壬生寺 (京都市中京区)
 
Mibu-dera Temple
壬生寺 壬生寺
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東門(正門)


東門、壬生延命地蔵尊と架かる







北門


南門
 



本堂


本堂





阿弥陀堂




塔頭の中院(ちゅういん)


中院


水掛地蔵堂


水掛地蔵堂


水掛地蔵堂、地蔵菩薩



一夜天神堂



弁天堂


弁天堂



鐘楼



寺務所



千体仏塔



大念仏堂(狂言堂)(重文)


三福川(みぶがわ)稲荷堂





石仏


夜啼き地蔵(おせき地蔵)



中の島



方丈池(弁天池)の龍神、壬生の板金業・桶本忠弘により2003年に奉納された。2002年、天橋立アート&クラフトフェア奨励集受賞作品



壬生官務家墓塔



人丸塚



歴代住職供養塔



新撰組局長・近藤勇の胸像と遺髪塔



近藤勇の絵馬



芹沢鴨、平山五郎の墓



勘定方・河合耆三郎らの墓



勘定方・河合耆三郎の墓



「新選組顕彰碑」、新選組同好会が1995年に建てた。裏面に局中法度が刻まれている。



新選組隊士慰霊塔、2005年建立
 壬生寺(みぶでら)は、「壬生さん」、「壬生地蔵さん」とも呼ばれている。「宝幢三昧寺(ほうどうさんまいじ)」、「宝幢三昧院」、「心浄光院(しんじょうこういん)」、古くは「地蔵院」とも呼ばれた。
 南都六宗の一つ律宗の別格本山、本尊は地蔵菩薩立像(壬生地蔵)を安置している。
 本尊は洛陽四十八体地蔵第1番、京都二十四地蔵1番。塔頭・中院本堂の十一面観音菩薩は、洛陽三十三所観音巡礼第28番札所、阿弥陀堂の本尊・歯薬師如来は京都十二薬師霊場第4番札所。江戸時代、洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第1番札所、札所本尊は縄目地蔵(なわめじぞう)だった。節分の四方(よも)参り(吉田神社、壬生寺、伏見稲荷大社、北野天満宮)のひとつ。
 厄除、開運招福、一願成就、病気平癒、延命長寿、金運向上、夜泣き封じ、子孫繁栄などの信仰がある。厄除守、起上り守、身代授与。御朱印(4種類)が授与される。壬生狂言公開日限定の御朱印がある。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 
奈良時代
、渡来僧で律宗の開祖・鑑真(688-763)による創建ともいう。(寺伝)
 平安時代、991年、園城寺(三井寺)の快賢僧都により、五条坊門壬生に復興された。快賢は慈母供養のために仏師・定朝に命じ、3尺(0.9m)の地蔵菩薩坐像を造らせ本尊とした。(『壬生寺縁起』)。都の表鬼門を護る比叡山に対して、その反対の裏鬼門守護のためだったともいう。
 1005年、五条坊門で御堂供養が行われ、本尊は草堂に安置される。「小三井寺(こみいでら)」と呼ばれたという。(『壬生寺縁起』)
 承暦年中(1077-1081)、第72代・白河天皇、皇后の行幸があり、天皇により「地蔵院」の勅額、寺号を贈られている。
 天承年中(1131-1132)、鳥羽上皇(第74代)の行幸があった。
 1144年、後白河院(第77代)の勅により、二条院誕生を祝して本尊が7日間開帳された。
 鎌倉時代、1213年、願主・平宗平(たいら の むねひら)により、五条坊門壬生より坊城の現在地に移された。伽藍を建立する。
 1257年、五条大宮殿の炎上にともない、地蔵堂を類焼する。全山焼失ともいう。
 1258年、本尊を遷座する。
 1259年、1258年とも、平宗平の子・政平により再興され、地蔵院より「宝幢三昧寺(ほとうさんまいじ)」と改めた。惣供養が行われた。中興の祖・円覚が勧進を行い、融通大念仏(壬生狂言)が始められる。『百錬抄』(同年条)中に地蔵堂の名があり、文献初例とみられる。
