来迎院 〔泉涌寺〕 (京都市東山区)
Raigo-in Temple
来迎院 来迎院 
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「安産守護 ゆな荒神社 弘法大師 独鈷水」


本堂



本堂



宝篋印塔



弘法大師銅像



「弘法大師 独鈷水」の石標
 来迎院(らいごういん)は、泉涌寺の北に位置している。朝廷の安産勅願所として信仰を集めた。山号は明応山という。泉涌寺の別当、塔頭のひとつに数えられる。 
 真言宗泉涌寺派、本尊は阿弥陀如来。
 泉山(せんざん)七福神の5番、大黒天、家業繁盛の信仰がある。御朱印(3種類)が授けられる。
◆歴史年表 平安時代、806年、空海が創建したという。唐で感得した荒神尊を安置したことに始まるという。その後、衰微した。
 鎌倉時代、1218年、泉涌寺4世(3世とも)・月翁智鏡律師が、藤原信房の帰依により堂宇を開創し、泉涌寺子院とした。開山は月翁とする。
 室町時代、1470年、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した。
 安土・桃山時代、1574年、舜甫明韶(しゅんぽ みょうしょう)が、織田信長の帰依により寺領50石を寄せられた。
 1589年、豊臣秀吉は別朱印54石を寄進する。 
 1597年、第107代・後陽成天皇、前田利家により再興された。三宝大荒神堂の内陣、外堂が建てられた。徳川家よりの寄進もある。
 その後、三宝大荒神(ゆな荒神)が安産の守護神として信仰され、朝廷の安産の勅願所として信仰を集める。
 江戸時代、1701年、大石内蔵助は、来迎院住持・卓巌韶興宗師を頼る。寺請証文を受け、山科に閑居を構えるととも当院の檀家になる。大石家同族の山科西野山・進藤源四郎とともに書院を再建した。大石は当院内に、独鈷水に因み茶室「含翠軒(がんすいけん)」を建立した。
 近代、1868年以後、神仏分離令後の廃仏毀釈により荒廃する。荒神堂だけが残る。
 大正期(1912-1926)、玄暁により再興された。現在の本堂、客殿、庫裏、薬医門が建てられた。荒神堂、含翠軒が修復される。現在の庭園が作庭され、石橋が架けられた。
◆月翁智鏡 鎌倉時代の真言宗の僧・月翁智鏡(がっとう ちきょう、生没年不詳)。入宋。泉涌寺4世。1218年、泉涌寺・来迎院の開山。
◆舜甫明韶 安土・桃山時代の真言宗の僧・舜甫明韶(しゅんぽ みょうしょう、生没年不詳)。泉涌寺7世。泉涌寺・来迎院の中興の祖。
◆大石良雄 江戸時代の播磨国赤穂藩の筆頭家老・大石良雄(おおいし よしお/よしたか、1659-1703)。通称を内蔵助。播磨国赤穂藩の重臣・権内良昭の子。父死後、祖父内蔵助良欽の家督を嗣ぐ。若くして家老職となる。山鹿素行に軍学、伊藤仁斎に漢学を学んだとい う。1701年、主君・浅野長矩(浅野内匠頭)が、江戸城松之大廊下において、高家(こうけ)・吉良上野介に対して刃傷事件を起こした。このため、浅野は 即日切腹、浅野家はお家断絶、領地没収となる。吉良に咎めはなかった。
 城代家老大石は、1701年4月、赤穂城明渡し後、6月より山科で隠棲し、翌1702年の10月まで旧赤穂藩士と連絡をとる。山科には、大石家の親族・進藤長之(近衛家家臣)の土地があり、支援があった。旧赤穂藩内には、吉良へのあだ討ちを主張する急進派と、御家再興の穏健派の対立が起こる。その後、再興が絶望的になったため、1702年12月14日未明、大石を初めとして総勢47人の赤穂浪士は、本所吉良屋敷に討ち入る。1703年2月、大石以下46士は切腹を命じられ自刃した。
 1702年、良雄(内蔵助)は山科に浪宅を構え、来迎院の檀家にもなった。山科に移った大石家の寺請証文(身元保証)は、当院長老・卓巌韶興が引き受けた。良雄は、書院、茶席「含翠軒(がんすいけん)」を建立する。当院で討入について度々密議を重ねたという。遺品なども残されている。
◆仏像・神像 本堂に本尊「阿弥陀三尊像」を安置している。
 本堂に安置の「勝軍地蔵大菩薩」は、大石内蔵助の念持仏とされ、大石は大願成就を祈念したという。 荒神堂(廣福殿荒神堂)に、鎌倉時代作の「三宝大荒神坐像」(68.2㎝)(重文)が安置されている。弘法大師(空海、774-835)作ともいう。唐風衣冠束帯に、袴、沓を履いて坐する。この点で、木像彫刻では唯一例になるという。一面四臂に五輪塔、法具を持つ。三宝荒神ともいわれ、三宝(仏、法、僧)を守護し、衣、食、住の宝を授ける廣福大王ともいわれる。当山では「胞衣(ゆな/えな)荒神」とも呼ばれ、皇后宮の安産祈願も行われていた。木造、寄木造、彩色、玉眼。
