立本寺 (京都市上京区)
Ryuhon-ji Temple
立本寺 立本寺 
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山門




「波振り(なみゆり)の題目」





本堂


本堂、円柱、総ヒノキ造


本堂、扁額「立本寺」は本阿弥光悦筆。


本堂、「はなまつり」(4月8日)で、かつて、白象の模型を台車に載せて綱で引き、町内を回っていたという。釈迦の母は、釈迦が空から白い像に乗って母の胎内に入るという夢を見、釈迦が誕生したという。この、夢に因んで釈迦の誕生日に、祝いの意味で白象の模型を作り、引くようになったという。




刹堂(鬼子母神堂)、日蓮宗の守護神、十羅刹女、日像開眼の鬼子母神を本尊とする。大黒尊天、安産守護の日審も祀る。古くから「北野の鬼子母神さん」と呼ばれていた。毎月8日に鬼子母神祭。


祖師堂



祖師堂


祖師堂


黒門、奥に客殿、その奥に方丈がある。


客殿(京都市指定有形文化財)






妙見堂、妙見菩薩が祀られている。



鐘楼(京都市指定有形文化財)



宝蔵



宝蔵
 七本末通に面して本山・立本寺(りゅうほんじ)は建つ。3000坪(9917㎡)の境内を有している。正式には「本山立本寺」、「北野の鬼子母神さん」とも呼ばれている。号は西龍華具足山(ぐそくざん)という。
 日蓮宗本山。本尊は十界曼陀羅。
 四条門流、日蓮の孫弟子・日像(龍華樹院)により開山された「京都の三具足山」(ほかに、妙顕寺、妙覚寺)のひとつ。日蓮宗八本山、日蓮宗京都16本山のひとつ。
 「幽霊飴」の伝承に因み、安産の信仰があり、安産のお守りが授与される。「幽霊飴」も売られている。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 鎌倉時代、1321年、日像は京都最初の道場、妙顕寺(中京区、四条櫛笥<くしげ>)を創建した。これを前身とする。竜華院と号したともいう。
 室町時代、1387年、妙顕寺は比叡山の衆徒に破却されている。
 1393年、室町幕府3代将軍・足利義満により三条坊門に寺地を寄進され再興される。寺号を妙本寺と改められる。この時、日実は、当初の寺地、四条櫛笥(くしげ)の地(立本寺前町)に、北朝第6代・歴代第100代・後小松天皇の綸旨を得て堂宇を再興し、「本(もと)を立てた」として立本寺としたともいう。
 1413年、再び比叡山の衆徒に破却された。この時、5世・月明は丹波に逃れた。また、この年に再興されたともいう。
 1416年、また、日実により旧地の四条櫛笥に本応寺(ほんのうじ)が建立された。また、月明は、五条大宮に妙本寺(後の妙顕寺)を再建した。二寺は、その後対立する。本応寺は「本寺を立てる」という意より立本寺と改称され、延暦寺の末寺となり再興されたともいう。
 第103代・後土御門天皇(在位1464-1500)の時、勅願寺になる。
 1536年、比叡山衆徒による洛中洛外の日蓮宗21寺を襲った、天文法華の乱(天文法乱)により破却された。
 安土・桃山時代、文禄年間(1592-1596)、1594年とも、羽柴(豊臣)秀吉の都市改造により四条櫛笥から京極今出川(上京区立本寺前町)に移された。この際に、丁字屋孫兵衛が寄進した。(『京童跡追』)
 以後、何度か寺地の場所を変えたともいう。
 江戸時代、1633年、末寺20か寺があった。(「立本寺諸末寺帳」)
 後水尾法皇(第108代、1596-1680)の帰依篤く、法華経を聴聞し、一宇を建て「園林堂」の書を贈る。
 1708年、宝永の大火により大半を焼失している。その直後、現在地に移り、再建された。
 1743年、現在の本堂が建立された。