 1262年、平政平は土師宗貞に命じ撞鐘を鋳造した。(『壬生寺縁起』)
 1300年、正安年間(1299-1302)とも、導御(円覚)が修復する。「心浄光院」と号した。導御は中興の二祖になる。融通念仏(大念佛会)を修し、以来、大念佛会が始まる。(『雍州府志』)
 1301年、月輪寺が創建される。
 南北朝時代、1353年、朱雀院が焼失した。
 室町時代、1394年、妙専寺が創建される。
 1528年、細川高国と丹波勢の合戦で壬生寺は焼亡する。また、本堂、南門以外は破壊されたという。(『二水記』) 
 1557年、帰命院が創建される。
 安土・桃山時代、1587年、成道院が創建される。
 1590年、法雲寺が創建された。
 1591年、豊臣秀吉が寺領を寄進している。
 江戸時代、1610年、正法寺が創建された。
 1611年、第107代・後陽成天皇による殿舎修理、本尊開帳も行われた。
 1613年、光縁寺が創建される。
 1621年-1652年、坊舎、子院の再興が続く。(『壬生寺縁起』)
 1622年、聖得寺が創建される。
 寛永年間(1624-1643)、塔頭の中之坊(中院)が建立された。
 1658年、知空の称名念仏が盛んになり、以後、一派は壬生派と呼ばれる。西方寺が創建された。
 寛文年間(1661-1673)、網目地蔵は、第112代・霊元天皇の命により、僧・宝山が洛外・六地蔵以外の48か寺の地蔵尊を選んだ洛陽四十八願所の霊場のひとつになる。
 1788年、天明の大火により焼失している。塔頭も失う。
 1799年、東高麗門が再建される。
 1811年、本堂、地蔵院が再建された。
 1829年、現在の塔頭・中院の本堂が再建された。
 1843年、現在の阿弥陀堂が建立される。
 1856年、現在の大念仏堂が建てられる。 
 1863年、3月(旧暦)、壬生浪士組(新撰組)が壬生村で結成され、境内で軍事訓練が行われた。3月、会津藩士・本田四郎、4月、新撰組隊士・井上源三郎の兄の松五郎が壬生狂言を隊士とともに鑑賞している。
 1864年、蛤御門の変(禁門の変)の火災による被災者のために、京都所司代は米を配給した。壬生寺は焼失を免れたため配給所の一つになる。
 1865年、2月頃、新撰組は西本願寺に移る。9月頃、壬生寺境内で砲撃訓練が再開された。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、かつて11あった塔頭は中院のみを残して廃された。近代以降、区画整理、道路工事などで行き場を失った地蔵、阿弥陀仏、石仏などが境内に集まる。
 現代、1962年、不審火により本堂、本尊・地蔵菩薩像、四天王像などの仏像が焼失している。
 昭和30年代(1955-1964)、壬生寺墓地(壬生寺霊園)より新撰組隊士の墓が境内の壬生塚に遷された。
 1967年、本堂が再建された。この時、唐招提寺から遷された地蔵菩薩を本尊にした。
 1971年、役者・上田吉次郎により近藤勇の胸像が建立される。
 1995年、新選組顕彰碑が新選組同好会により建立される。
 1999年、阿弥陀堂が改築になる。歌手・三橋美智也の歌碑「ああ新選組」が有志により建立された。
 2012年、平安時代に始まったという京都十二薬師霊場めぐりが復活する。
◆鑑真 奈良時代の唐の僧、日本律宗の開祖・鑑真(がんじん、688-763)。唐の揚州江陽県生まれ。14歳で智満より得度、大雲寺に住した。18歳で道岸より菩薩戒を受け、20歳で長安に入る。翌年、弘景により登壇受具、律宗・天台宗を学ぶ。南山律宗の継承者として4万人以上の人々に授戒を行ったという。742年、揚州の大明寺の住職の時、日本僧・栄叡、普照らより渡日、戒律の伝授を懇請された。743年、最初の渡海企図は弟子の密告により失敗。744年、2回目は暴風により頓挫した。3回目は密告者により栄叡が逮捕され失敗した。4回目は福州より企てた。弟子が安否を気遣い官吏は出航を差し止めた。