引接寺 (千本閻魔堂)・千本 (京都市上京区)
Injo-ji Temple
引接寺 (千本閻魔堂) 引接寺 (千本閻魔堂)
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本殿


本殿


本殿


本殿、香炉


本殿、閻魔大王


本殿、賓頭盧尊者( びんずるそんじゃ)


本殿、萬倍碗(まんばいわん)、一抱えほどあり、閻魔大王の湯呑み茶碗という。茶碗に賽銭を投げ入れることができると1万日のお参りに相当するという。


炮烙、狂言の炮烙割で使うものという。


地獄絵、狩野元信筆、現存する地獄壁画の板絵では最大であり『日本史』にも登場する。


地獄絵、閻魔大王らしき姿が描かれている。




鐘楼


鐘楼、梵鐘(京都市指定文化財)、南北朝時代の圓阿上人が勧進したものという。


地蔵池、かつての朱雀大路より発掘されたという数十体の地蔵も安置されている。






童観音、力石


大杉大明神


茶釜塚
 千本通に面している引接寺(いんじょうじ)は、千本閻魔堂(せんぼんえんまどう)、えんまん堂ともいわれる。蓮台野は古くより葬送地になっており、お盆、精霊迎えの根本霊場として知られていた。正式には、「光明山歓喜院(こうみょうざん かんきいん)」という。
 高野山真言宗、智積院末。本尊は閻魔(えんま)王像。
 京の通称寺霊場1番、千本閻魔堂。尼寺霊場の一つ。
 極楽往生、悪行更生供養、水子供養、所願成就などの信仰がある。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 飛鳥時代、皇族・政治家・厩戸王(うまやどのおう、聖徳太子、574-622)の創建によるともいう。
 平安時代前期、官人・学者・小野篁(802-853)により創建された祠を始まりとするともいう。精霊迎えの法を行う根本道場として、朱雀大路の北に建立した。閻魔王の姿を刻み祠に安置したという。
 僧・寛空(884-972)により真言宗に改宗したともいう。
 1017年、寛仁年間(1017-1021)とも、定覚(じょうがく)は藤原道長の援助により開山したともいう。法界四生の大念仏が起こりともいう。寺名は「諸人化導引接仏道(人々を仏の道に導く)」より引かれたという。当初は釈迦如来などを安置し、釈迦念仏の信仰があった。真言宗だったという。(寺伝、『千本閻魔堂銅鐘銘文』「国朝書目」)
 仏師・定朝(じょうちょう、?-1057)の創建によるともいう。
 その後、衰微する。
 鎌倉時代、1273年、明善(如輪)により再興された。
 南北朝時代、歴代第100代・北朝第6代・後小松天皇(1377-1433)が北山山荘行幸の際に立ち寄る。この際に、普賢象桜を分け与えたともいう。
 室町時代、花見で賑わう。3代将軍・足利義満(1358-1408)は、桜の開花を期して狂言を行うようにと米50石を寄進、その慣わしは江戸時代まで続けられたという。
 応仁・文明の乱(1467-1477)により、閻魔大王像が焼失する。
 1488年、本尊の閻魔大王坐像、司命、司禄を安置する。
 1490年、春童太夫による猿楽座勧進能が催される。室町時代には、大念仏踊、精霊迎え、勧進能が催された。寺は町堂としても機能した。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)初め、毎春、京都所司代に桜を献上し、米3石余の料を得て花鎮の十日念仏を行う。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉により、旧西院村の一部を朱印地として下付される。
