帰命院 (京都市左京区)
Kimyo-in Temple
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「京の七口 山端 地蔵尊」




本堂

 山端(やまばな)より修学院離宮に向かう道筋に帰命院(きみょういん)がある。境内は道より下がっており、地蔵堂の山端地蔵で知られ、疫病平癒の信仰がある。山号は無量山という。 
 浄土宗西山禅林寺派。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、保元年間(1156-1159)、僧・西光が七道の辻に7つの地蔵尊を安置したとされ、山端地蔵はそのうちの西坂本に置かれた地蔵尊ともいわれる。(『源平盛衰記』)
 近代、1885年以降、雲母寺(きららじ/うんもじ)に僧・西光が京都七口に建立した地蔵堂のひとつがあり、その本尊・地蔵菩薩は帰命院に遷され、山端地蔵と呼ばれているともいう。
 大正期(1912-1926)初め、廃寺になった理即院(りそくいん)より当寺に山端地蔵が遷されたともいう。
◆西光
 平安時代末期の僧・西光(さいこう、?-1177)。藤原家成の養子。藤原師光。信西(藤原通憲)の乳母子。阿波国在庁官人、内舎人、滝口、院北面、左衛門尉を歴任した。1159年、平治の乱に敗れた信西の死に際し、出家し西光と称した。その後も後白河法皇(第77代)の近臣。1173年、浄妙寺を建立する。1174年、法皇・建春門院の厳島参詣に同行し、七条殿を造営した。1177年、子・加賀守師高、目代近藤師経と延暦寺との争いから師高が流罪になる。西光は法皇に告げ、延暦寺座主明雲も配流になる。同年鹿ケ谷事件で平清盛に捕らえられ、法皇らの謀議を白状し斬首された。
◆地蔵 地蔵堂に安置されている「山端地蔵」は、右手に錫状、膝上の左手に宝珠を載せる。蓮華座に趺坐している。円頭光の光背、極彩色、像高1m。
 地蔵尊はかつて、現在地の東、雲母坂の登り口、音羽谷にあった雲母寺(きららじ/うんもじ)に安置されていたという。平安時代、保元年間(1156-1159)、僧・西光が七道の辻に7つの地蔵尊を安置したとされ、そのうちのひとつ西坂本に置かれた地蔵尊といわれる。(「源平盛衰記」)。比叡山の西側一帯は、坂本(大津市、東坂本)に対して西坂本(西の坂本)といわれ、比叡山延暦寺の末寺が多数存在していたという。
 また、地蔵尊はかつて現在地の南西に存在した理即院(りそくいん、山端川端町)にあり、大正期(1912-1926)の初め、その廃寺に伴い当寺に遷されたともいう。
 また、「京の七口」の一つ、大原口に置かれた地蔵ともいう。
◆理即院 理即院(りそくいん)の詳細不明。左京区山端川端町にあり、近代、大正期(1912-1926)初め、廃寺になったという。境内に地蔵堂、行者堂、方丈、庫裏などの伽藍が建ち並び、恵心僧都(源信、942-1017)作という地蔵尊坐像(4尺、1.2m)を本尊として安置していた。(「拾遺都名所図会」)
◆雲母寺
 雲母寺(きららじ/うんもじ)は、平安時代末期の元慶年間(877-884)、天台宗の相応(831-918)により創建された。比叡山延暦寺に属した。
 雲母坂の登り口、音羽谷にあり、門、堂は南面し、2600坪の境内を有したという。江戸時代初期の文人・石川丈山(1583-1672)筆による「雲母寺」の横額が掲げられていたという。
 近代以降、荒廃する。1885年に滋賀県に編入され、延暦寺直轄になる。その後廃寺になった。廃寺に伴い、本堂(雲母不動堂)と本尊・不動明王は赤山禅院(左京区修学院)に遷された。西光が京の七口に建立した地蔵堂のひとつがあった。その本尊・地蔵菩薩は帰命院に遷され、いまは山端地蔵と呼ばれているという。
 また、禅華院(左京区修学院)にも平安時代末期、1126年の銘ある石仏が遷されたという。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『新版 京のお地蔵さん』『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『史跡探訪 京の七口』
 


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本堂

地蔵堂

地蔵尊

地蔵尊


地蔵尊

石仏

 帰命院  〒606-8011 京都市左京区山端森本町7  075-791-0175
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