748年、5回目は暴風により、南方の海南島へ漂着した。751年、帰途に際し、栄叡が死去、鑑真は両眼を失明した。753年、6回目は、遣唐使が帰日する際に、副使・大伴古麻呂が密かに鑑真を乗船させる。薩摩坊津秋目に到着し渡日を果たした。753年、大宰府観世音寺に隣接する戒壇院で初の授戒を行う。754年、東大寺に住し、大仏殿に戒壇を築き、上皇以下400人に菩薩戒を授けた。常設の東大寺戒壇院が建立される。761年、大宰府観世音寺、下野国薬師寺と2つの戒壇が設置された。758年、淳仁天皇の勅により大和上に任じられた。759年、唐招提寺を創建、戒壇を設置した。763年、唐招提寺で死去した。 彫刻、薬草の知識も伝えた。悲田院で貧民救済に取り組んだ。
◆快賢 平安時代の僧・快賢(かいけん、生没年不詳)。詳細不明。園城寺(三井寺)の僧。僧都。991年、五条坊門壬生に壬生寺の前身が復興される。慈母供養のために仏師・定朝に命じ、3尺の地蔵菩薩坐像を造らせ本尊としたという。
◆円覚 鎌倉時代中期の律宗の僧・円覚(えんがく、1223-1311)。導御(どうご)。大和国に生まれた。3歳で東大寺門前に捨てられる。僧に拾われ、出家得度する。1240年、唐招提寺、その後、法隆寺に学ぶ。聖徳太子による融通念仏執行の夢告に従い、1258年、上洛する。1258年、壬生寺で初めて融通念仏を厳修した。壬生寺を再興、法金剛院の中興の祖となる。勧進のため融通大念仏を行う。嵯峨・釈迦堂、法金剛院など洛中48か所の道場で融通念仏を広める。帰依者が十万人となる毎に大斎会を設けたため、「十万上人」と呼ばれた。亀山天皇は「円覚十万上人」の号を授けた。
◆近藤勇
 江戸時代後期、新撰組局長・近藤勇(こんどう いさみ、1834-1868)。武蔵国に生まれた。父は豪農の宮川久次郎、母えいの3男。1848年、天然理心流3世・近藤周助に師事、4世を襲名する。1849年、周助の実家の島崎家養子になり、1860年、近藤勇藤原昌宜と称した。1862年、清河八郎らの浪士組に加わる。1863年、上洛の浪士組先番宿割役、一時は三番組の小頭を務めた。尊王攘夷派清河らに従わず京都に残留、壬生浪士組局長、その後、芹沢鴨を粛清し新撰組局長に就く。1864年、池田屋事件で尊攘派志士を襲撃した。1865年、長州訊問使・永井主水正尚志に随行。1867年、新撰組隊士が幕府召しかかえになる。西軍武力討幕蜂起の諜報により京都守護職に報じる。油小路事件で伊東甲子太郎ら新撰組を脱退した御陵衛士を粛清する。御陵衛士により、伏見街道墨染辺りで報復狙撃され重傷を負う。1868年、鳥羽・伏見の戦を経て江戸に移り、甲陽鎮撫隊を組織、甲州勝沼で敗走、下総流山で官軍に自ら投降した。板橋で斬首、首は同所、三条河原、大坂で晒された。
 壬生寺に遺髪塔がある。
◆芹沢鴨
 江戸時代後期の新撰組局長・芹沢鴨(せりざわ かも、1827-1863)。水戸藩士・芹沢又衛門以幹の三男が有力説という。前名を下村嗣次と称したともいう。松井村神官・下村祐斎の婿養子となる。戸賀崎熊太郎に神道無念流剣術を学び、免許皆伝、師範代を務めた。1860年、尊王攘夷の玉造組(天狗党前身)に参加し、1861年、水戸藩により弾圧され入獄する。1862年、大赦令により出獄した。1863年、江戸の清河八郎の浪士組に参加し、六番組小頭に任命された。清河らと京都に入り、芹沢は近藤勇らとともに壬生の郷士・八木邸に分宿した。尊攘派清河の江戸帰還に反対し、近藤らとともに京都に残留する。京都守護職会津藩御預りとなり壬生浪士組を名乗り、芹沢が局長筆頭になった。八月十八日の政変に御所の警備のために出動する。その活躍により新撰組と改める。1863年、芹沢の借財、乱暴狼藉の咎により八木邸内で近藤らに粛清された。
 墓は壬生寺にある。