 江戸時代、1617年、失われた寺領の地子、替地として旧千本村を得る。
 宝永年間(1704-1710年)以前、花鎮の十日念仏が廃れた。その後、復活する。
 現代、1977年、火災で本尊の一部が焼ける。
◆小野篁 平安時代初期の公卿、文人・小野篁(おの の たかむら、802-853)。岑守の子。野狂、野宰相などとも呼ばれた。834年、遣唐副使に任命される。だが、838年、3度目の出発に際して、大使の藤原常嗣と対立し、乗船を拒否した。嵯峨上皇の怒りを買い、隠岐に配流された。2年後召還され、847年、参議となる。和歌にも秀でた。
 伝承として昼は朝廷に仕え、毎夜、冥土へ入り、閻魔庁第二冥官として大王のもとで死者に対する裁判に立会ったという。藤原高藤、藤原良相らを蘇生させたともいう。墓は紫式部の墓(北区)に隣接してある。
◆寛空 平安時代中期の真言宗の僧・寛空(かんくう、884-972)。京都とも河内国に生まれたともいう。蓮台寺僧正・香隆寺僧正とも称された。宇多法皇(第59代)の侍童の後、出家して法皇、真言宗の神日から法を継ぐ。945年、権律師、東寺長者、金剛峯寺座主、仁和寺別当、同寺法務を歴任した。964年、僧正となる。生涯に孔雀経法を8回修し、霊験で知られた。
◆定覚 平安時代後期の僧・定覚(じょうかく、生没年不詳)。肥後国に生まれた。比叡山に上り30年間修学した。恵心僧都(源信、942-1017)の弟子という。1017年、引接寺を開創した。大念仏踊を始めたとされ、閻魔堂狂言の起こりになった。
◆ルイス・フロイス 室町時代に来日した宣教師のルイス・フロイス(1532-1597)。ポルトガルに生まれた。カトリック司祭、宣教師。イエズス会会員。1548年、インドゴアで日本宣教へ向かうフランシスコ・ザビエル、日本人協力者ヤジロウに出会う。1563年、横瀬浦(長崎県)に上陸、平戸を経て1565年、京都入る。1569年、将軍・足利義昭を介し織田信長と二条城の建築現場で対面し、以後、畿内での布教を許される。一時九州に移り、1580年、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの通訳として安土城で信長に拝謁した。1587年、豊臣秀吉の伴天連追放令後、長崎に移る。1590年、帰国した天正遣欧使節を伴い再来日したヴァリニャーノに同行し、聚楽第で秀吉と会見した。1592年、一時マカオに渡り、1595年、長崎に戻る。『日本史』(1565)、『二十六聖人の殉教記録』(1597)を著した。
 『日本史』には引接寺が記されている。本尊立像、脇像、地獄絵について言及した。本尊についてはその大きさに驚き、「嫌悪すべきもの、身の毛もよだつ」と記している。
◆仏像・木像 本堂には中尊として、室町時代、1488年、仏師・定眼定勢(じょうせい)作の丈六、「閻魔法王像」(高さ2m、幅2m)が安置されている。掌には、「長享二年(1488)」の銘が入る。1977年の火災で一部を焼き、2006年に仏師・今村宗圓(1937-)により、境内のイチョウの木で補った。閻魔大王が嶮しい表情を見せ、舌を出しているのは、怒りではなく、実は慈悲の表れという。閻魔大王は、審判を受ける人々を地獄に落とす際に、地獄の釜で溶けた鉄を飲むとされ、地獄という断末魔の声を発する。その声を聞いた獄卒らは、一瞬乍ら人々への拷問の手を緩めてしまう。また、閻魔大王が地獄に送った人々と同じ苦しみを味わっているためともいう。
