化野念仏寺・化野 (京都市右京区) 
Adashino-nembutsu-ji Temple
化野念仏寺 化野念仏寺 
 Home  Home











虫塚


吐夢地蔵尊






西院の河原、十三重塔を中心に、8000体という石塔が立つ。釈迦の説法を聴く人々の姿にたとえられている。阿弥陀仏のほか、地蔵、板碑など室町時代のものが多く、江戸時代のものも混じる。西院の河原、「誰とても とまるべきかは あだし野の 草の葉ごとに すがる白露」 西行 









 化野(あだしの)は、古くより葬送地となっていた。化野念仏寺(あだしの ねんぶつじ)は、正式には念仏寺という。号は華西山東漸院という。
 浄土宗。本尊は鎌倉時代の仏師・湛慶作と伝えられる阿弥陀如来像を安置している。
 水子供養、死者供養の信仰がある。
◆歴史年表 平安時代、弘仁元年(810-924)、空海(弘法大師)が、付近にあった庶民の野ざらしの遺骸を埋葬したことに始まるという。小倉山寄りを金剛界、曼荼羅山寄りを胎蔵界とし、千体の石仏をここに集めたという。さらに、中央を流れていた曼荼羅川の河原には、五智如来(ごちにょらい)の石仏を立てた。五智如来とは密教の5つの知恵を如来に当てたものをいう。一宇は当初、五智如来寺といわれ、大覚寺所轄の真言宗の寺だったという。
 平安時代後期以降、この地は埋葬地になったともいう。
 中世(鎌倉時代-室町時代)以降、石仏、石塔が立てられる。
 鎌倉時代初期、浄土宗開祖・法然(1133-1212)が寺を念仏道場とした。以来、浄土宗に改宗し、寺名も念仏寺と改められる。
 江戸時代、1712年、寂道(じゃくどう)により現在の本堂が再建されている。
 
1787年、小石塔、石仏群はまだなく、本堂、庵、鐘楼、天神社、稲荷社のみが描かれている。(『拾遺都名所図会』)
 
