蛇塚古墳 (京都市右京区)
Hebiduka-kofun (Tumulus)
蛇塚古墳  蛇塚古墳
  Home   Home

正面、南に開いている羨道部分は鉄枠で補強されている。


側面(東)から見た全景、玄室(右)部分は高くなっている。
 西高瀬川近く、住宅街の中に遺された「蛇塚古墳 (へびづかこふん)」は、古墳時代後期、6世紀末に造られた横穴式前方後円墳とみられている。
 墳丘の規模は京都府下最大であり、全国的にも有数の規模を誇る。
◆歴史年表 古墳時代、6世紀(501-600)末、築造された横穴式前方後円墳とみられている。
 近代、戦前に墳丘が削平され、横穴式石室が露出した。
 現代、1977年、石室部分は国指定史跡に指定された。
◆蛇塚古墳 蛇塚の名称は、かつて石室内に蛇が多く棲息していたことに由来するという。「岩屋(いわや)」とも呼ばれていたともいう。
 古墳は、6世紀、嵯峨野の一帯に住んでいた渡来系秦氏の有力者(族長級)の墓とみられている。嵯峨野に点在する前方後円墳の中で、最後に築造された古墳になる。
 古墳は現在、封土が失われ、巨石を積み上げた石室部分が露出した状態になっている。南に開いた羨道(玄室に向かう通路、入り口)は破壊され、横穴の玄室(棺を納めた石室)しか残っていない。これらの巨石は、保津川(桂川上流)から運ばれたともみられている.
 規模は、明日香・石舞台古墳に次ぎ、高さ、幅ではそれをしのぐ。堆積岩の玄室の幅は、明日香村の石舞台よりも大きく、床面積は三重県高倉山、岡山県こうもり山、石舞台古墳に次いで全国第4位の規模を誇る。石室全長17.8m、玄室長6.8m、玄室幅3.9m、高さ5.2m。玄室床面積25.8㎡。チャート。
 石室部分は国指定史跡(1977)に指定されている。
◆秦氏 秦氏は、中国から朝鮮の楽浪郡、新羅を経て5世紀後半に日本に渡来したという説もある。6世紀後半に深草から葛野(かどの)に移住したとみられている。
 秦氏は高度の様々な技術を持ち、特に、土木灌漑の優れた技術を誇った。桂川上流の大堰井川(かつての葛野川)に、葛野大堰(かどのおおい、嵐山渡月橋上流)を築造している。この堰により、洪水対策と農業用水を確保し、嵯峨野の開拓に関わった。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 説明板、『洛西探訪』『京都の自然ふしぎ見聞録』


    関連・周辺天塚古墳     関連     周辺        
 蛇塚古墳  京都市右京区太秦面影町 
  Home     Home  
 © 2006- Kyotofukoh,京都風光