大原口 (京都市上京区) 
Oharaguchi
大原口 大原口 
  Home   Home

大原口の道標(京都市登録史跡)、賀茂大橋の西、寺町今出川交差点北東に立つ。碑は1868年に建立された。


【参照】大原女、時代まつり、京都御所
 寺町今出川の交差点の北西角に、「大原口(おおはらぐち)」の道標がいまも残る。
 近代、河原町通が拡張工事されるまでは、寺町今出川(大原口)付近を出町といった。今出川口、出町口とも呼ばれた。現在も周辺には大原口町、大原口突抜町などの地名が残る。
 旧出町(大原口)は、比叡山、近江、若狭へ向かう若狭街道の起点に当たり、「京の七口」の一つに数えられた。
◆歴史年表 中世(鎌倉時代-室町時代)、付近は大原辻と呼ばれていた。
 江戸時代、旧出町(大原口)の通りの東は行き止まりになっていた。このため、往来人は一度北へ上がり、さらに東へ入り鴨川に出た。
 近代、1924年、寺町通より東に河原町通が拡張される。以後、河原町今出川付近が出町と呼ばれる。
◆旧出町 旧出町(大原口)は、現在の寺町今出川(現在の大原口町)付近にあり、周辺には商家が建ち並び洛北の農家を客として賑わった。魚屋、川魚屋、近江の木工店、八百屋、炭屋なども見られた。大原女(おはらめ)、白川女も行き来していた。
 近くの白梅図子(しらうめずし)には遊女屋があった。
◆京の七口 今出川通寺町付近は、かつて出町といわれ大原口が開かれていた。中世には大原辻と呼ばれた。大原口は、近江、若狭へ向かう「京の七口」の一つに数えられた。道筋は、旧出町より東へ向かい、鴨川の河原を渡り、田中、高野、修学院、八瀬、また、旧出町より、葵橋を経て、下鴨、八瀬、大原より若狭小浜に向かう。この若狭街道(大原道、大原朽木越、途中越、竜華越、魚街道、鯖街道)の起点になっていた。
 「京の七口」について「七口」とは定まらず「十口」などともいう。実際にはそれら以外の複数の間道もあったという。
 安土・桃山時代、1591年、豊臣秀吉の御土居築造の際に七口は、「粟田口(東)、東寺口(坤)、丹波口(西)、清蔵口(北)、鞍馬口(艮)、大原口(北)、荒神口(東)」とされた。江戸時代、1684年、「大津口、宇治口、八幡口、山崎口、丹波口、北丹波口、龍牙口(りゅうがぐち)」(『菟芸泥赴(つぎねふ)』)が記されている。1689年、七道として「東三条口、伏見口、鳥羽口、七条丹波口、長坂口、鞍馬口、大原口」(『京羽二重織留』)とある。1754年、八口として「三条口、五条口、東寺口、七条口、長坂口、鞍馬口、大原口、今出川口」(『山城名跡巡行志』)、また十二口として「清蔵口、荒神口、四条口、(西)三条口」ともしている。
 江戸時代には、「山陽道(摂津道)東寺口、東海道(伊賀伊勢道)五条橋口、西海道(九州道)四条大宮口、南海道(紀州道)竹田口、東山道(近江道)三条橋口、北陸道(若狭道)大原口、山陰道(丹波道)清蔵口」の呼称があった。また「鳥羽口、伏見口、丹波口、粟田口、八瀬口、若狭口、長坂口」、「東寺口、竹田口、五条橋口、大原口、三条橋口、千本口、七条口」ともされた。
◆大原女 大原女は、大原、八瀬から、黒木(薫した薪)、柴漬け、木の芽炊きなどを都に売りにやって来た。白い手拭を頭に被り、白地に紺の小紋の労働着の着物に、赤い細帯、白脚絆、草鞋のいでたちで、「黒木買わんせ。黒木召せ」と売り声を上げた。大原女は、往復20数kmの道のりを、30㎏-40㎏、時に50㎏の荷を頭に載せて通った。
  

*参考文献 『史跡探訪 京の七口』『京都大事典』『京都の地名検証』


   関連・周辺賀茂大橋     関連・周辺出町橋      周辺      関連         
map 大原口 京都市上京区大原口町 

より大きな地図で大原口の道標を表示
  Home     Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光