中原中也の下宿跡 (京都市上京区)
The lodgings of NAKAHARA Chuya

  Home   Home

中也の唯一残る下宿跡、非公開


小さな窓が「スペイン風」?


NPO京都中也倶楽部によって催された中也展より


中也の研究書と右上は遺品の着物
 詩人・中原中也(1907-1937)は、2年間(1923-1925)を鴨川近くの今出川通近くの下宿で過ごしている。
◆中也 中也は、山口市湯田温泉に生まれた。山口中学を落第し、3年生から編入した立命館中学校に通った。
 中也の京都市内での下宿跡は8ヶ所ある。そのうち現存しているのは、鴨川西の「寺町今出川一条目下ル中筋角」大宮町のみとなっている。この下宿には、1925年2月から3月まで住んでいた。
 当時、下宿の東にある河原町通はまだなく、西の寺町通には市電が走っていた。北の今出川通の東は行き止まりで、鴨川に現在の賀茂大橋はまだ架かっていない。
 中也は、下宿近く丸太町の古本屋で、詩人・高橋新吉(1901-1987)の『ダダイスト新吉の詩』を手にし、ダダイズムに傾倒する。ダダイズムは、第一次大戦中のヨーロッパでの反戦・厭戦的な思想潮流で、既存の言語表現などに懐疑を抱き、反芸術を唱えた。
 中也は詩人で画家の富永太郎(1901-1925)を知り、フランス詩に興味を抱く。国文学者・富倉徳次郎とも交流している。大部屋女優・長谷川泰子(1904-1993)と出会い、その後1924年3月より、この下宿でも彼女と同棲している。中也17歳、泰子は20歳だった。
 1925年3月、中学の卒業を待たず、中也は泰子とともに上京、東京では文芸評論家・小林秀雄(1902-1983)と会う。やがて、泰子は小林と同棲し、後にその小林とも別れている。
 京都の下宿の東には、細い中筋通がある。「スペイン風掃き出し窓」と中也が触れ込んだ下宿は、その後友人が引き継いだ。ただ、現在、このごく普通の町家に、スペイン風の出窓らしきものは見当たらない。
◆作品 下宿から見える風景、界隈の情景は、『ゆきてかへらぬ』の中で中也が触れている。「僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々揺つてゐた。/木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々と、風車を付けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。/棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、風信機の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。‥」
 風信機とは向かいの家にあった風見鶏で、かつては下宿の窓から見えていたという。
 初の詩集『山羊の歌』(1934)には、京都で詠んだ詩をもとにした巻頭詩『春の日の夕暮』も収められている。「トタンがセンベイ食べて 春の日の夕暮は穏かです‥/ポトホトと野の中に伽藍は紅く 荷馬車の車輪 油を失ひ 私が歴史的現在に物を云へば 嘲る嘲る 空と山とが/瓦が一枚 はぐれました これから春の日の夕暮は 無言ながら 前進します 自らの 静脈管の中へです」


              賀茂大橋      
 中原中也の下宿跡 京都市上京区寺町今出川一条目下ル中筋角 

より大きな地図で 中原中也の下宿跡  を表示
 Home    Home  

  © 2006- Kyotofukoh,京都風光 http://www.kyotofukoh.jp