 中尊の右に「司命尊(検事)」が控え、手には裁きを受ける人のすべてが書かれたという閻魔帳を広げ持つ。左に「司録尊(書記)」が控え、筆と木簡を持つ。浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ/じょうはりきょう)は、生前のすべての行いが映し出される。脇像の背板は、現存する地獄絵の中では最大のものという。
 「地蔵菩薩立像」が安置されている。
◆建築 本堂は、かつての裁判庁舎(閻魔王宮)を象っているという。 
◆文化財 堂内壁に、室町・桃山時代の狩野元信(1476? -1559)筆「閻魔王庁の図」がある。
 鐘楼の「梵鐘」(京都市有形文化財)は、南北朝時代、1379年、円阿弥陀の勧進による。大工・藤井国弘が製作した。鋳銅製、高さ148.3cm、口径82.7cm。
◆伝承 当寺創建にまつわる2つの伝承がある。
 小野篁は、冥土に出入りし、地獄の亡者の責め苦を見て、彼らを救済することを望んだ。閻魔大王に精霊迎えの法を授かり、船岡山の付近に御堂を建てた。閻魔大王の像を安置し、塔婆を書いて供え、迎え鐘を撞いて亡者をこの世に迎えた。
 定覚が当寺を開いた時、一帯の盗賊が御堂を襲ってきた。守護役人の為朝は、千人の賊を金剛杖でなぎ倒した。賊の中で、病の者、不具の者は平癒した。悪人も善人の心に変わったという。定覚は金剛杖の威力に驚嘆し、杖に代えて大念仏狂言により、人々の病、災いからの救済、教化を思いついたという。
◆千本通 「千本」の名の由来はいくつかある。①かつてこの付近に、桜の木の並木があったことに由来するともいう。②一夜で千本の松(千本松原)が生じたためともいう。(『北野縁起』)。③石仏が林立していたことに因むともいう。④葬送地の蓮台野に立てられた精霊供養の「千本卒塔婆」に因むともいう。(『扶桑京華志』『菟芸泥赴(つぎねふ)』)
 平安時代、941年、日蔵は、大和大峯山の笙の巌屋に籠り、37日の断食を行った。この時、蔵王権現に助けられる。冥府の役の優婆塞(えんのうばそく)に会い、閻魔大王と問答した。延喜帝(第60代・醍醐天皇)とも会う。帝は日蔵に告げた。自分は無実の家臣(菅原道真)を左遷したため、いまは地獄の苦しみを受けている。娑婆に戻りこのことを伝え、自らのために諸大乗経をし、千本の卒塔婆を立てて供養せよと命じた。日蔵は、13日目に蘇生した。時の天皇に延喜帝のことを伝え、蓮台野に千本の卒塔婆を立て供養したという。
 現在の千本通には、平安京の中央を南北に貫いた朱雀大路があった。通りは、船岡山の真南に位置していた。朱雀の名は、大内裏の南門だった朱雀門に由来し、また、四神の南の方角を司る朱雀に因る。道幅は85mもあり、道の両側には柳の木が植えられていた。通りの西は右京、東は左京と呼ばれ、葬送地である蓮台野へ向かう道としても利用されていた。
 通りは、9世紀頃より右京の衰微、内裏の荒廃などにより次第に衰退していく。
◆大念仏狂言 「千本ゑんま堂大念仏狂言」(京都市無形民俗文化財)(5月)は、京都三大念仏狂言(ほかに壬生寺、嵯峨釈迦堂、また、神泉苑とも)のひとつになる。鰐口、太鼓、笛の囃子があり、台詞のある有言で行われる唯一の狂言として知られている。
 起源は、室町時代以来とされる。定覚か明善の創始ともいう。室町時代には、春の大念仏狂言が行われた。当初は、念仏会の合間に狂言が催されていたとみられている。
 狂言が春、桜の時節に催されたことから桜との関わりが深い。室町幕府第3代将軍・足利義満(1358-1408)は、桜の開花を期して狂言を行うようにと米50石を寄進、その慣わしは江戸時代まで続けられたという。演目は「閻魔庁」で始まり「千人切り」で終わる。その由来は、かつて寺が千人の盗賊に襲われたという。守護役人・為朝は、盗賊を金剛杖でなぎ倒した。杖が当った相手は改心したという。現在も、「千人切り」の演目で、参拝者は金剛杖を体に当てられる。これを受けると、無病息災のご利益があるという。
