伏見・月桂冠大倉記念館 (京都市伏見区)
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伏見・月桂冠大倉記念館 伏見・月桂冠大倉記念館 
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濠川


濠川


濠川、三十石船










濠川大倉酒造建物


寺田屋




月桂冠大倉記念館、月桂冠は江戸時代、1637年に大倉治右衛門により創業された。記念館は、1909年に建てられた酒蔵を改装し、1982年に開館した。もろみ桶など酒造りの道具、資料など400点が展示されている。酒造りの歴史や工程が解説されている。また、さまざまな催しも行われている。建物は2007年に経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された。付近の景観は「京都百景」に選ばれている。


月桂冠は、江戸時代、1637年、この地で創業され、現在日本酒のトップメーカー。
 古くより良質の水が自噴した伏見は、江戸時代までは、「伏水」と書いて「ふしみ」と読んだ。 
◆伏見・名水 伏見は「不死身」に通じるとして、中世の頃には藤原頼道の子・橘俊綱の別業(邸宅)、後白河上皇の伏見御所、豊臣秀吉は伏見屋敷、伏見城を造営した。
 伏見の地下水脈は、桃山丘陵の伏流水と、深部では鴨川、桂川からの伏流水という二層構造になっていることが近年分かってきた。
 秀吉は、伏見城に湧いた名水「金名水」「銀名水」を茶の湯に使ったという。伏見の名水としては、「伏見七名水」(七ツ井)(石井、白菊の井戸、常盤井、春日井、竹中清水、田中清水、苔清水)が知られている。
 また、「伏見」(俯見)とは、岡の上からの町並みの素晴らしさをあらわしている。伏見は、古くより月の名所としても知られ、貴族の山荘、荘園も数多く造られた。だが、応仁・文明の乱(1467-1477)によって、寺社の多くが焼失している。
◆歴史年表 安土・桃山時代、1593年、豊臣秀吉の伏見城築城以後、交通の要衝の地である伏見は、城下町として栄えた。伏見城は、伏見山南西麓の指月(しげつ)の森に造られたため指月城ともいわれた。
 1594年、秀吉は伏見城築城の建築資材を運ぶため、大規模な治水工事を行い、伏見港を開く。
 1596年、慶長伏見大地震で伏見城天守など城郭は大破、城下町も大きな被害を受けた。
 翌1697年、城はすでに再建されている。
 1599年、当時、五大老筆頭だった徳川家康は本丸に移った。
 1598年、伏見京橋・大坂淀屋橋間に乗客船・三十石舟が一日ニ往復している。上りは一日、下りは半日かかり、定員28名、乗員4名で運行された。
 1600年、関ヶ原の戦いでは伏見も戦場となり、西軍大名の屋敷は焼き払われた。
 1601年、貨幣鋳造所(伏見銀座)が江戸に先行してを設立されている。
 江戸時代、1603年、勝利を治めた家康は、復旧された城で征夷大将軍の宣下を行っている。
 1613年、伏見・二条間には高瀬川が開削された。以後、京都、大坂の中継地点として、伏見は再び重要な役割を担うことになる。高瀬舟と幕府の許可舟・過書船による水運が盛んになった。
 1623年、伏見城は廃城となった。城代に代り、幕府直轄領として伏見奉行が置かれた。城の跡地には桃が植えられ、その後桃山と呼ばれるようになる。
 1635年以来、参勤交代の際には、大坂から三十石船が利用された。京都の通過が禁じられたため、伏見が休憩地となる。
 1698年、13代伏見奉行で、「名奉行」といわれた建部内匠頭政宇(たてべたくみのかみまさいえ)は在任中に、十五石の伏見船を新造するとともに、中書島を開発し、水運、観光の開発を行った。
 1722年、二十石の淀船が過書船に組み入れられている。17世紀後半、これらの船の数は総数千数百隻にもなる。
 近代、1868年、鳥羽伏見の戦いの戦禍を受け、街の大半が焼失した。また、幕府直轄地としての地位を失い、再び衰微する。
 1894年、琵琶湖疏水が伏見まで延長され、インクライン、旧伏見城外濠とつながり、北陸、山陰、琵琶湖と水運が盛んになった。
◆酒 伏見の良質の水とは、カリウム、カルシウムなどのミネラル分を含んだ軟水で、灘の「男酒」に対して、伏見の「女酒」といわれる。伏見の酒は、口当たりがやわらかく、穏やかで甘みがあり、京料理にもよく合った。また、冬場の底冷えが酒造りに適しており、水運を利用して周辺から良質の米が輸送できたことも酒造りに適していた。
