野宮神社 (京都市右京区) 
Nonomiya-jinja Shrine
 野宮神社  野宮神社
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黒木の鳥居


野宮社




野宮社



野宮社



野宮社、野宮大神(天照皇大神)・知恵、健康授けの神





白峰弁財天社、財運、芸能上達の神。井戸の龍神は病気平癒の信仰を集める。



白峰弁財天社
 桂川の西にある野宮神社 (ののみや じんじゃ、野々宮神社)は、伊勢斎王が斎宮(斎王)として潔斎した野宮(ののみや)の旧地とされている。
 祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)。末社には愛宕神社、松尾神社、若宮八幡宮などがある。 
 縁結び・良縁祈願、知恵授け・学業成就、子宝祈願、安産守護、鎮火勝運、芸能上達、商売繁盛・財運向上、健康・病気平癒、交通安全などの信仰がある。龍神は病に苦しむ人の救済の神とされる。
◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。
 平安時代、800年頃、建立ともいう。ただ、斎宮の野宮の場所は一定していなかった。
 近代、1873年、村社になる。
 現代、1994年、秋篠宮が参拝し、翌年、宮誕生のため、以来、縁結び、安産の神として賑わう。
 1999年、「斎宮行列」が600年ぶりに復活される。
◆斎宮・野宮 斎王(いつきのひめみこ)は、伊勢神宮の天照大神に御杖代(みつえしろ)、神の意を受ける依代(よりしろ)として奉仕した未婚の内親王か女王をいう。
 伝承では、第11代・垂仁(すいにん)天皇の代(B.C.29 -A.D.70?)の倭姫命(やまとひめのみこと)に始まったという。事実上は、飛鳥時代、670年、第40代・天武天皇の娘・大来皇女(おおくのこうじょ)から、鎌倉時代、第96代・後醍醐天皇の代(1330頃)までの約660年間に60人余りの斎王が生まれた。
 天皇の即位とともに、斎王に卜定(ぼくじょう)された未婚の内親王か女王は、大内裏の斎所である初斎院(しょさいいん)で1年間の潔斎(けっさい)をした。その後、この清浄地の野宮で1、2年の精進潔斎を送る。野宮は外垣に簡素な小柴垣があり、南正面に樹皮のついた黒木の鳥居が建てられた。斎王は正殿に住み、板屋には、神宮、男房、女房、警士など140-150人が詰めていた。
 伊勢神宮の神嘗祭に合わせ都を旅立つ早朝、斎王は野宮を出て、葛野川(現在の桂川)で禊を行った。続いて、宮中大極殿での「発遣の儀式(別れのお櫛)」後、輿の葱華輦(そうかれん)に乗り、伊勢へ向かった。
 この斎王群行は、大臣級の中納言らが監送使となり、総勢500人(1000人とも)に及び、6日をかけた。逢坂の関、勢多頓宮、甲賀頓宮、垂水頓宮を経て、鈴鹿峠は最大の難所になっていた。伊勢の斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町)で再び潔斎の日々を送り、天皇の譲位か死去、斎王自身の死か病、近親者の死去、不祥事になどにより、任を解かれる退下(たいげ、下座)になった。
 なお、野宮には「京城外の浄野」が選定され、建物は一時的に造営されていた。斎王が伊勢国斎宮に下向すると、解体焼却された。このため、場所は特定されていない。平安時代以降は主に嵯峨野が選ばれた。賀茂社の斎院の場合には、紫野、有栖川周辺が多かった。斎宮の廃絶後は、跡地には尼寺の野宮寺が建てられた。野宮神社は、寺の鎮守社だったという。このため、野宮は、当社の近くにあったと考えられている。
◆徽子女王 平安時代中期の皇族・歌人・徽子女王(きし/よしこ じょおう、929-985)。式部卿・宮重明親王の第1王女(第60代・醍醐天皇の孫)。母は藤原忠平の次女寛子。936年、急逝した斎宮斉子内親王(醍醐天皇皇女)の後を受け、8歳で第38代・伊勢斎宮に卜定(ほくてい)された。937年、雅楽寮へ初斎院入り、野宮へ遷る。938年、10歳で伊勢へ群行。945年、母の死により17歳で退下、帰京。948年、叔父・第62代・村上天皇に請われて20歳で入内。949年、女御の宣旨を受ける。規子内親王(第4皇女)を産む、皇子1人は早世した。956年、「斎宮女御徽子女王歌合」、959年、「斎宮女御徽子女王前栽合」を主催する。967年、村上天皇没後、規子内親王と共に里第で暮らす。975年、規子内親王が第64代・円融天皇の斎宮に選ばれる。976年、初斎院入りに徽子女王も同行した。977年、勅命に反して前例を破り、斎宮と共に2度目の伊勢へ下向した。984年、円融天皇の譲位により規子内親王が斎宮を退下、985年、共に帰京した。従四位上。
 後宮(こうきゅう)にあって和歌と琴七弦琴の名手であったといわれる。局を承香殿とし「承香殿女御」、父重明親王の肩書から「式部卿の女御」、前斎宮であったため「斎宮女御」と呼ばれた。三十六歌仙、女房三十六歌仙の1人。
◆文学 『伊勢物語』第64段では、狩りの使いにより伊勢に赴いた男(業平)が、斎宮と一夜を共にする。翌朝、女は手紙に歌を残し男に送った。 「君や来し我や行きけむおもほえず夢か現(うつつ)かねてかさめてか」。
 『源氏物語』第10帖「賢木(さかき)」巻では、野宮が描かれる。六条御息所は生霊になり、夕顔、葵の上を殺める。御息所は、斎宮になり伊勢へ向かう娘とともに都を離れることを決意する。光源氏との最後の秋の夜に野宮が選ばれる。
 野宮は、謡曲「野宮」、『徒然草』24段、歌枕などにもなっている。
 川端康成の『古都』では、千重子が好きな神社として登場する。
◆能 能「野宮」は、『源氏物語』から採られた野宮神社が舞台になる。晩秋に一人の僧が社を訪れる。女が現れ今日は神事の日なので帰れという。女は語り、光源氏の愛を失った六条御息所が斎宮の娘と伊勢へ下る件を語る。女は御息所の生霊と明かし、黒木の鳥居に消える。
◆黒木の鳥居 樹皮を剥かない黒木の鳥居(黒木鳥居)、小柴垣が野宮の象徴になっており、『源氏物語』第10帖「賢木」巻に「くろ木のとりゐどもはさすがに神々しう見わたされて」と描かれている。謡曲「野宮」にも「黒木の鳥居、小柴垣」と謡われた。また、賀茂の斎院の野宮にも、黒木の鳥居が用いられていた。「のヽ宮の有様黒木の鳥居に榊たて」(『賀茂皇太神宮記』)とある。
 黒木の鳥居は、最も古い形の鳥居ともいわれている。異説もある。当社ではかつてクヌギの材を使っていた。戦前、5年ごとに鳥居は建替えられていた。材は、樹齢20年以上のクヌギだった。1979年頃以降、クヌギの原木調達が困難になり、鉄管に樹脂で模造した形に変わった。徳島県産のクヌギ原木を型取りしている。
 小柴垣は、クスノキ科クロモジ属のクロモジ(黒文字)を用いている。クロモジは、早春に薄黄色の花弁を付け、葉や枝よりよい香りがする。
◆庭 境内北に広さ20坪ほどの苔庭があり、絨毯苔が全面をおおう。
◆野の宮竹 嵯峨野の付近には、孟宗竹の林が続いており、「野の宮竹(野宮竹)」と呼ばれている。
 葉は細く、枝は短い。丈が長く、節は低い。粘りがあり弾力性に富む。大嘗祭の悠紀、主基の両殿に用いられた。物尺、竹刀、酒樽箍(たが)にも使われた。
◆樹木 境内に20本ほどのカエデが植えられ、紅葉が知られている。ヒノキがある。
◆年間行事 斎宮行列(平安時代の装束に身を包んだ斎宮代をはじめとする伊勢斎宮の群行が再現され、桂川(嵐山)での「御禊の儀」が行われている。1998年より始まった。)(10月19日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都府の歴史散歩 上』『洛西歴史探訪』『平安京散策』『洛西探訪』『昭和京都名所図会 4 洛西』『源氏物語を歩く旅』『おんなの史跡を歩く』『京を彩った女たち』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『紫式部と平安の都』『鳥居』『京都大事典』『京都ご利益徹底ガイド』『京都のご利益手帖』『京のしあわせめぐり55』『京都のご利益めぐり』『京都の自然ふしぎ見聞録』『京都 神社と寺院の森』