近代、1903年か1904年、念仏寺近く福田寺の住僧が、石塔を土中より掘り出し、無縁墓地としたという。
 また、明治期(1868-1912)中期、地元の人々の協力を得て、石塔、石仏を集め、釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえ祀り、賽(さい)の河原に模して「西院(さい)の河原」と名付けたという。 
◆空海 
平安時代の真言宗の開祖・空海(くうかい、774-835)。弘法大師。讃岐国に生まれた。父は豪族の佐伯田公(義通)、母は阿刀氏。788年、15歳で上京し、母方の叔父・阿刀大足に師事し儒学を学ぶ。791年、18歳で大学明経科に入るが、中途で退学し私渡僧(しどそう)として山岳修行を始め四国の大滝岳や室戸崎などで山林修行した。797年、『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を著す。798年、槙尾山寺で沙弥となり、教海と称する。804年、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。遣唐使留学僧として唐へ渡り、805年、長安・青竜寺の恵果(けいか)により両界、伝法阿闍梨の灌頂を受ける。806年、当初の20年の義務期間を2年に短縮して帰国、多くの経典、密教法具などを持ち帰る。入京できず大宰府・観音寺に住した。809年、入京を許される。810年、高雄山寺(神護寺)を経て、811年、乙訓寺に移り、約1年間任に当たった。別当になる。812年、乙訓寺を訪れた天台宗開祖・最澄は、空海と会っている。その後、空海は高雄山で最澄らに金剛界結界灌頂を行った。後、二人は決裂し、断絶する。813年、東大寺別当、819年頃/818年、高野山を開く。822年、東大寺に灌頂道場(真言院)を開く。823年、東寺を真言密教の道場にした。824年、高雄山寺を神護寺と改名する。神泉苑で祈雨の修法を行う。827年、大僧都となる。828年、綜芸種智院を創立した。832年、高野山で万灯会、834年、正月、宮中中務省で後七日御修法を営む。830年、『秘密曼荼羅十住心論』を著す。高野山で亡くなり、東峰に葬られた。
◆法然 平安時代末期-鎌時代前期の僧・法然(ほうねん、1133-1212)。美作国に生まれた。1141年、9歳の時、父・漆間時国は、夜襲により殺される。1145年、13歳で比叡山に上り、西塔北谷の持法房源光に師事、黒谷慈眼坊叡空の庵室 に入った。1147年、皇円の下で出家受戒する。1156年、比叡山を下り清凉寺に参籠、南都学匠も歴訪する。再び比叡山に戻り黒谷報恩蔵で20年に渡り 一切経を5回読む。1175年、唐の浄土宗の祖・善導の「観経疏」の称名念仏を知り、比叡山を下りた。西山、広谷(後の粟生光明寺)の念仏の聖・遊蓮房円照に住した。吉水に草庵(吉水の善坊)に移り、阿弥陀仏を崇拝し、ひたすら南無阿弥陀仏を口で唱える 専修念仏の道場となる。1186年、大原談義。1190年、東大寺で浄土三部経を講じる。1204年、延暦寺衆徒による専修念仏停止を天台座主に要請した 「元久の法難」が起きた。1206年、後鳥羽上皇(第82代)の寵愛した女官(鈴虫、松虫)らが出家した事件「承元(建永)の法難」により、専修念仏の停止となり、1207年、法然は四国・讃岐へ流罪となる。10カ月後に赦免されたが入洛は許されず、摂津・勝尾寺に住み、1211年、ようやく帰京した。草庵は荒れ果て、青蓮院の慈円僧正により、大谷の禅房(勢至堂付近)に移り、翌年ここで亡くなった。
◆角倉素庵 安土・桃山時代-江戸時代の豪商・角倉素庵(すみのくら そあん、1571-1632)。父は角倉了以、母は吉田栄可の娘の長男。1588年、藤原惺窩より儒学を学ぶ。後に林羅山を知り、二人を引き合わせる。本阿弥光悦より書を習う。後に「寛永の三筆」のひとりとされた。1599年、『史記』の刊行以降、16101年頃まで、嵯峨本を刊行する。1603年から父・了以の安南国東京(インドシナ半島)との朱印船貿易に関わり、父の大堰川の開削など各所の工事を補佐した。1606年-1609年、甲斐、伊豆鉱山の巡視、大坂の陣(1614-1615)に船便による物資運搬に貢献した。1615年、幕府より高瀬船、淀川過書船支配を命じられ、山城の代官職に就く。1627年、隠棲した。
 墓は化野念仏寺、二尊院にもある。
◆内田吐夢 近現代の映画監督・内田吐夢(うちだ とむ、1898-1970)。岡山市生まれ。尋常高等小中退し、1912年、横浜のピアノ製作所に奉公に出る。1920年、横浜・大正活映に入社し、トーマス・栗原監督の助手。「喜劇・元旦の撮影」では主演した。1922年、牧野教育映画に移り、「噫小西巡査」を衣笠貞之助と共同監督し初監督となる。その後、旅役者の一座で放浪生活に入り、1926年、日活京都大将軍撮影所に入社。1928年、入江たか子により「けちんぼ長者」を撮る。1929年、傾向映画「生ける人形」。1932年、村田実、伊藤大輔、田坂具隆らとともに日活から独立し、新映画社を設立し、その後、解散する。1933年、新興キネマ、日活多摩川撮影所に移る。「土」(1939)など社会派、「歴史」(1940)など歴史物も撮る。1941年、日活を去り、新会社設立失敗後、満州映画協会に在籍した。1945年、甘粕正彦の自決現場に立ち会う。1954年、帰国し東映に入社。「大菩薩峠」3部作(1957-1959)、「宮本武蔵」5部作(1961-1965)、「飢餓海峡」(1964)などを撮る。
 境内にゆかりの「吐夢地蔵」が安置されている。
◆化野 化野(あだしの)は、小倉山の麓、二尊院から念仏寺にいたる一帯を指している。化野はかつて、東の鳥辺野、北の蓮台野と並ぶ三大葬地のひとつとして知られていた。「阿大志野」、「仇し野」とも記された。
 化(あだし)は、「儚い、虚しい」を意味し、「生」が化して「死」し、転生して再生する、極楽浄土に往生する願いを意味する。枕詞にもなる。
◆仏像 鎌倉時代の美仏、木造「阿弥陀如来坐像」(150㎝)は、湛慶(1173-1256)作とされ、鎌倉彫刻の秀作といわれている。瞳に水晶が入る。
◆石仏・石塔 境内「西院(さい)の河原」(東西18m、南北27m)では、約8000体ともいわれる石仏・石塔が立っている。中央に阿弥陀仏像と十三重塔が立つ。阿弥陀仏は説法を説き、それを聴く人々の姿になぞらえて並べられているという。また、極楽浄土を表しているともいう。これらは、化野に葬られ散乱、埋没していた何代にもわたる無縁仏を、明治期(1868-1912)中期に地元の人々によって集め、供養された。室町時代前後のものが多いという。入り口に、鎌倉時代の石仏、薬師如来、弥陀如来が安置されている。
 西院の河原、十三重塔を中心に、8000体という石塔が立つ。釈迦の説法を聴く人々の姿にたとえられている。阿弥陀仏のほか、地蔵、板碑など室町時代のものが多く、江戸時代のものも混じる。西院の河原、「誰とても とまるべきかは あだし野の 草の葉ごとに すがる白露」 西行 
 「吐夢地蔵」は、映画、不朽の名作といわれる「大菩薩峠 第一話」(1957)で知られる、映画監督・俳優・内田吐夢(うちだ とむ)に因んでいる。地蔵は、映画の冒頭の丑松が、石の地蔵を彫る場面で実際に使われた。映画撮影終了後、内田は地蔵尊を気に入り、鳴滝の自宅に安置した。その没後、東映・小道具倉庫に遷されたままになる。1970年、内田没後の100か日に、当寺で開眼供養が行われた。以後、「吐夢地蔵尊」と呼ばれ境内に安置されている。毎年、追悼会(10月10日)が行われていた。像高90cm、御影石製。
◆鳥居 天満宮は、宗忠鳥居の型式になる。
◆文学 平安時代、和歌に「あだしのの草村にのみまじりつつ匂ひはいまや人にしられん」(『源順集』一三九)、「あだしののくさもねながらあるものをとこなつにのみつゆのおくらん」(『斎宮女御集』二四〇)、「あだし野のあさぢおしなみ吹く風に露の命のおき所なし」(「基俊集」九十)などがある。江戸時代に式子内親王は「くるるまも待つべき世かはあだしのの末葉の露に嵐立つなり」(『新古今和歌集』)と詠んだ。
 『源氏物語』第53帖、『宇治十帖』第9帖の「手習」巻では、浮舟に惹かれた中将が、「あだし野の風になびくな女郎花 われしめ結はん道とほくとも」と詠んだ。
 吉田兼好は「あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ち去らでのみ、住み果つるならひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそ、いみじけれ。」と記した。(『徒然草』7段)
 川端康成の小説『美しさと哀しみと』では、主人公・上野音子が母とともに千燈供養に参る。
◆映画 時代劇映画「古都」(監督・中村登、1963年、松竹大船)では、千重子(岩下志麻)が寺を訪れる。
 現代劇映画「美しさと哀しみと」(監督・篠田正浩、1965年、松竹大船)、現代劇映画「制覇」(監督・中島貞夫、1982年、東映京都)では、任侠の夫(三船敏郎)と妻(岡田茉莉子)が散策する。
◆墓 背後の山に、安土・桃山時代-江戸時代の豪商で文化人の角倉素庵(1571-1632)の墓がある。
◆年間行事 春の彼岸法要(3月23日)、浄焚式(じょうぼんしき)(古くなった御札、塔婆、お守りなど焼べて供養する。)(6月24日)、千灯供養(西院の河原の石仏、石塔に多くの灯明があげられ、無縁仏を供養する。)(8月23-24日)、秋の彼岸法要(9月25日)、お十夜法要(11月10日)、お火焚(おひたき)(土地の神に海や山の幸を供え、鎮守(守護)に感謝する。)(11月23日)。
 水子供養塔(毎月24日)。


