石像寺 (釘抜地蔵) (京都市上京区)
Shakuzo-ji Temple
石像寺 石像寺 
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1964年奉納、日本画家・堂本印象(1891-1975)が自らの母の回復祈願に奉納したという巨大なブロンズの釘抜き。台座は日本画家・岩澤重夫(1927- 2009)の意匠による。






賓頭盧尊者
 千本通東にある石像寺(しゃくぞうじ)は、2本の5寸釘と釘抜のある「御礼絵馬」で知られている。
 正式には家隆山光明遍照院(かりゅうざん こうみょう へんしょういん)石像寺という。「釘抜地蔵(くぎぬきじぞう)」「くぎぬきさん」と親しまれている。
 浄土宗、知恩院末寺。本尊は釘抜地蔵尊。
 洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第16番札所、札所本尊は釘抜地蔵尊。京の通称寺霊場4番、釘抜地蔵。
 諸病回復、無病息災、健康長寿、苦悩解消、下の病平癒などの信仰がある。
◆歴史年表 平安時代、819年、開基・弘法大師(空海)は、自ら石像を彫り、あらゆる苦しみから救済する「苦抜(くぬき)地蔵」と名付けたという。当時は、真言宗の光明遍照院石像寺と呼ばれた。当初は8町四方(873m)の敷地を有した。
 鎌倉時代、12世紀(1101-1200)末、重源(1121-1206)が中興し、浄土宗に改宗される。百万遍知恩寺に属したともいう。その後、衰微した。
 歌人・藤原家隆(1158-1237)が当寺で落髪、入寺し、以後、山号は家隆山となる。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、衰退する。
 安土・桃山時代、1556年頃、「釘抜地蔵」と呼ばれる。
 江戸時代、1614年、西蓮社巌誉(雲海?)により中興された。
 寛文年間(1661-1673)、釘抜地蔵尊は第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ、洛陽四十八願所の霊場のひとつになる。
 1730年、「西陣焼け」で焼失する。北野社内の神宮寺の移築により再興された。
◆空海 平安時代の真言宗の開祖・空海(くうかい、774-835)。弘法大師。讃岐国に生まれた。父は豪族の佐伯田公(義通)、母は阿刀氏。788年、15歳で上京し、母方の叔父・阿刀大足に師事し儒学を学ぶ。791年、18歳で大学明経科に入るが、中途で退学し私渡僧(しどそう)として山岳修行を始め、四国の大滝岳や室戸崎などで山林修行した。797年、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著す。798年、槙尾山寺で沙弥となり、教海と称する。804年、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。遣唐使留学僧として唐へ渡り、805年、長安・青竜寺の恵果(けいか)により両界、伝法阿闍梨の灌頂を受ける。806年、当初の20年の義務期間を2年に短縮して帰国、多くの経典、密教法具などを持ち帰る。入京できず大宰府・観音寺に住した。809年、入京を許される。810年、高雄山寺(神護寺)を経て、811年、乙訓寺に移り、約1年間任に当たった。別当になる。812年、乙訓寺を訪れた天台宗開祖・最澄は、空海と会っている。その後、空海は高雄山で最澄らに金剛界結界灌頂を行った。後、二人は決裂し、断絶する。813年、東大寺別当、819年頃/818年、高野山を開く。822年、東大寺に灌頂道場(真言院)を開く。823年、東寺を真言密教の道場にした。824年、高雄山寺を神護寺と改名する。神泉苑で祈雨の修法を行う。827年、大僧都となる。828年、綜芸種智院を創立した。832年、高野山で万灯会、834年、正月、宮中中務省で後七日御修法を営む。830年、『秘密曼荼羅十住心論』を著す。高野山で亡くなり、東峰に葬られた。
◆重源
 平安時代末期-鎌倉時代の僧・重源(ちょうげん、1121-1206)。醍醐寺で密教を学ぶ。法然に師事した。宋に渡り、現地で栄西に遭う。宋より天竺様式建築を日本に伝えた。東大寺大仏殿再建の勧進職に就く。
◆藤原定長 平安時代末-鎌倉時代初期の公卿・藤原定長(ふじわら の さだなが、1149-1195)。寂蓮。藤原光房の子、勧修寺流藤原氏出身。受領、蔵人・検非違使・弁官の三事兼帯、蔵人頭、1189年、参議に就く。摂関家家司、院司も務める。源平内乱期は後白河院の近習、摂政・近衛基通の「方人」とも称され、政所別当となる。