◆六斎念仏 京都のおもに夏に各所で演じられている六斎念仏には、その起源から空也堂系と干菜寺系、演目の内容から念仏六斎と芸能六斎に大別される。
 平安時代、空也上人の踊躍念仏が始まりともいう。また、道空上人の始めた干菜(ほしな)寺系の六斎念仏もある。仏教の教えを広めるために、六斎日(8日、14日、15日、23日、29日、30日)の六日を、念仏を唱えながら手鉦、太鼓を打ち鳴らし踊った。盂蘭盆会、法要などでも演じられていた。 
 念仏六斎には宗教的な演目が多く、念仏踊りが中心になる。他方、芸能六斎は長唄、地唄、能、狂言、歌舞伎などを取り入れ芸能化された。現在京都には六斎念仏を継承する15団体がある。1977年に京都六斎念仏保存団体連合会が結成され、重要無形民俗文化財(1983)に指定された。
 当寺で演じられている千本六斎会は、えんま堂周辺、西陣西北部に位置する土地柄から、娯楽色の強い空也系芸能六斎に分類される。20数人の会員により芸の継承が行われている。
◆紫式部供養塔 境内西北には、鎌倉時代の「十重石塔(引接寺塔婆)」(重文)が立つ。圓阿(えんあ)により、室町時代、1386年に勧進造立された。「至徳三年(1386年)」の銘がある。平安時代の『源氏物語』作者・紫式部(978頃 -1014頃)供養塔ともされる。
 基礎は半円形を二つ合わせている。ここに地蔵小像、塔身に4坐像(薬師、弥勒、定印の阿弥陀、法界阿弥陀)14体が彫られている。初重は方形の軸に四方仏(薬師、弥陀、釈迦、弥勒)、屋根は隅切りされている。軸部に「奉造立石塔 至徳三年丙寅八月二十二日 勧進聖圓阿敬白」と刻まれている。二重目は、4本の柱に円柱状の軸部、三方に鳥居、一方に蓮華座があり、月輪を、一面の月輪に梵字「胎蔵界四仏」を刻む。十重塔だが二重宝塔、十三重塔を組み合わせて十重塔とした。また、本来は九重塔であったものに裳階を重ねたとも、二重の宝塔上に多層塔を八重を加えたともいう。笠石は8つ、その上に相輪がのる。花崗岩製、6m。
 石塔はかつて雲林院塔頭・白亳院(びゃくごういん)にあり、その後この地に移されたものという。白亳院には紫式部墓所、小野篁墓があった。ただ、時代が重ならないといわれている。
 圓阿は紫式部の子孫であり、ある時、夢に供養のために塔を建立するようにとお告げがあったという。冥土に出入りしていたという小野篁は、地獄に堕ちた紫式部を閻魔大王にとりなしたとの伝承がある。
◆白亳院 当寺と紫野の雲林院塔頭・白亳院(びゃくごういん)との関わりついていくつかの伝承がある。。
 白亳院(白亳寺)の創建時期も開山も不明とされている。雲林院の末寺とされ、広大な寺域の東南部に位置していたという。引接寺南の阿弥陀堂を指し、紫野の白亳院を移したものともいう。円融院の枝院であり天台道場として、本殿には薬師仏が安置されていたともいう。尊胤法親王(1306-1359)が一時、隠世したともいう。1353年、四条大納言、山名軍により大徳寺とともに掠奪に遭う。天文・永禄年間(1532-1570)、大徳寺境内に含まれ、現在の塔頭・総見院の地とも、興臨院の付近にあったともいう。また、薬師仏は、高桐院に遷されたともいう。
 白亳院は、安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)に大徳寺の塔頭・総見院の建立に際して、引接寺に「十重石塔(引接寺塔婆)」を移したという。白亳院には小野篁の墓があり、紫式部墓所もあったという。引接寺の精霊堂(観音堂)は、白亳院の本堂を移築したともいう。安置の六臂十一面観音像は、白亳院の旧本尊だったともいう。