 1745年、27坊、末寺70か寺があった。(「身延久遠寺触下本末帳」)
 近代以前、10000坪の広大な境内を有しており、20の塔頭があった。
 近代以後、4塔頭のみが残る。
 現代、2011年、6年の歳月をかけた庭園の修復が終わる。
日像 鎌倉時代の日蓮宗の日像(にちぞう、1269-1342)。肥後房、肥後阿闍梨。下総国に生まれた。7歳で日蓮の六大弟子のひとり日朗に師事した。1275年、身延の日蓮の弟子になり、日蓮が経一丸と命名し本尊を授与する。1282年、日蓮没後、日朗に再び師事。北陸を経て、1294年、入洛、日蓮の遺命により日蓮宗最初の京都弘通(ぐつう、布教)、宗義天奏(天皇への布教)を行う。松ヶ崎・歓喜寺(妙泉寺)、洛西・真経寺、深草・極楽寺(宝塔寺)を日蓮宗に改宗させた。町衆に信徒拡大し、一時の京都は「法華題目の巷」と呼ばれた。1307年頃、乙訓山崎付近で布教を行う。比叡山延暦寺などの圧力により、1307年、土佐配流、1308年、紀伊流罪、1321年、洛内追放と3度の弾圧と赦免「三黜三赦(さんちつさんしゃ)の法難」を受ける。1311年、妙顕寺を開創し、教団発展の礎を築く。深草・宝塔寺に葬られる。
 一門は四条にあったことから四条門流と呼ばれた。1358年、弟子・大覚の祈雨の功により菩薩号が贈られた。
◆日実
 鎌倉時代の日蓮宗の僧・竜華院日実(にちじつ、生没年不詳)。紀州に生まれた。妙顕寺の大覚に師事し、備前、備中に布教を行った。真言宗津島福輪寺を改宗させ、妙善寺を開く。1378年、実弟・日成とともに妙顕寺を出て、妙覚寺を開く。
◆日審 江戸時代初期の20世・日審(にっしん、1599-1666)。霊鷲院。京都の江村久茂(大本山法華経寺28世・日養)の子。幼少より聡明で、8歳で仏門に入り、京都や下総の宗門の檀林に学ぶ。30余歳で京都本圀寺の檀林・化主(けしゅ)(校長)となった。九州、関東、奥羽への遊説し、弁舌に優れ、説法は2万座、本尊を書き授けた数は10万幅、9万人が受法したという。このため、釈迦十大弟子の一人で説法に優れた富楼那(ふるな)に因み「富楼那日審」と称された。1647年、立本寺20世貫首(かんじゅ)となる。近衛信尋(第107代・後陽成天皇の第四皇子、近衛家養子)の招請により法華経を講じ、第108代・後水尾上皇も参列した。
 日審の花押(かおう)が壷形となっており、「壷日審」といわれるのも、出生の逸話に因るという。日審により書かれた本尊は、安産守りになっている。また、上人は寺の傍に老父母を招き至孝を尽くしたという。
◆吉野太夫 江戸時代の女性・二代目吉野太夫(よしの たゆう、1606-1643)。松田徳子。京都・方広寺付近の生まれ。父は西国の武士・松田武左衛門。1613年、7歳で父没後、六条三筋町扇屋林家に禿(かむろ)として預けられ、「林弥」と名乗る。1620年、14歳で太夫となった。当初は「浮舟」、廓の桜を見て「ここにさへさぞな吉野は花盛り」と詠み「吉野」を襲名した。島原、六条三筋町の「六条の七人衆」の筆頭、「寛永三名妓」の一人で、「天下随一の太夫」と謳われた。美貌と品格、和歌、俳諧、書、茶湯、琴、琵琶、笙、香道、華道囲碁、双六など諸芸に秀でた。名声は江戸、遠くは中国にまで及ぶ。紺灰業の豪商・灰屋(佐野)紹益は、後水尾上皇弟・関白近衛信尋と吉野を争う。1631年、紹益に26歳で身請けされ、その妻となる。東山・音羽川畔に暮らした。常照寺の日乾に帰依し、1628年、23歳で山門を寄進する。遺言により常照寺に葬られた。立本寺にも墓がある。38歳。
