粟田口 (京都市左京区) 
Awataguchi
粟田口 粟田口
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白川小学校校門脇に立つ「粟田口」の石標
 三条大橋の東、白川に架かる白川橋の東から蹴上付近にかけては、かつて「京の七口」のひとつ粟田口(大津口)といわれた。粟田口の地名由来は、古代に愛宕郡粟田郷にある。粟田口は、三条大橋、蹴上付近にも置かれたという。街道は、三条街道、近江路とも呼ばれた。
◆歴史年表 奈良時代以前、豪族・粟田氏により開拓が行われ粟田郷といわれていた。
 平安時代、東海道、大津、伊勢方面の出入り口となり、粟田口と呼ばれた。
 平安時代中期、粟田口には刀鍛冶の集落があった。
 平安時代末、刀鍛冶・粟田口吉光らが住んでいる。藤原忠雅の粟田口山荘が営まれる。
 1156年、保元の乱が起こる。
 鎌倉時代、宗近三条派の刀工・粟田口派が粟田口三条坊に住んでいたという。宗近は、名工の誉れ高く、稲荷神社使いの狐と合槌を打って、名刀「小狐丸」を作ったという伝承が残る。
 室町時代、軍事上の要衝地であり、率分関も置かれた。 
 1467-1477年、応仁・文明の乱が行われる。
 1536年、天文法華の乱が行われる。
 1568年、織田信長が入京する。
 江戸時代、白川橋より東を粟田口と呼んだ。毎年12月20日(果の二十日)には、六角獄を出された罪人の市中引き回しが行われていた。三条、一条と回り、一条戻り橋を経て、再び三条へ戻り、粟田口にあった刑場へ送られていた。
 寛永年間(1624-1645)、陶工・三文字屋九右衛門が粟田神明山付近の土により粟田焼を始める。
 江戸時代-近代、明治期(1868-1912)中期、付近には茶器・粟田焼窯元が多く存在した。 
◆三文字屋九右衛門 江戸時代前期の陶工・三文字屋九右衛門(さんもんじや くえもん、生没年不詳) 。九左衛門。尾張瀬戸の生まれ。瀬戸物の焼物師であり、1624年頃、粟田口で開窯、茶器を焼き「粟田焼(粟田口焼)」として知られた。3代将軍・徳川家光以来、幕府御用御茶碗師を務めた。粟田焼の始祖。
粟田山 粟田口東に連山の粟田山がある。歌枕にもなっている。「粟田山こゆともこゆと思へども猶逢坂ははるけかりけり」(「古今和歌六帖」、喜撰法師、八九九)。
◆京の七口 「京の七口」について「七口」とは定まらず「十口」ともいう。実際にはそれら以外の複数の間道もあったという。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉の御土居築造の際に七口は、「粟田口(東)、東寺口(坤)、丹波口(西)、清蔵口(北)、鞍馬口(艮)、大原口(北)、荒神口(東)」とされた。
 江戸時代には、「山陽道(摂津道)東寺口、東海道(伊賀伊勢道)五条橋口、西海道(九州道)四条大宮口、南海道(紀州道)竹田口、東山道(近江道)三条橋口、北陸道(若狭道)大原口、山陰道(丹波道)清蔵口」の呼称があった。また「鳥羽口、伏見口、丹波口、粟田口、八瀬口、若狭口、長坂口」、「東寺口、竹田口、五条橋口、大原口、三条橋口、千本口、七条口」ともされた。
 

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『史跡探訪 京の七口』『京都大事典』『京都の地名検証』



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白川橋付近 京都市東山区五軒町付近 

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