◆平山五郎 江戸時代後期の新撰組隊士・平山五郎(ひらやま ごろう、1829-1863)。詳細不明。姫路、水戸藩出身ともいう。元姫路藩士堀川福太郎の門人となり剣術を学び、神道無念流の免許皆伝。花火事故で隻眼になる。1863年、清河八郎の浪士組に参加、芹沢鴨の六番組に配属され上京。浪士組の江戸帰還に反し芹沢らと京都に残留。壬生浪士組の副長助勤になった。水戸派に属し芹沢と行動を共にした。1863年、八木邸での暗殺事件で芹沢とともに斬殺された。
 墓は壬生寺にある。
◆野口健司 江戸時代後期の新選組隊士(副長助勤)・野口健司(のぐち けんじ、1843-1864)。水戸に生まれる。江戸の百合元昇三道場で神道無念流を学び目録を得る(免許皆伝とも)。1863年、浪士組に参加して上洛した。江戸帰還に反対し京都に残留、芹沢鴨らの水戸派(芹沢派)の一人になる。壬生浪士組で副長助勤。芹沢と行動を共にし、1863年、大坂力士の乱闘、大和屋焼き打ちに関与した。八月十八日の政変の際にも出動している。9月、芹沢と平山が暗殺された新撰組粛清の際に、野口は角屋に残り難を逃れた。以後、隊内にとどまるが、12月27日、切腹を命じられ、前川邸長屋門西の部屋で、安藤早太郎の介錯により自害した。21歳。
 墓は壬生寺にある。
◆河合耆三郎 江戸時代後期の新選組隊士(勘定方)・河合耆三郎(かわい きさぶろう、1838-1866)。播磨国の高砂生まれ。家は富裕な蔵元(米問屋)だった。大坂の商家に嫁いだ妹が新選組に推薦し、入隊した。勘定方となる。1864年、池田屋事件にも参戦し、褒賞金をもらう。50両の金が紛失し、その責のために切腹になる。実家より飛脚で50両が届けられた。到着したのは耆三郎の没後だった。
 墓は親族により壬生寺にある。別に新撰組により光縁寺にもある。
◆仏像・木像 ◈旧本尊「地蔵菩薩像(延命地蔵)」(重文)は、1962年、本堂焼失とともに焼失している。この時、鎌倉時代の「四天王立像」(重文)、「閻魔王像」も失われた。
 ◈「地蔵菩薩立像」(重文)(170㎝)は、1967年に本堂が再建された際に、唐招提寺より遷され本尊とされた。平安時代作といわれ、現存する日本最古級という。穏やかな表情を見せ、右手は下げ、左手を掲げ宝珠を載せる。衲衣に籠目、麻葉の文様が入る。一木彫、漆箔、截金。
 ◈「鑑真和上坐像」が本堂に安置されている。中国・揚州・文峰寺と壬生は姉妹寺院であり、坐像2体が造立され各々安置されている。2016年、坐像は上海より大阪まで「新鑑真号」により運ばれた。奈良・唐招提寺の鑑真和上坐像(国宝)の複製「お身代わり像」と対面後に、壬生寺に遷された。
 ◈「阿弥陀如来三尊像(阿弥陀如来・観音如来・勢至如来)」は、阿弥陀堂に安置されている。
 ◈「歯薬師如来」は、阿弥陀堂資料室に安置されている。京都十二薬師第四番札所の本尊、洛陽三十三所観音巡礼第28番札所の本尊であり、歯の病平癒の信仰を集める。
 ◈「十一面観音菩薩」は、塔頭の中院(ちゅういん)の本尊になる。鎌倉時代作。平政平(坂東平氏、平宗平の子)の発願により造立された。洛陽三十三所観音霊場第28番札所になる。福寿無量、健康長寿の信仰がある。
縄目地蔵 かつて、地蔵堂に「縄目地蔵(なわめじぞう)」と呼ばれた地蔵尊が安置されていた。左足を下げた半跏像だった。1962年の火災により焼失している。
 逸話が残る。武蔵国の香匂高遠(こうわ たかとお)が、敵に追われ境内に逃げ込んだ。法師が現れ、血刀を念珠に取替えた。追手は仏前で念仏を唱える高遠を見逃し、代わりに太刀を持っていた法師を捕縛し牢へ投獄し拷問した。
 翌日、牢獄内より法師の姿は消え、香ばしい匂いだけが残される。地蔵堂の地蔵尊には、体に縛られた際の縄が残り、鞭の跡に血が滲んでいたという。地蔵尊は身代わりになり高遠を救ったことから、以後、「縄目地蔵」と呼ばれ、篤い信仰を集めたという。(『太平記』巻24)
 「壬生地蔵」とも呼ばれ、「十益(安産、健康、病気平癒、長寿、知恵、金運、尊敬、五穀豊穣、神の加護、極楽浄土)」を授けるとされた。
 江戸時代、1702年、近松門左衛門作の歌舞伎「傾城壬生大念仏」が、坂田藤十郎主演で上演された。
