建勲神社 (京都市北区) 
Takeisao-jinja Shrine
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標石












信長が好んだという『敦盛』の一節、「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか」花崗岩




社務所
 船岡公園の東にある建勲神社(たけいさお じんじゃ/けんくん じんじゃ)は、かつて建織田社(たけしおりたしゃ)、建勲社(たけいさおしゃ)とも呼ばれた。「けんくんさん」と親しまれている。
 主祭神は織田信長、子・織田信忠を祀る。旧別格官幣社。
 夢の成就、大願成就、難局突破、災難除け、産業指導の神などの信仰がある。織田木瓜紋の御守が授与される。
◆歴史年表 近代、1868年、木戸孝允、高矢主膳、五条為栄らが、織田信長の表忠(忠義をあらわす)を建議した。
 1869年、東京の織田信長の子孫・織田信敏が神社建立を請願した。健織田社(たけしおりた の やしろ/たけおだ の やしろ)の神号を賜る。信敏の東京邸内と、織田家旧領地、天童城跡に建勲社(山形県天童市)が造営される。
 1870年、神号を建勲神社に改めた。
 1875年、官国幣社の制により別格官幣社に列した。船岡山東麓(豊臣秀吉が信長の菩提を弔うために予定していた天正寺境内)に社地を得る。
 1880年、船岡山中腹(現在の旧本殿跡)に社殿が建立される。東京より遷座される。同年、1881年とも、信長の子・信忠を合祀した。
 1910年、秀吉を祀る豊国神社より低い位置に境内地があるとして、船岡山の山頂一帯(現在地)に10棟の新社殿が遷された。
 1917年、信長に正一位を追贈する。
◆織田信長 室町時代-安土・桃山時代の武将・織田信長(おだ のぶなが、1534-1582)。尾張に生まれた。父は守護代家老・織田信秀、母は土田御前。1551年、父没後、家督を継ぐ。1559年、尾張国を統一、1560年、桶狭間の戦で今川を討つ。1567年、美濃国平定、1568年、上洛し足利義昭の将軍職就任を助け、二条御所の造営を行う。1569年、イエズス会・フロイスの京都往還を許す。軍資金提供を要求し 拒否した自治都市・堺を攻める。1570年、姉川の戦で浅井・朝倉を破る。1571年、浅井らに与した延暦寺を焼き討ちした。1573年、将軍義昭を追放し、室町 幕府を滅ぼす。示威のため上京を焼く。1575年、長篠の戦で徳川家康と連合し武田を破る。1576年、拠点になる安土城を築く。1580年、石山本願寺(大坂本願寺)と和睦、中国の毛利氏攻略に動く。1582年、家臣・明智光秀に討たれ本能寺で自害した。(本能寺の変)
 戦で鉄砲を初めて実戦使用した。検地、関所廃止、楽市・楽座の制を整える。キリスト教を保護した。墓は本能寺、阿弥陀寺にある。建勲神社は信長を祀る。
◆天正寺 安土・桃山時代、1582年、本能寺の変後、主君の仇をとった豊臣秀吉は、船岡山で織田信長の法要を行っている。一体の信長木像を焼きその灰を、新しく建立した大徳寺の総見院に埋めて菩提寺とした。
 秀吉は、船岡山と大徳寺をつなぐ長廊を造り、船岡山東麓に「天正寺」という新しい信長の菩提寺を建立しようとした。もう一体の信長木像を寺に安置する予定だった。
 1584年末、第106代・正親町天皇から、元号寺院として「天正寺」の寺号を得た。開山予定の大徳寺の古渓禅師が計画を進める。だが、計画は石田三成により頓挫し、古渓禅師は秀吉により博多に配流された。信長木像は現在、大徳寺塔頭・総見院に祀られている。
◆建築 近代、1872年、大蔵省は「制限図」と呼ばれる設計規格の適用を決定した。これは、各社格に応じて建坪、社殿配置、平面形式を規制するものだった。当社は、この適用初例になる。
 「神門」は、昭和期(1926-1989)初期に建て替えられた。入母屋造妻入。
 「本殿」は、近代、1880年に建てられている。円柱、切目長押、内法長押、直線的な舟肘木などが見られる。一間社流造、檜皮葺。
 「拝殿」は、近代、1880年に建てられた。基壇は亀腹、角柱、地長押、内法長押、内法貫。入母屋造妻入、檜皮葺。
 「貴賓館」は、旧社務所だった。現在は式台に千鳥破風がある。かつてはなかった。
◆文化財 信長ゆかりの宝物を多数所蔵している。
 信長愛用の紺糸威胴丸、「義元(宗三、そうざ)左文字」作の刀。
 安土・桃山時代、16世紀の紙本墨書『信長公記』全15冊(重文)は、信長右筆・太田牛一が書き留めた信長の一代記であり15年にわたる。本能寺の変まで記している。
 拝殿に織田信長肖像画、木下藤吉郎、柴田勝家、森蘭丸、平手政秀ら18(36とも)功臣の肖像画(板額)が掲げられている。
◆船岡山妙見社 船岡山の地の神、玄武大神を祀る。平安時代、794年、平安京遷都に際して、風水により山は大地の生気ほとばしる玄武の小山と卜された。北の基点として平安寮が建てられた。
 「玄武神は亀なり。北方に鎮り諸厄を祓い給う。玄武神は今の妙見菩薩にして童形なり。玄武の大元は国常立尊なり。水の神にして宅神なり。病魔退散の神なり。」(1707年「霊符縁起集説」)とある。
 諸厄消除、万病平癒、家宅守護などの信仰がある。
◆義照稲荷神社 義照稲荷神社は、奈良時代、709年、秦氏が創祀したという。織物、穀物、衣食の神として祀られたことに始まるという。西陣織物の大神として崇敬を集めた。秦氏の祖先神であり、養蚕稲荷になる。
◆大鳥居 「大鳥居」は府下最大の木造明神型白木造になる。当初は、近代、1880年に建てられた。1934年に建替えられ、2000年に大改修される。
 素木造、材は樹齢200年以上という台湾阿里山産の紅ヒノキ材。最大高さ7.43m、最大幅10.3m、本径0.7m。
◆有栖川 有栖(ありす)川という名の川は、都にいくつかあった。紫野には、雲林院南に賀茂社の斎院が置かれていたことに関係している。有栖川の有栖とは「荒樔」の意味であり、禊(みそぎ)の行われる川を意味した。
 有栖川(若狭川)は、鷹ヶ峰の湧水を水源とし、大徳寺(紫野大徳寺町)の東、建勲神社鳥居前(紫野下築山町)付近に流路があったという。川には「御所の橋」と呼ばれる石橋が架けられていた。平安時代、第53代・淳和天皇(786-840)の離宮があり、この名の由来になったという。源義経と弁慶が出会った橋は、この橋であるともいう。御所の橋が転訛しその後、伝えられる五条橋になったという。紫野周辺にも源氏ゆかりの史跡が複数存在する。
◆年間行事 祭礼(7月10日)、船岡祭(織田信長が1568年に初めて入洛した日を記念して行われる。鎧武者の行列がある。)(10月19日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都古社寺辞典』『京都の近代化遺産』『続・京都史跡事典』『京都大事典』『秀吉の京をゆく』『京都の寺社505を歩く 下』『京都ご利益手帖』『稲荷信仰と宗教民俗』『あなたの知らない京都の歴史』『京都の自然ふしぎ見聞録』、説明板