◆桜 この地は桜と関わり深く、名所にもなっていた。『洛中洛外図』にも描かれている。
 例年、4月中旬に開花する里桜系の普賢象桜(閻魔堂普賢)が知られている。現在のものは、16代・佐野藤右衛門(1928-)の寄進による。花弁は白く、咲いた時に、花弁の中に薄緑の双葉を持つ。花冠のまま落ちるため、実生できない突然変異種になる。名の由来は、茎が長く垂れ下がる様子が、普賢菩薩の乗る白象の鼻に似ていることに因る。また、枝ぶりも象の牙のように横に広がる。また、鎌倉普賢堂の銘木に由来するともいう。
 室町時代、公卿らも桜の花見見物に寺を訪れていた。相国寺の僧・横川景三(1429-1493)、北朝第6代・歴代第100代・後小松天皇(1377-1433)も北山山荘への行幸の際に立ち寄った。また、この際に、普賢象桜を分け与えたともいう。天皇は、足利義満(1358-1408)に桜のことを告げた。義満が桜を愛でると、桜は散り頃を迎え、花ごと落ちていった。その様が、罪人の首を落とすようであるとして、寺に米50石を与え、寺が仏法を伝えるとともに、この地で処刑された罪人の供養を命じたという。
 近世、京都所司代に桜の一枝が献上され、米3石余(5石6斗とも)が与えられ、その米で大念仏会と狂言が執り行われていた。刑死者などの霊を供養したという。4月下旬に、花弁ではなく房ごと花が落ちる。その様があたかも囚人が首を切り落とされるようであるとして、所司代は獄舎の囚人にも桜を見せ、仏心を起こさせ改悛させたともいう。
◆迎え鐘 平安時代、蓮台野は、葬送地の入り口にあった。亡骸を野辺送りをする際に、衆生の忘夢を覚ますために当寺の鐘を撞いたという。現在も、盂蘭盆会(8月9日-10日)には、迎え鐘を撞いて精霊を迎える。
◆年間行事 強運節分会(閻魔法王の裁きの場で、前世の行いを判定するといわれる「人頭幢(にんずどう)」を型どった小物が置かれる。2つの顔は「見る目」「かぐ鼻」により罪人の悪行を見抜く。現世も死後も妄言を慎しむことを教える。1年間の強運を願う「だるま供養」では、裏表のない食べ物として閻魔法王が好むという蒟蒻が振舞われる。起上がり・厄除授与品。)(2月2-3日)、強運節分会(大念仏狂言奉納。)(2月3日)、京都三大念佛狂言(5月1日-4日)、精霊迎え・六道まいり・千本六斎念仏・精霊送り(8月7日-16日)、地蔵盆(8月24日)。
 毎月16日の縁日に本尊が開扉される。


*年間行事は中止、日時・内容変更の場合があります。
*参考文献 『京都古社寺辞典』『京都・山城寺院神社大事典』『京都府の歴史散歩 上』『京都大事典』『史跡探訪 京の七口』『京都歴史案内』『京都「癒しの道」案内』『京都の地名検証 3』『京都の寺社505を歩く 上』『京の寺 不思議見聞録』『京都 神社と寺院の森』


   千本釈迦堂       紫式部墓              

紫式部の供養塔といわれている。ただ、鎌倉時代作。

紫式部の供養塔、基礎、初層、二層部分

紫式部像、平安時代中期の女流作家

かつての五条大橋の擬宝珠という。

千本えんま堂狂言、「閻魔庁」より


「鬼の念仏」

千本六斎念仏、獅子碁盤乗り

普賢象桜と山吹

普賢象桜
 引接寺  〒602-8307 京都市上京区千本芦山寺上閻魔前34,千本通廬山寺上る西側  075-462-3332  9:00-17:00
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