島左近 安土・桃山時代の武将・島左近(しま さこん、?-1600)。清興(きよおき)、勝猛。島友保(ともやす)の子。筒井順慶の臣。石田三成の参謀となり、「治部少(三成)にすぎたるもの」として佐和山の城と左近といわれた。1593年、文禄の役に加わる。1600年、関ヶ原の戦いでは、先鋒として西軍に加わり戦死したとも、消息不明になったともいう。名軍師といわれた。
 関ヶ原の戦いを生き延び、立本寺で余生を過ごしたともいう。立本寺に島左近(「妙法院殿島左近源友也大神儀」)の供養塔が立つ。墓は境外墓地にあり、位牌などは塔頭・教法院にある。
◆灰屋紹益
 江戸時代前期の豪商・灰屋紹益(はいや じょうえき、1610-1691)。佐野重孝。京都の生まれ。父は本阿弥光悦の甥・光益。のち佐野紹由の養子になる。智恵光院上立売に住む。光悦に親しみ、松永貞徳、烏丸光広、飛鳥井雅章らに和歌を学んだ。第108代・後水尾天皇、八条宮智忠親王らと交わる。1631年、名妓と謳われた六条三筋町の吉野太夫を近衛信尋(のぶひろ)と争い、身請けし妻とした。1642年、妻没後、晩年に後妻を娶る。茶の湯、蹴鞠、文筆にもすぐれ「徒然草」を擬して随筆「にぎはひ草」2巻(1682)を著し、茶の湯、和歌、蹴鞠などについて詳細に述べた。
 吉野太夫を喪った際に、吉野の荼毘の灰を飲み干し歌を詠む。「都をば 花なき里となしにけり 吉野を死出の 山にうつして」。墓は立本寺にあり、常照寺に供養塔が立つ。
◆三宅嘯山 江戸時代中期の俳人・儒者・三宅嘯山(みやけ しょうざん、1718-1801) 。三宅観瀾(かんらん)の一族で質商を生業とした。望月宋屋(そうおく)に俳諧を学ぶ。炭太祇(たん たいぎ)、与謝蕪村(よさ-ぶそん)らと交わる。青蓮院宮、仁和寺の侍講を務めた。漢詩、中国白話小説にも通じた。
 墓は立本寺にある。
本尊・像 本堂の本尊「十界曼荼羅」は、日像が鎌倉由比ヶ浜で修行中に感得したものという。お題目の光明点がすべて上に向かい、「波振り(なみゆり)の題目」と呼ばれる。お題目は日蓮宗の文字による聖物「曼荼羅本尊」であり、題目の「南無妙法蓮華経」の7字のうち、「法」以外の6字の筆端を伸ばして書いた。これは、「法」の光を受け、万物が真理の活動に入る姿を表したものという。「ヒゲ文字」「ヒゲ題目」などとも呼ばれる。
 中央の須弥檀に「釈迦如来像」、「多宝如来像」、両脇に「普賢菩薩」、「弥勒菩薩」、「四天王」を安置する。
 平安時代の木造、秘仏の「子安鬼子母神像」(重文)(159㎝)は、安産、子育て祈願として知られている。「北野の鬼子母神さま」と親しまれている。毎月8日のみ開帳される。御前立が立つ。
 「祖師像(日蓮聖人座像)」は、「冑(かぶと)の御影」と呼ばれている。かつては祖師堂に安置されていた。戦国時代の武将・松永久秀家臣・佐々木広次が信仰したという。出陣の際、生還すれば一寺を建立することを祈願し、像に冑を被せ地中に埋めたという。盗賊がこれを盗もうとしたが、像は岩盤のように重くて動かなかったという。(『山州名跡志』)
 宗祖日蓮の「楊枝御本尊」は、宗祖図顕曼荼羅の最初のものになる。佐渡流罪に際して佐智で、楊枝の筆(樹皮の先を潰した筆)で書かれたものという。
 左右奥に、日朗、日蓮、大覚妙実が祀られている。
◆建築 本堂、祖師堂、刹堂(鬼子母神堂)は、「コ」の字型に配置されており、日蓮宗七間堂の典型的な平面構成による。本堂、刹堂、妙見堂、客殿、鐘楼、山門(総門)は京都市指定有形文化財になっている。
 「本堂」は、江戸時代、1743年に建立された。日蓮宗七間堂の典型的な平面構成による。蟇股に龍、虎、鳳凰、花などの彫り物がある。内陣須弥壇、来迎柱、虹梁が彩色されている。その他は素木で、木口のみに胡粉を塗る。周囲に落縁(おちえん、廻り縁、広縁の外に1段下げてつくった縁)をめぐらし、正面と背面に向拝3間が付く。入母屋造、桁行7間、梁行7間。75世・妙爾院日苑筆の扁額がかかる。
 