   
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岩盤

貴賓館

手水舎

手水舎

狛犬、花崗閃緑岩

東の比叡山の眺望

拝殿

拝殿

拝殿、祓串

拝殿

拝殿

拝殿

神門 

神門

本殿

神饌所

祭器庫

船岡山妙見社、船岡山の地の神・玄武大神を祀る。妙見は北極星の意で玄武の象徴。諸厄消除、万病平癒、家宅守護の神徳。

命婦社(みょうぶしゃ)、命婦元宮

命婦元宮、稲荷大神の眷属を祀る。船岡山の霊狐を祀り、伏見稲荷の元宮とされている。

命婦元宮

境内社・義照稲荷(よしてるいなり)神社

境内社・義照稲荷神社

境内社・義照稲荷神社

境内社・義照稲荷神社

境内社・義照稲荷神社、西陣織の祖神・宇迦御霊大神、国床立大神、猿田彦大神を祀り、秦氏の守護神、西陣織の祖神。

境内社・義照稲荷神社

船岡稲荷、1968年遷宮された。衣食住安泰繁栄の守護神

船岡稲荷

神石「大平和敬神」、旧本殿跡になる。

大平和敬神の石標

大平和敬神、「旧本殿 真音柱跡」の石標

 建勲神社 〒603-8227 京都市北区紫野北舟岡町49   075-451-0170   8:30-17:00
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