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都市の地名』『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『京都の地名検証』『京都の寺社505を歩く 下』『京都・美のこころ』『日本の名僧』『鳥居』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『シネマの京都をたどる』『日本映画と京都』『京都絵になる風景』『稲荷信仰と宗教民俗』


  関連・周辺護法堂弁財天       周辺鳥居本      関連      

鐘楼

梵鐘



千灯供養

本堂

本堂

本堂、本尊・阿弥陀仏


地蔵堂


地蔵堂

地蔵堂

地蔵堂、延命地蔵尊

みず子地蔵尊、毎月の縁日(24日)には供養が行われている。

みず子地蔵尊

天満宮

天満宮

天満宮

天満宮

社務所

六面六体地蔵、地蔵は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道)の六つの世界に居り、そこに居る人々を救う姿を現した。水をかけて罪障を洗い流し、天道から人道へ右回りに拝む。その際には、「オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ」と唱える。

豪商・角倉素庵(すみのくら そあん、1571-1632)の墓、竹林の中にある。


【参照】周辺の町並み付近は嵯峨鳥居本伝統的建造物群保存地区(1979)に指定されている。愛宕神社一之鳥居に近いところは、茅葺の農家風、それより下地区では町屋風の建物があり、これらが混在しているところに特徴があるという。室町時代末には、農林や漁業の集落だったという。江戸時代中期、愛宕詣で賑わうようになる.。江戸時代末からは、茶屋なども建ち並ぶようになった。

【参照】千灯供養の頃、周辺で行われる光のパフォーマンス
 化野念仏寺 〒616-8436 京都市右京区嵯峨鳥居本化野町17 075-861-2221
 Home    Home  
   © 2006- Kyotofukoh,京都風光