院中庭がある。枯山水式の坪庭であり、八重桜、椿などが植えられている。小さな築山に較べ大振りの滝組がある。枯地の流れに地に接する形で、低い切石の橋2枚石が架かり、飛石へ続いている。
◆花木 椿が境内に植えられている。肥後椿の原木になった「熊谷」が知られる。京椿の名品「月光」、中庭に朱色の八重散り椿の「村娘」がある。「玉兎(たまうさぎ)」がある。
 伊勢撫子(宝鏡寺撫子)は、光格天皇が「有栖川種の伊勢撫子」として大切にしていたもので、伊勢国有栖川家より贈られた。以来、歴代の門跡により種が守られている。
 中庭の「奈良の都の八重桜」は、花弁の大きな牡丹桜として知られている。桂離宮の円林寺建立の際に移植された。
御所言葉 かつて宮中で、女性たちにより伝えられてきた御所詞(ごしょことば)、宝鏡寺様の『源氏物語』の訓、観音懺法(経を誦し懺悔する法要)が伝えられてきた。
 御所の言葉はいまも尼僧の間にわずかながら残る。住持・平松周禅尼がよく伝えた。たとえば、挨拶には「ごきげんよう」を用いる。豆腐は「おかべ」、寿司は「おすもじ」、味噌は「おむし」、蒲鉾は「おいた」、素麺は「ぞろ」などという。秋刀魚は紫式部が好物だったらしく、「むらさき」などともいわれた。
◆人形塚 境内には人形塚があり、武者小路実篤(1885-1976)の詞が刻まれている。京人形商工業協同組合有志により建立された。人形供養祭(10月14日)が行われている。
◆花暦 椿(3月)、伊勢撫子(5月-6月)、楓(11月)。
◆年間行事 ひな祭り(3月1日)、春の一般公開・人形展(3月1日-4月3日)、人形供養祭(人形供養、島原大夫による奉納舞)(10月14日)、秋の一般公開・人形展(11月1日-11月30日)。


*普段は非公開。現在は建物、庭園も撮影禁止。
*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『尼門跡寺院の世界』『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 上』『京都の寺社505を歩く 上』『京都大事典』『京都歴史案内』『京の尼寺 こころの旅』『古都の尼寺』『京の橋ものがたり』『おんなの旅路 京・奈良の尼寺』『おんなの史跡を歩く』『京に燃えたおんな』『京を彩った女たち』『女たちの京都』『名庭 5 京都尼寺の庭』『昭和京都名所図会 5 洛中』『京都 神社と寺院の森』『週刊 古社名刹巡礼の旅 42 御所界隈 京都』『週刊 京都を歩く 32 相国寺周辺』



   小川通      本法寺      妙蓮寺      応仁・文明の乱戦跡、西陣      関連大聖寺     関連慈受院門跡       関連光照院     関連三時知恩寺      関連宝慈院      関連西方尼寺・本光院門跡     関連大歓喜寺       関連林丘寺     関連霊鑑寺      関連曇華院      関連真如寺〔相国寺〕          

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宝鏡寺 〒602-0072 京都市上京区百々町,寺之内通堀川東入る  075-451-1550  10:00-16:00

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