光円寺 (光圓寺) (京都市下京区)
Koen-ji Temple

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門前に「親鸞聖人御入滅之地 五条西洞院月輪本荘 花園殿奮跡」の石碑が立つ。



 光円寺(光圓寺、こうえんじ)は、親鸞(1173-1262)入滅の地ともいわれている。門前に「親鸞聖人御入滅之地 五条西洞院月輪本荘 花園殿奮跡」の石碑が立つ。花園殿光圓寺ともいう。 
 真宗大谷派。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代-鎌倉時代、この地には、関白・九条兼実(1149-1207)の別墅(べっしょ、別荘)だった月輪本庄(つきのわほんしょう)花園殿の北端付近に当たるという。親鸞は、この地で、兼実の息女で妻となった玉日姫と過ごしたという。また、晩年にはここを住居としたという。
 鎌倉時代、1262年、親鸞は花園殿で入滅したという。
 室町時代、1552年、本願寺10世・証如(1516-1554)の頃、寺は現在地に移り光圓寺となったという。開基は僧・貞尚という。
 光圓寺11世・祐正法師の頃、東本願寺12世・教如(1558-1614)と同年生まれで親交があった事により、寺は大谷派に所属するようになったという。
◆花園御殿 花園御殿(花園殿)については、現在の西岸寺(伏見区深草直違橋二丁目)にあったとみられている。
 平安時代の公卿・藤原忠通(1097-1164)が建立した法性寺小御堂の地に、その子・九条兼実(1149-1207)も住み、花園御殿と称した。親鸞は兼実の娘・玉日を娶る。1207年、親鸞はこの地より越後流罪となり、以来、玉日はこの地で没したという。
◆藤原忠通 平安時代後期の公卿・藤原忠通(ふじわら の ただみち、1097-1164)。公卿・藤原忠実の子。法性寺殿とも呼ばれた。罷免された父に代わり、関白、摂政、太政大臣を歴任した。鳥羽院政で復権した父と争い、1156年の皇位を争う保元の乱の一因となった。
 詩歌、書に優れ書は法性寺流と称された。
◆九条兼実 平安時代後期から鎌倉時代の公卿・九条兼実(くじょう かねざね、1149-1207)。公卿・藤原忠通の子。九条家の祖。月輪殿、後法性寺殿とも呼ばれた。右大臣、摂政、氏長者、太政大臣、関白を歴任し、源頼朝の征夷大将軍宣下を執る。1196年、源通親により失脚、法然に帰依して出家した。法然の弟子・親鸞の妻は、兼実の娘であり、親鸞は晩年に兼実の花園別邸に過ごし、亡くなったともいう。藤原俊成は歌の師範だった。
◆恵信尼 平安時代-鎌倉時代の女性・恵信尼(えしんに、1182-1268?)。詳細不明。越後介・兵部大輔・三善為教の娘ともいう。中級貴族の娘、越後の豪族の娘ともいう。親鸞と結婚したのは、京都とも、越後でともいう。1211年、越後で明信を生み、赦免された親鸞と共に、1214年、一家で関東に赴く。1224年、末女・覚信尼が生まれる。1234年、親鸞の帰京時に恵信尼も帰京した、直接越後に赴いたともいう。1254年以前に越後に下り、覚信尼に下人を譲る。1256年、親鸞は子・善鸞を義絶した。恵信尼は覚信尼に下人の譲状を送り、再び譲状を送る。1261年、病いになる。
 恵信尼については諸説ある。親鸞の妻は恵信尼一人とも複数ともいう。子・善鸞は実子とも異母ともいう。親鸞の関東からの帰京に際し恵信尼も帰京した、居留したともいう。恵信尼の晩年は国府辺、板倉、とひたのまきにあったともいう。
 1921年、西本願寺の宝物庫から恵信尼の書状10通(1256-1268)が発見された。恵信尼が越後より京都の覚信尼に宛てた書状だった。
◆木像 親鸞、弟子で庶民だった大部の平太郎、九条兼実、玉日ノ君御木像などがある。
◆文化財 「紙本著色京洛月次風俗図扇面流図屏風」(京都市指定文化財)(京都国立博物館寄託)。
 室町時代末期、狩野元信工房による制作とみられる。背地画面に24面の扇面を添付する。23面の扇面には、1月から6月の年中行事、京洛名所、風俗が描かれている。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『日本の名僧』『京都の地名検証 2』『京都の地名検証 3』『京都の寺社505を歩く 下』


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 光円寺 〒600-8448 京都市下京区藪下町7-9,松原通西洞院東入る   075-351-7069
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