「客殿」(京都市指定有形文化財)は、江戸時代、1728に上棟された。六間取方丈形式の平面を基本とし、仏間が背面に張り出されている。日蓮宗客殿の初期の様式による。御所、桂宮の書院を後水尾天皇により下賜されたものともいう。
 「大玄関」は、皇室関係、本山の貫首猊下(げいか、高僧の敬称)の来山、大行事や特別行事の時にのみ開かれる。
 「刹堂(鬼子母神堂)」は、江戸時代、1719年に再建された。1783年に焼失、1811年に再建された。日蓮宗本堂の平面構成による。梁間7間重層形式。
 
「祖師堂」は、江戸時代、元禄年間(1688-1703)に建立され、1708年の大火でも焼失を免れた。もとは、寺町今出川の旧立本寺跡地にあり、その後移築した。
 
「鐘楼」(京都市指定有形文化財)は、江戸時代、寛永年間(1661-1673)の建立による。京極今出川の地にあり、焼失を免れ後に移築された。
 「山門」は、江戸時代、1771年建立された。大型の高麗門で、京都市文化財に指定。
 開山碑堂(宝塔堂)、鐘楼堂、経堂は旧地より移されている。ほかに、書院、庫裏、宝蔵などがある。
◆庭園 本堂北にある庭園は、客殿の西と南へ広がる鉤型の築山枯山水庭園になる。京都市の指定名勝になる。
 江戸時代、50世・日倒の時(1843-1850)に作庭されたという。南庭は、苔で覆われ、築山、灯籠、手水鉢が配されている。築山の土は、ほかより運び込まれたもので珍しい例になる。ドウダンツツジ(2m)の植栽がある。
 西庭は、5つの築山に、枯滝の石組、灯籠、手水鉢、五輪塔景石が置かれている。
◆文化財 日像筆、紙本墨書「十界曼荼羅図」は、仏教界、菩薩界など10種の世界を表している。お題目の光明点がすべて上に向いている独特の筆法で書かれ、由比ヶ浜で修行中に感得したということから「波振りの題目」といわれている。
 墨書「十六羅漢図」(重文)(3m×5.5m)は、本堂の須弥壇裏壁面に、江戸時代中期、1746年の渡辺始興(1683-1755)により描かれた。光琳門下、写実による描法。
 客殿床の間に、雪舟(1420-1506)筆の紙本墨書「寒山拾得図」軸装2幅対。
 紺紙金銀泥「法華経宝塔曼荼羅図」8幅(重文)、奈良国立博物館寄託。
 「法華経並観普賢経(藍紙)」7巻(重文)。
 日蓮真筆、紙本墨書「曼荼羅」は、鎌倉時代、1276年、身延山で書かれた。四天王はなく「病即消滅 不老不死」、花押内に「亀姫護也」と書かれている。
 日蓮真筆、紙本墨書「撰時抄断簡」は、鎌倉時代、1275年に身延山で書かれた「人路をつくる、路に迷う者あり、作者の罪となるべしや。良医薬を病人にあたう、病人服せずして死せば良医の失となるか」。「二病書」など。
 本堂、扁額「立本寺」は本阿弥光悦筆による。
塔頭
 近代以前は、20の塔頭を擁していた。近代以後は、4塔頭、正行院、教法院、光源院、大輪院が残る。 
◆遺跡 室町時代、1536年、比叡山衆徒、南近江の守護六角氏らによる京都の法華宗二十一本山を焼き討ちした、天文法華の乱に備えた「構え跡」の遺跡がある。
◆幽霊飴 日審の出生時の伝承が残されている。母は身ごもっていたが、病がもとで急逝する。葬式も済ませ、墓地に葬られた。雨降る夜、寺男は墓地から聞こえるかすかな赤子の泣き声に気づく。
 住持に知らせ、急いで塚を堀りかえす。埋められていた壷のふたを取ると、亡くなった母の傍らで、泣いている赤ん坊の姿が見えた。この赤子が後の日審という。
 赤子は飴を握って泣いていたとされ、「幽霊子育て飴」の伝説とも重なる。ある飴屋に夜になると飴を買いに現れる女性がいた。ある夜、主人は不思議に思い跡をつけた。寺の墓地前まで来ると姿が消えた。あたりに赤ん坊の泣き声がする。寺の者と調べると、身重のまま数日前に亡くなった女性がいた。急いでその墓を掘り返すと、亡くなった母の傍で泣いている赤子がいた。
◆墓 境内墓地には、豪商・灰屋紹益(1610-1691)とその妻・2代目吉野太夫(1606-1643)の墓がある。
 石田三成の軍師・島左近(「妙法院殿島左近源友也大神儀」)の供養塔がある。墓は境外墓地にあり、位牌などは塔頭・教法院にある。
 江戸時代の俳人・三宅嘯山(1718-1801)の墓がある。
◆花暦 桜、ドウダンツツジ(4月下旬-)、蓮(6月下旬-8月中旬)、紅葉。
◆年間行事 元旦祝祷会(1月1日)、寒修行(1月大寒入)、釈尊降誕花まつり・鬼子母神祭(4月8日)、施餓鬼法要・宝物虫干展観(8月24日)、お火焚祭(11月8日)、日蓮聖人お会式(12月8日)。 
 鬼子母神例祭(毎月8日)では、秘仏の鬼子母神像が開帳される。


*年間行事の中止、日時変更、拝観時間変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『事典 日本の名僧』『京都古社寺辞典』『京都歴史案内』『昭和京都名所図会 5 洛中』『京都大事典』『京都四季の庭園』『京の茶室 東山編』『京の寺 不思議見聞録』


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