◆弁天堂 弁天堂の創建は不詳。江戸時代中期にはすでに存在したという。石の線香立には、江戸時代、1847年の刻銘がある。
 清水寺の延命院より移された本尊の辧財天(秘仏)が祀られている。厨子入りの塑像で、弘法大師作ともいう。妲己尼天(だきにてん、左)、稲荷明神(右)も祀られている。江戸時代、1894年に再建された。
 当初は寺の西北池の畔にあったという。戦後に現在地に移された。水神、この地の鎮守、蓄財、子孫繁栄、金運上昇のご利益があるという。
◆水掛地蔵 水掛地蔵堂には、江戸時代、1649年作の「地蔵菩薩(石仏)」(152cm)が安置されている。水を掛けて祈ると、一つの願いが叶うといわれている。像の横に入るひび割れは、江戸時代の地震で倒壊した際に傷ついたものという。
◆一夜天神 一夜天神堂には、「一夜天神像」を安置する。平安時代の菅原道真(845-903)が左遷になった時、壬生に親戚を尋ね一夜を明かしたとの伝説がある。
 江戸時代前期に支院・寂静庵の開祖・託願上人の夢枕に道真が立ち、合祀するように伝えたという。託願は神像を刻み、一夜で知恵を授かることから一夜天神とした。江戸時代、1852年に再建された。1672年の託願建立の文字がある。
 左に六所明神、右に金毘羅大権現が祀られている。六所は壬生寺の鎮守、金毘羅は伽藍守護。遠方親族の安全祈願、学業成就祈願の信仰を集める。
◆三福川稲荷堂 
三福川(みぶがわ)稲荷堂は、北門近くにある。創建については不詳。名は、近くを流れる壬生川に因んだという。
 明治期(1868-1912)には稲荷川上大明神と呼ばれていた。五穀豊饒の神、壬生寺の鎮守社であったともいう。子孫繁栄、商売繁盛のご利益がある。
◆建築 表門(東門、正門)、南門、北門、一夜天神・六所明神、阿弥陀堂、手水舎、弁財天堂、水掛地蔵、鐘楼、本堂、書院、庫裡、狂言堂などがある。
 ◈「表門(東門、正門)」は、江戸時代、1799年に再建された。高麗門、控え柱に屋根がつく。
 ◈「本堂」は、江戸時代、1811年に再建された。1962年に焼失後、1967年(1970年とも)に現在の建物が再建された。鉄筋コンクリート造、5間4面、入母屋造、本瓦葺、正面に3間の向拝付。
 ◈「大念仏堂(狂言堂)」(重文)は、江戸時代、1856年に再建された。1985年に解体修理されている。笈形がある。狂言が行われる。「本舞台」、本舞台に向かう斜めにかけた勾欄のある通路、舞台の一部「橋掛かり」、能舞台にはない鬼などが飛び込んで消える「飛び込み」、綱渡り芸をする「獣台(けものだい)」などの狂言特有の構造物もある。
  ◈「阿弥陀堂」は、鎌倉時代、1213年に創建された。江戸時代、前川五郎左衛門により復興されている。2002年に御堂が完成した。建築家・山本良介の設計による。地階の壬生寺歴史資料室には、歴史史資料、壬生狂言、新選組史資料などを展示している。
 ◈塔頭「中院(ちゅういん)」は、江戸時代、寛永年間(1624-1643)、本良律師により創建された。1829年に現在の本堂が再建されている。近代、明治期(1868-1917)、律宗の修行道場になり、中院と呼ばれた。かつて、中之坊と呼ばれた。かつて11の塔頭があり、現在残る唯一の塔頭になる。
  ◈「鐘楼」は、江戸時代、1851年に再建された。 梵鐘は、1848年の鋳造による。
◆庭園 庭園(京都市指定名勝)は、本堂の西、書院の南にある。江戸時代、北村援琴の『築山庭造伝』(1735)に鳥瞰図が載せられている。その後の大火で焼失したという。1811年、本堂などが再建され、庭も元の形に整備された。南北に長い枯池、築山、右手奥に枯滝石組みがある。
◆円覚・壬生狂言 鎌倉時代、1259年(1258年とも)の平政平による当寺再興に際して、円覚(1223-1311、円覚十万上人)は勧進を行い、壬生寺の中興の祖とされた。