 伏見と酒造りの関係は、すでに弥生時代にまでさかのぼるという。5世紀、渡来系の秦氏が京都盆地に移住し、太秦、伏見で、酒造りをさらに発達させた。平安京の大内裏にあった「造酒司」(みきのつかさ)には伏見、嵯峨の酒戸(しゅこ)が関わった。
 江戸初期、伏見の酒座は御香宮にあった。酒造株制度(1657)が生まれ、免許を受けた醸造元は83軒を数えた。ただ、伏見の酒は、幕府による米価調整のための酒造高制限もあり、主に地場で使用されていた。そのため、他産地の灘などに押され、江戸での知名度は低く、伏見の酒業はしだいに疲弊する。
 明治期、伏見には連隊、司令部などが設置された。1908年には、深草に陸軍第十六師団が置かれ、日清・日露戦争の景気と相まって街は活況を取り戻した。
 他方、1928年、昭和天皇御大典に際して、奈良電鉄による京都と奈良間の電気鉄道計画が持ち上がった。軍は機密保持の観点から軌道の地下化を求めた。だが、酒造組合は伏流水が断ち切られるとして反対した。京都大学松原博士の調査結果により、伏流水は伏見丘陵の下から南西方向に流れていることが判明した。酒造組合は陳情を重ね、結局、電車は高架を走ることになった。
◆月桂冠 酒銘「月桂冠(げっけいかん)」の創業者は、南山城笠置荘出身の初代・大倉治衛門(おおくら じえもん)になる。江戸時代、1637年に馬借前(伏見区本材木町)に、酒屋「笠置屋(かさぎや)」を創業した。銘柄「玉の泉」を販売した。初代より10代までは、酒屋仲間の代表に就き、町政にも関与した。杜氏は、南部、但馬、広島の3流派を抱えた。
 1868年の鳥羽・伏見の戦いでは難を逃れた。
 1905年、新銘酒「月桂冠」が登場し、品評会での受賞が相次いだ。数々の斬新な販売方法、醸造技術の近代化が図られ、近代産業としての酒造が成功を収める。
 1909年には大倉酒造研究所が創設されている。1911年、それまでの樽詰から「防腐剤ナシ壜詰」が売り出される。1931年には、本格的な瓶詰工場が業界で初めて設置された。東海道線の開通(1889)以後、1910年には、国鉄の駅売り用に、コップ付きの小瓶が販売され、これも好評を博した。伏見の酒は一躍全国区となった。現在では、伏見に35軒ほどの醸造元がある。月桂冠は、2002年まで長らく国内最大の出荷量を誇っていた。
◆地下水 地下水も、戦前までは地下40m未満で水が出たという。しかし現在では、100m以上掘り下げている。
 伏見の地下水を守るために、酒造業者で作る「伏見地下水保存委員会」が活動を続けている。
◆弥次・喜多 江戸時代の浄瑠璃・滑稽本作者の十返舎一九(1765-1831)『東海道中膝栗毛』では、伏見、墨染などが登場する。主人公の弥次郎兵衛・喜多八両人は、江戸から伊勢、奈良、宇治、伏見、大坂に行くつもりが、上りと下りの船便を間違えて再び伏見京橋に戻ってしまう。その後、京都見物し、様々な珍事を引き起こして大坂へと向かう設定になっている。
◆映画 時代劇映画「鍔鳴(つばなり)浪人」(監督・荒井良平、1939年、日活京都)の撮影が酒蔵前で行われた。千鶴(市川春代)は籠に乗せられ悪漢の屋敷に連れ込まれようとする。勤王派の浪人・楓月太郎(阪東妻三郎)がこれを助けようと大立ち回りになる。
 時代劇映画「若さま侍捕物帖 深夜の死美人」(監督・深田金之助、1957年、東映)でも酒蔵前で撮影が行われている。
 現代劇映画「小早川の秋」(監督・小津安二郎、1961年、宝塚映画)では、松本酒造の酒蔵付近で撮影が行われた。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『洛中洛外』『京都絵になる風景』『あなたの知らない京都府の歴史』


  御香宮      信仰の小道・高山右近・イエズス会伏見教会     寺田屋跡      高瀬川           

さかみづ、栄え水、1961年に掘り直され、地下50mから汲み上げられている。今もなお酒造に利用されている。

内蔵酒造場、1906年建立、奥蔵、中蔵、前蔵、白壁土蔵などがある。

黄桜カッパカントリー、黄桜酒造本店蔵には名水「伏水」が湧く。

「神聖」山本本家の創業は江戸時代、1677年。培養酵母による酵母仕込みを初めて成功させた。名水「白菊水」がある。

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 月桂冠大倉記念館 〒612-8043 京都市伏見区本材木町
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