◆藤原家隆 平安時代-鎌倉時代の歌人・藤原家隆(ふじわら の いえたか、1158-1237)。権中納言・藤原光隆の子。藤原俊成の指導のもと、藤原定家らとともに新風歌人のひとりとして活躍した。後鳥羽院が1201年、設置した和歌所の寄人、『新古今和歌集』(1205)の選者のひとりに選ばれた。1221年、承久の乱以降、隠岐に配流された後鳥羽上皇と交流を続けたという。
◆藤原定家 鎌倉時代前期の歌人・藤原定家(ふじわら の さだいえ、1162-1241)。歌人俊成の次男。1178年頃より歌人となる。1179年、内の昇殿が認められる。九条家、八条院の庇護も得る。1186年より九条家に仕える。歌人西行、九条家の歌壇の慈円、寂蓮、藤原家隆などと交流した。後鳥羽上皇に見出され、1201年、和歌所寄人に選ばれ、『新古今和歌集』の編纂をする。1202年、中将、1211年、公卿、1232年、権中納言となり京極中納言と称される。1233年、病により出家した。
◆雲海 安土・桃山時代-江戸時代の浄土宗の僧・雲海(うんかい、1527-1640)。西蓮社岸誉上人順阿慈航雲海。相州小田原生まれ。俗姓は都筑。永禄年間(1558-1570)、山城に移り布教する。熊野神社を崇敬した。1590年、伏見・西岸寺の開山。1596年、伏見・西運寺を創建した。1614年、石像寺を中興し、当寺で亡くなる。114歳。
◆作庵 安土・桃山時代の医師・作庵(さくあん、生没年不詳)。天正年間(1573-1592)、作庵町(千本通上立売上ル)に住み地名の由来になる。楽焼を趣味とし、「祖母懐(うばがふところ)」の印を押した。石像寺(釘抜き地蔵)に墓がある。地名に作庵町が残る。
◆本尊 本尊の「釘抜地蔵尊」には伝承が残されている。平安時代、空海(774-835)が唐より帰国した際に、船で持ち帰った石に自ら刻んだ3尺6寸(1.09m)の石像という。種々の苦しみを抜き取るという意味から、「苦抜(くぬき)地蔵尊」と呼ばれた。
 室町時代、1556年頃、また弘治年間(1555-1558)、油小路通上長者町付近(上京区)に豪商・紀国屋道林が住んでいた。40歳の時、突然に両手が痛みだす。治療の甲斐なく苦しみ、当寺の地蔵尊に願をかけると、7日目の満願の夕べに夢告がある。地蔵尊が現れ、道林は前世に人を怨み、仮の人形を造り、その両手に8寸(24㎝)の釘を打ち込んで呪ったのだという。いまその罪が返り、苦しみを受けているのだという。地蔵尊は、かつての怨みの釘を抜くという。そう言い残して2本の釘を示した。
 道林が夢から覚めると、両手の痛みは消え去っていた。寺に駆けつけ、御厨子の前で伏して拝むと、尊像の前に血に染まった2本の8寸釘が置かれていた。道林も周囲の者も、身の毛もよだつばかりに驚いたという。道林は以後、100日間参籠し、地蔵尊の功徳に感謝したという。その時より、地蔵尊は釘抜地蔵尊と呼ばれるようになったという。
 以来、あらゆる病は身体に釘が刺さったためとされ、釘抜きのために参詣した。病平癒すると2本の8寸釘と釘抜きを張り付けた絵馬を奉納する慣わしになった。絵馬は地蔵堂の外壁一面に掲げられている。
◆石像 地蔵堂には弘法大師作という「石造地蔵菩薩立像」、鎌倉初期の「阿弥陀三尊像」(重文)が安置されている。三尊は、鎌倉時代初期、「元仁二年」(1225年)の銘が刻まれており、願主は伊勢権守・佐伯朝臣為家による。穏やかな表情の美仏である阿弥陀仏は結跏趺坐、定印を結ぶ。光背は二重円光に11の梵字が配されている。一尊を台座、光背ともに切り出した石像としては日本最古例という。
 脇侍は「観音菩薩像」(103㎝)、「勢至観音菩薩像」(103.3㎝)。「弥勒菩薩」。石造、花崗岩製。
 観音堂(開山大師堂)には、飛鳥時代、行基(668-749)作という「観世音菩薩」が安置されている。
◆定家 この地には、鎌倉時代初期の歌人で、『新古今和歌集』、『新勅撰和歌集』を撰進した藤原定家(1162-1241)、歌人で『新古今和歌集』の撰者、藤原家隆(1158-1237)が住んだという。そのため、山号は家隆山という。異説もある。同時代の阿弥陀石造願主だった佐伯為家と藤原定家の子・為家(1198-1275)を混同したともいう。
 家隆、定家(寂蓮)、為家らの供養塔と伝えられるものが境内にある。
◆墓 境内墓地に、寂蓮、藤原家隆、定家、為家の小さな供養塔(宝篋印塔)、墓がある。寂蓮、家隆、定家は当寺に住したともいう。
 安土・桃山時代の医師・作庵の墓がある。
◆井水 境内には、弘法大師(空海)が自ら堀り、加持水に用いたという「弘法大師三井」がある。「京都三井」の一つともいう。井水はいまも涌く。香水を飲み、患部に塗ると霊験あるという。
◆年間行事 節分会(厄除だるま授与、厄除大祈願受理)(2月2-3日)。
 毎月24日は住職の法話、「地蔵しるこ」が振舞われる。    