 三宝荒神の眷属である「護法神立像」5体(65.3-69.3㎝)(重文)は、武装し、焔髪に上半身は裸形になる。写実的な表現をしている。木造、寄木造、彩色、截金、玉眼。京都国立博物館寄託。
◆建築 山門、庫裏、本堂、客殿、茶室の含翠軒、荒神堂、鎮守社がある。大正期(1912-1926)、玄暁により再興された。現在の本堂、客殿、庫裏、薬医門が建てられた。荒神堂、含翠軒が修復されている。
◆茶室 茶室「含翠軒(がんすいけん)」は、大石内蔵助が山科の浪宅に住んだ頃に建てられたという。大石は茶を嗜み、この茶室で同志と密会したという。「赤穂忠臣談合所」とも呼ばれた。
 現在の茶室は、1925年に再建されている。軒の扁額「含翠」は、大石内蔵助筆という。
◆文化財 茶室「含翠軒」の扁額「含翠」は、大石内蔵助筆という。
 大石内蔵助筆「翡翠の図」、大石遺愛の「茶釜」がある。
◆庭園 近代、大正期(1912-1926)、玄暁により現在の池泉回遊式庭園が作庭された。心地池、円形の苔地があり、石塔、燈篭などが立てられている。楓の林があり、紅葉の名所になっている。
 庭に「伽藍石の蹲踞」「足利時代の八面仏石幢」「足利時代の八面仏石」「安土・桃山時代の聚楽第灯籠」などがある。
◆名水 「泉涌寺三名水」の一つ「独鈷水(どっこすい)」は、弘法大師が独鈷で掘り当てたという。
◆祈願の御石 境内に立つ弘法大師像の脇に祈願の御石が積まれている。石に願い事を書いて、像を3回廻り、立石の梵字に当て祈念し、石を奉納する。
◆七福神巡り 泉涌寺山内の七福神めぐり(成人の日)は、泉涌寺(泉山)七福神巡りとして塔頭9か寺を巡る。1951年以来続けられている。これらを福笹を持ち参詣する。
 1番は福禄寿・即成院、2番は弁財天・戒光寺、番外の愛染明王・新善光寺、3番は恵比寿神・今熊野観音寺、4番は布袋尊・来迎院、5番は大黒天・雲龍院、番外の楊貴妃観音・泉涌寺本坊、6番は毘沙門天・悲田院、7番は寿老人・法音院。
◆光照院・持明院・安楽光院 平安時代後期、光照院境内(上京区)を含む地に、公家・武人の藤原基頼(ふじわら の もとより、1040-1122)の邸宅があった。
 持明院は、その邸内に基通が安楽光院という持仏堂を建立したことに始まる。後に持明院と改称された。室町時代、1353年に持明院は焼失する。安楽光院は残る。1475年にも焼失した。その後、再建なされることはなく、跡地に、室町時代、1477年、光照院が移転した。
 なお、安楽光院は、泉涌寺塔頭・来迎院(東山区)に合併されている。
◆紅葉 紅葉の名所としても知られる。
◆年間行事 泉涌寺山内の七福神めぐり(成人の日)、お火焚祭(三宝荒神開帳)(10月)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『京都府の歴史散歩 中』『昭和京都名所図会 5 洛中』、当院「拝観の栞」『京の福神めぐり』『あなたの知らない京都府の歴史』『京都の隠れた御朱印ブック』



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祈願の御石、願い事を石に書き、弘法大師像の周囲を3回廻る。その後、石碑の梵字に石を当て祈念して奉納する。

独鈷水

独鈷水

独鈷水

荒神堂

荒神堂

荒神堂

荒神堂

鎮守社、三宝大明神

鎮守社、三宝大明神

鎮守社、三宝大明神

鎮守社、三宝大明神、三○大明神、若宮大明神

鎮守社、、三宝大明神、宝船

鎮守社、三宝大明神、布袋尊

庫裏

客殿

客殿

茶室「含翠軒」

茶室「含翠軒」

茶室「含翠軒」

茶室「含翠軒」
含翠庭 含翠庭

含翠庭、心地池

含翠庭

含翠庭、伽藍石の蹲踞

含翠庭

含翠庭

含翠庭

含翠庭、足利時代の八面仏石幢

含翠庭、安土・桃山時代、聚楽第灯籠 

含翠庭、足利時代の八面仏石

含翠庭

含翠庭

含翠庭

含翠庭
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