 かつて、円覚が法隆寺の夢殿に詣でた際に、飛鳥時代の聖徳太子(574-622、厩戸皇子)のお告げがあったという。融通念仏を修して、道俗男女を勧化(信心を勧める)せよというものだった。
 円覚は、洛中の上京、下京の南北二京、嵯峨・釈迦堂、双ヶ岡・法金剛院など48か所に道場を開き融通念仏を広めた。この時、身振り手振りで仏の教えを説き、無言の狂言形式により仏法の利生などを表現した。このため、10万人もの結縁を得て、円覚は「十万上人」と称された。
 1300年、壬生寺では、法会「大念佛会」という持斎融通念仏を行う。悪疫駆除のために、仏の教えを具現した融通念仏により復興勧進を行う。これは、良忍の融通念仏と地蔵信仰を結びつけ、壬生大仏狂言の起源になる。壬生大仏狂言は、庶民に仏の教えを説くための無言劇であり、劇により布教を行った。 狂言は法要であり、庶民にとっては娯楽でもあった。このため、近世には、演目は能や物語などからも題材がとられる。宗教性に娯楽性が加わり勧善懲悪、因果応報の道理が唱えられた。
 現在、大念仏堂で行われる京都三大念仏狂言の一つ「壬生狂言」(重要無形民俗文化財)は、正式には「壬生大念仏狂言」、「壬生さんのカンデンデン」とも呼ばれている。
 かつては陰暦3月に行われた。現在は、毎年4月と10月に「ガン・デンデン」と鉦、太鼓(金鼓、締太鼓)、笛などで囃子ながら行われる。演者は白布で頭を覆い、面を被った無言劇で、壬生寺周辺の人々(壬生郷士)、地域名主の組織「講中(こうちゅう)」により伝えられてきた。現在は、壬生大念仏講の35人ほどにより継承されている。
 寺には、室町時代以来の190点の面が伝えられている。能衣裳以外は、死者追善のために、寺に奉納された故人の衣裳を用いる。台本はなく、すべて見聞きして覚えていく。
 曲目30番(1番「愛宕詣り」-30番「羅生門」)がある。3系統に分かれる。①能楽系(14種、「大江山」「土ぐも」など)、②能狂言系(5種、「花折」「花盗人」など)、③壬生狂言独自(11種、「桶取」「山端とろろ」など)になる。
 毎日の序曲には、「炮烙(ほうらく)割り」が演じられている。炮烙とは、素焼きの平たい土鍋をいう。「炮烙屋」「太鼓屋」という2つの店が場所争いをして、並べてある炮烙を次々に舞台下に落とし、粉々に割っていく。炮烙には節分に厄年の人名、年齢などが書かれており、厄落としの意味もある。最終日の「湯立」は、大和・大神(おおかみ)神社の神楽に由来する。
 なお、壬生六斎念仏講の人々は、祇園祭で綾傘鉾囃子方を務め、疫神祓いの「棒振り」を披露する。これは、壬生に古くより伝わる田楽に由来するという。
幕末の京都の推移 江戸時代末、1853年、アメリカのペリーは浦賀に来航する。1854年、「日米和親条約」が締結され、下田、箱館が開港になる。1856年、初代領事・ハリスが着任し、1857年、13代将軍・徳川家定に謁見した。幕府は、通商条約締結のために、老中・堀田正睦を上洛させ、第121代・孝明天皇の勅許を得ようとした。だが、天皇は尊攘論者であり、多くの公卿も反対したため勅許は得られなかった。
 将軍・家定に後継はなく、次期将軍候補をめぐる対立も起きた。一橋慶喜派の徳川斉昭、紀伊慶福(家茂)派の井伊直弼が拮抗する。1858年に直弼は大老になり、慶福を14代将軍に内定させ、一橋派を弾圧した。日米修好通商条約は勅許がないままに調印された。1858年-1859年、直弼は安政の大獄により尊攘派を弾圧した。1860年、直弼は桜田門外の変で暗殺された。幕府は、起死回生のために朝廷に攘夷決行と引き換えに、天皇の妹・和宮を家茂に嫁がせる「公武一体」を謀る。
 京都の治安は悪化しており、尊攘派と鎮撫派の対立が激化していた。1862年、洛中で寺田屋事件が起こり、天誅が頻発したため、幕府は京都守護職を置き、会津藩主・松平容保が任じられた。1863年、家茂入洛時には、将軍家警固のために浪士隊が組織された。だが、尊攘派の清河八郎と近藤勇の対立が起こる。京都に残留した勇らは京都守護職預かりになり、新たに壬生組を組織した。