  斎宮神社             野々宮神社(西院野々宮神社)       檪谷七野神社      雲林院       下鴨神社     斎宮邸跡             

白峰弁財天社、芸能上達、財運の神

白峰弁財天社、神輿

愛宕社、愛宕大神は鎮火、日伏せ、勝運の神

愛宕社

大黒天は健康、知恵授け、良縁結婚の神。


御祓(みそぎ)清浄御祈願、祓い事を紙に書いて桶の水に浮かべると、文字が消え沈むと祈願成就するという。縁切り祈願にもなる。


野宮大黒天の神石(亀石)、祈りを込めて石を撫でると一年以内に願い事がかなうという。子宝、芸能上達、商売繁盛祈願もある。砂岩。

結び文

白福稲荷社

白福稲荷社


白福稲荷社

白福稲荷社、白福稲荷大明神は子宝、安産、商売繁盛の信仰がある。

大山弁財天社

大山弁財天社

大山弁財天社、大山弁財天は交通安全、財運向上。


稲荷社


手水舎

苔の庭

「斎宮旧跡」の石碑

村山古郷(1909-1986)の句碑「野宮の竹美しや春しぐれ」

境内裏の竹林、かつて嵯峨野の竹とは真竹を意味していた。現在の孟宗竹の竹林に変わったのは、江戸時代以降に中国よりもたらされて以来のことという。竹林が最も美しいのは「竹の春」といわりる秋らしい。

斎宮(斎王)、斎宮行列



 野宮神社 〒616-8393 京都市右京区嵯峨野宮町1  075-871-1972  9:00-17:00
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