*年間行事は中止、日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都歴史案内』『京都大事典』『京都「癒しの道」案内』『旧版 京のお地蔵さん』『京都美術の 新・古・今』『日本の名僧』『京都の寺社505を歩く 上』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』『京の寺 不思議見聞録』『週刊 京都を歩く 30 西陣』


          
引接寺      千本釈迦堂                    

御礼絵馬、1000枚あるという。二本の釘と釘抜きが添えられ奉納される。絵馬は20㎝×30㎝ほど。

釘と釘抜き

開山大師堂(観音堂)、弘法大師開山堂という。弘法大師、行基作という観音菩薩を祀る。また、弘法大師の後ろに、行基作という「ふじかけ観音菩薩」ほ祀る

開山大師堂(観音堂)、弘法大師、観音菩薩を祀る。また、弘法大師の後ろに、行基作という「ふじかけ(藤掛)観音菩薩」を祀る。

玉姫大明神

おさすりの地蔵、心身の悪い部分と同じところを擦って願い事をする。

石像弥陀三尊像(重美)、中央に阿弥陀如来坐像、右に蓮華を持つ観音立像。小円相内に梵字サ(観音)、左に合掌する勢至立像、小円相内に梵字サク(勢至)。観音立像の右には、弥勒立像がある。すべて花崗岩製、1m。阿弥陀は1.2m。

鎌倉時代作の石像阿弥陀如来、二重蓮華座に結跏趺坐、定印、二重円光の光背、小円相内に11個の梵字キリーク(弥陀)。光背裏に伊勢権守佐伯朝臣為家が、鎌倉時代、元仁元年(1224)に彫り、翌年に開眼供養したという銘があるという。花崗岩製、1.22m。

弘法加持水
加持水、井水はいまも湧いている。 

右より寂連、家隆、定家の供養塔と伝えられている。

墓地にある井戸

井戸

井戸、水は今も湧く。

クロマツの大木
 石像寺 〒602-8305 京都市上京区花車町503,千本通上立売上る東側  075-414-2233   8:00-16:30 
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