 長州藩、公卿・三条実美らは、王政復古を企て幕府を揺るがす。これに対して公武合体派の会津藩、薩摩藩は、1863年に武力クーデタ「八・一八の政変」を起こした。公武合体派は巻き返しのために御所を固め、御所の堺町御門を警備していた長州藩を解任、代わりに新選組が名をもらい任に着いた。さらに、長州藩の京都からの退出、関与した公卿の謹慎を命じた。妙法院に集まった長州藩士、7人の公卿は長州へと向かう。(「七卿落ち」)。以後、公武合体派は、新撰組、見廻組による浪士狩りを行い京都の治安強化を行う。
◆新撰組 江戸時代、幕府は14代将軍・徳川家茂の上洛に際して、京都の治安を重視した。出羽庄内藩の志士・清河八郎(1830-1863)は、浪士対策として、江戸の浪士、政治犯を赦免し、浪士組を組織する。この浪士組により、勤皇の志士を取り締まるという案を持っていた。清河は、土佐・間崎哲馬に伝えた。間崎は、土佐藩主・山内容堂を通じ、幕府政治総裁・松平春嶽を説いた。
 江戸時代、1863年、「壬生浪士組(新撰組)」はこの地、壬生村で結成される。徳川家茂の上洛警護のため、清河が率いる浪士組(隊)200人が入洛した際に、八木家などが宿舎の一つとして使われた。東向かいの新徳寺で、清河は隊士に向けた尊王攘夷への転向演説を行う。その後、浪士組は分裂し、芹沢ら大多数は江戸に戻る。近藤勇、土方歳三らの京都残留者により、新たに「壬生浪士組」が結成され、八・一八の政変後、「新撰組」に名を変えた。隊士は「壬生浪士」とも呼ばれていた。
 壬生寺境内は、新撰組の兵法調練場に使われた。五番隊組長・武田観柳斎(?-1867)が長沼流軍学により指導した。武芸や、毎月4と9の付く日には大砲の訓練が行なわれ、境内に砂山が築かれた。屯所が西本願寺に移された後、砲撃訓練は一時中断される。だが、西本願寺門主の西本願寺境内での訓練中止の申し入れがあり、壬生寺で再開される。このため、壬生寺の参拝者は減り、砲撃による振動で瓦、戸障子に被害が出たという。また、勅願寺であるため、境内への馬の乗り入れは禁じられていたが、新撰組はそれも無視した。壬生寺側でも朝廷に対して訓練中止の嘆願書を出し、新撰組西本願寺屯所に対して、再三の砲撃訓練中止を申し入れをしたが受け入れられなかった。
 新撰組は活動資金を得るため、壬生寺、八坂神社などで相撲興業を行った。一番隊組長・撃剣師範の沖田総司(1844?-1868)は、寺の近所の子供らと戯れていたという。隊士は境内池の魚やスッポンを食したという。隊士らは壬生狂言も鑑賞した。近藤勇のお気に入りの演目は「土蜘蛛」だったという。
 郷士の八木邸、前川邸、南部邸なども屯所になった。今は八木本家、八木邸(京都市指定文化財)と旧前川邸(現在は田野製袋所所有)が残る。壬生塚では7月16日に「新選組隊土等慰霊供養祭」が催され、慰霊法要、剣技、詩吟披露がある。
◆文化財 「五仏錫杖」(重文)は、快賢僧都が感得した旧本尊・地蔵菩薩のものとされ、平安時代中期の作といわれる。宋より将来されたともいう。京都国立博物館寄託。
 「列仙図屏風」六曲一双(重文)は、安土・桃山時代の絵師・長谷川等伯(1539-1610)筆による。
 「金鼓(ごんく)」は、平政平が寄進した。鎌倉時代、「正嘉元年(1258年)」の銘がある。鋳物師大工・大和守土師(はじ)宗貞の作とあり、直径2尺2寸(66.6cm)ある。1962年の火災により損傷を受けた。
 古面の赤鶴作「猿」、竜右衛門作「狐」、日永作「翁」がある。
 伊藤若冲が奉納した「能面」がある。
 平安時代の歌人・壬生忠岑(みぶ の ただみね)愛用の「硯」は、忠岑邸宅跡より発掘された。
◆石造物 ◈「千体仏塔」は、1989年に創建千年記念に建立された。千体の石仏はパコダを模している。近代、明治期(1868-1912)の都市計画(市電軌道敷設)に際して市内各地から集められた。境内には室町時代の菩薩地蔵、阿弥陀如来、大日如来など3000体の石仏がある。
 
◈「夜啼き地蔵(おせき地蔵)」は、塔頭中院に祀られていた。病気平癒、幼児の夜泣き止のご利益あるという。
 
◈「百度石」は、かつて参道にあり、江戸時代、1713年に中之坊の仲介により信者が建立したという。石には「車通るべからず」と刻まれている。新選組は境内に馬を乗り入れていたという。
◆壬生 「壬生(みぶ)」の地名由来について、①「にぶ/にむぶ」が転訛して「みぶ」になったともいう。②この地が低湿地帯であり、「水生(みぶ)」とした。「水のある低地」の意味になる。③五行説で「壬」は水に属することから、壬生大路の古名を用いたともいう。④壬生(みぶ/にぶ)は、平安京の宮城美福(みふ)門に由来するともいう。
◆文学 新撰組ものとしては、子母澤寛『新選組始末記』『新選組遺聞』『新選組物語』、司馬遼太郎『燃えよ剣』『新撰組血風録』、浅田次郎『壬生義士伝』『輪違屋糸里』、池波正太郎『幕末新撰組』、永倉新八『新撰組顛末記』、森村誠一『新選組』(祥伝社文庫)、早乙女貢『新選組列伝』『士道遥かなり疾風新選組』、津本陽『孤狼は空に』など数多い。
◆墓 池の中の島は、「壬生塚」と呼ばれている。
 ◈「壬生官務家墓塔」がある。江戸時代のものという五輪の塔が2基ある。壬生官務家は本姓を小槻氏といい、平安時代以来太政官制の書記官を務めた。 
 ◈「歴代住職供養塔」には、開山の快賢、円覚などを祀る。 鎌倉時代の宝篋印塔という。
 ◈「人丸塚」は、近代、1917年に立てられた。かつて、坊城通高辻西南角にあった。飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂(660頃-720頃)の灰塚という。歌舞伎十八番「景清」の娘・人丸ゆかりともいう。現在の碑は大正期(1912-1926)のものという。火除けのご利益があるとされ、人麻呂が「人丸」、「火止まる」と転訛した。
 ◈幕末の新撰組隊士の墓などがある。かつて、寺が管理する旧壬生村墓地にあった。1971年に俳優・上田吉次郎が壬生塚に移している。八木家の墓にもなっている。壬生塚には、新撰組局長・近藤勇(1834-1868)の胸像と近藤の遺髪塔、八木邸で近藤、土方蔵三らにより暗殺された水戸派の首領・芹沢鴨(1827?-1863)、同じく水戸派で副長助勤・平山五郎(1829-1863)がある。
 金銭不足の責により処刑されたともいう勘定方・河合耆三郎(1838-1866)は石問屋を営む父が建てた。病死とも暗殺ともいう副長助勤・阿比原栄三郎(阿比留鋭三郎)(?-1863)、水戸派の田中伊織(新見錦?)、副長助勤・水戸派で前川邸で切腹死したという野口健司(1843-1864)、伍長で池田屋騒動で討死したという奥沢栄助(?-1864)、副長助勤で池田屋騒動で負傷死したという安藤早太郎(?-1864)、池田屋騒動で負傷死した平隊士・新田革左衛門(?-1864)、切腹死した伍長・葛山武八郎(?-1864)が眠る。
◆壬生菜 壬生は、「京の伝統野菜」の水菜(みずな)の名産地として知られた。「みぶ菜」、「壬生菜」、流水を畑に引き込むため「水入り菜」、「まくり菜」、京都では「みず菜」とも呼ばれ、関東では「京菜」との呼び方がある。
 江戸時代の十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』(1802-1814)では、「東寺菜」が出されている。 
 塩漬けの始まりは、江戸時代、天保年間(1830-1844)という。千枚漬けの添え菜としても用いられる。
◆サクラ 明星桜がある。ヤマザクラ系で青い花弁の色がある。桜の下で火を焚き眺めると、花弁が夜空に映え、明星のようであることから明星桜と呼ばれたという。
 また、オオシマザクラ(大島桜)の種であるという。葉はヤマザクラと比較し、産毛がないことから塩漬けにして桜餅を包む。樹には特徴的な芳香があり、樹下に立つと香り立つ。その成分主体はクマリンの配糖体になる。
 平安時代、公家・浦内淡路守は、松浦党祖源久を頼り、佐賀伊万里に居を移した。浦内は望郷の念から、壬生寺の桜苗木を伊万里に移植したという。1992年、明星桜は伊万里市より壬生寺に移植され里帰りを果たした。
 ほかにソメイヨシノなどもある。
◆年間行事 修正会(1月1日-3日)、節分会(厄除星祭修行、昇殿祈祷。13時、稚児行列。14時、大護摩祈祷。13時-20時、壬生狂言「節分」。)(2月2日)、節分会(厄除星祭修行、昇殿祈祷。13時-20時、壬生狂言「節分」。)(2月3日)、節分会(厄除星祭修行)(2月4日)、壬生大念仏狂言(4月21日-29日)、花まつり(4月8日)、新撰組隊士等慰霊供養祭(7月16日)、盂蘭盆会(8月9日-16日)、中堂寺六斎念仏・万灯供養会(鎌倉時代から続く)(8月9日-16日)、壬生大念仏狂言(10月連休)、除夜の鐘(23時40分より鐘を撞くことができる。先着で甘酒接待。)(12月31日)。
 

*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『京都を歩こう 洛陽三十三所観音巡礼』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 上』『京都歴史案内』『昭和京都名所図会 5 洛中』『京都の地名検証 3』『京都の仏像』『寺社建築の鑑賞基礎知識』『新選組事典』『新選組大事典』『新選組の青春 壬生と日野の日々』『旧版 京のお地蔵さん』『京都のご利益徹底ガイド』『京の古都から 9 法金剛院』『京都・観光文化 時代MAP』『京都の寺社505を歩く 上』『意外と知らない京都』『あなたの知らない京都府の歴史』『京の伝統野菜』『京都 神社と寺院の森』『京都の隠れた御朱印ブック』『週刊 京都を歩く 19 講談社 壬生 新選組/無名舎』 『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』


  新徳寺     八木邸    前川邸            清凉寺    更雀寺(雀寺)      法金剛院    西本願寺     園城寺(三井寺)(大津市)      

歌手の故・三橋美智也の「あゝ新撰組」の歌碑」(1999)

百度石

明星桜

明星桜



ソメイヨシノ

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