金毘羅大権現・琴平新宮社・江文寺跡・江文峠・金毘羅山 (京都市左京区) 
Kompiradaigongen Shrine
琴平新宮社・江文寺跡 琴平新宮社・江文寺跡 
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「三体不動明王 金比羅大権現」の石碑









江文琴平新宮社


江文琴平新宮社


むつみ地蔵尊


江文寺不動尊






鎮魂舎




参道沿いに「人立たす かぎろひ 江文寺の跡」の碑
 平安時代の後白河法皇が、大原御幸の際に越えたという江文峠(えぶみとうげ、静原峠)から、金毘羅山(こんぴらやま、江文山、572.8m)へ登る山の中腹に、江文琴平新宮社(えぶみ ことひら しんぐうしゃ)がある。山は平安京の北東、鬼門の方角に当たる。 
 祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと、習合し大黒天、大黒様)、崇徳天皇(すとくてんのう)、金毘羅神(こんぴらしん)も合祀されている。旧村社、御霊社。 
◆歴史年表 古代(奈良時代-平安時代)、金毘羅山は祭祀が行われた磐境(いわさか)だったともいう。記紀神話の天之御中主神(あめのみなかぬし)、高皇産霊神(たかみむすびのみこと)、神皇産霊神(かんみむすひのみこと)の造化三神を祀ったともいう。(『山城名勝志』)
 平安時代、794年、平安京遷都以後、金毘羅山は都の東北の鬼門に当たるとされた。
 10世紀(901-1000)半、蓮坊(れんぼう)大阿闍梨が江文山に籠り、夏安居(げあんご)を行う。(『大日本国法華経験記』)。江文寺はまだ存在していないとみられる。
 1123年以前、江文寺はすでに建てられていたとみられる。歌人・藤原俊忠(1073-1123)は当寺に参籠し、歌を詠んだ。「山ふかみ 松のあらしに ききなれて さらにみやこや たびごこちせん」。(『帥中納言俊忠集』)
 1130年以前、金毘羅山の山腹に江文寺が建立され、毘沙門天を本尊にした。鬼門の鎮守寺とされていた。
 1130年、参議・藤原為隆(1070-1130)が江文寺、鞍馬などに四天王像を安置したという。不断供養法を修している。(『後拾遺往生伝』)
 1135年、延暦寺の快賢は、比叡山西塔より江文寺に移る。巌泉の畔に草庵「泉下房(せんかぼう)」を結んだ。当寺で亡くなる。(『後拾遺往生伝』)
 1166年8月26日、崇徳天皇の霊魂は山頂(金毘羅山?)に遷され、斎祀されたという。四国讃岐へ流され、1164年に非業の死を遂げた天皇没後3年を経て、その女御・兵衛佐局(ひょうえのすけ の つぼね)の遺詔(命)により、天皇の霊魂を鎮める地として都に近い江文寺の地が選ばれたという。
 1174年、公卿・藤原(吉田)経房(1143-1200)は自宅を発ち、義兄・平親範の極楽院を訪ねた。鞍馬寺、薬王坂を経て江文峠、江文寺に参詣した。別当僧より当寺の窮状を聞き、日別一合の施入を約束する。その後、大原の顕真を訪ねた。(『吉記(きつき)』)。顕真は導師になり写経供養が営まれる。如法経一部が江文寺に埋奏される。(『毘沙門堂記録』)
 1177年、顕真を導師として江文寺の山に経塚が立てられる。(『山城名勝志』)。僧・円智(平親範)は江文寺に如法経を納めたともいう。
 平安時代末-鎌倉時代、寂光院の建礼門院(1155-1213)、侍女・阿波内侍も江文寺、江文琴平新宮社に度々参詣したという。 
 鎌倉時代、江文寺の名があり、この頃まで寺は存在した。(『拾芥抄』)
 鎌倉時代末、比叡山の釈蓮坊が江文山に籠り、参禅修法を行ったという。(『元亨釈書』巻11)
 中世(鎌倉時代-室町時代)、江文寺は衰微し、その後、廃寺になる。江文琴平新宮社に崇徳天皇が合祀されたともいう。
 近代-現代、昭和期(1926-1989)、山頂近くに篤志家により金毘羅大明神、琴平神社が祀られたともいう。
◆藤原為隆 平安時代後期の公卿・藤原為隆(ふじわら の ためたか、1070-1130)。藤原為房の長男。母は源頼国の娘。1086年、第72代・白河天皇の六位蔵人。1087年、従五位下・越前権守に叙任、1088年、甲斐守に任ぜられる。1092年、従五位上に昇り、中宮権大進、木工頭、右少弁、中宮大進、権右中弁を歴任した。1109年、従四位下、右中弁に叙され、備中介を兼任する。1113年、邸宅が焼亡した。1113年、従四位上、正四位下、左中弁、遠江守。1122年、蔵人頭、参議、右大弁に昇り公卿に列す。1123年、勘解由長官、讃岐権守を兼ねる。左大弁。1125年、周防権守。1128年、従三位。病により官職を辞し、出家後亡くなる。日記『永昌記』。号は坊城。
◆快賢 平安時代後期の僧・快賢(かいけん、?-1135)。比叡山西塔より移り、江文寺に草庵を結ぶ。巌泉の畔にあり、泉下房と号した。江文寺で没した。
崇徳天皇
 平安時代後期の第75代・崇徳天皇(すとく てんのう、1119-1164)。第74代・鳥羽 天皇の第1皇子に生まれた。1123年、院政を敷いた曾祖父・第72代・白河法皇の意により、5歳で皇位を継承した。1129年、白河法皇没後、同じく院政を敷いた父・鳥羽上皇と対立した。1141年、異母弟・体仁親王(第76代・近衛天皇) が皇位継承する。1155年、近衛天皇の急逝後、崇徳上皇は子・重仁親王の即位を望む。だが、異母弟・雅仁親王(第77代・後白河天皇)が即位となり、さ らにその子・守仁親王(第78代・二条天皇)が立太子となる。
 崇徳上皇は1156年、鳥羽法皇没後、左大臣・藤原頼長らと挙兵する。だが、この保元の乱に敗れ、讃岐国に配流、その地で没した。死後、その怨霊が恐れられた。
 没後の1177年、崇徳院の諡号(しごう)を贈られた。保元の戦場跡には粟田宮が建立された。
◆顕真 平安時代後期の天台宗の僧・顕真(けんしん、1131-1192) 。父は美作守・藤原顕能(あきよし)。母は藤原為隆の娘。比叡山の最雲法親王に師事、明雲、相実に学ぶ。1173年、大原別所に退隠。1177年、導師になり江文寺に経塚を建てた。浄土信仰へ傾き、1186年、勝林院に法然、重源、貞慶、明遍、証真らを集め、浄土の教えを問う。(大原問答)。1187年、勝林院で不断念仏を始める。1190年、後白河法皇の命により、第61代・天台座主に就く。最勝会の証義も務めた。比叡山・円融房で没した。号は宣陽房。著作に『山家要略記』。
◆兵衛佐局 平安時代後期の女官で歌人・兵衛佐局(生没年不詳、 ひょうえのすけ の つぼね)。法勝寺執行・信縁の子。1139年頃、内裏に出仕した。女房名は養父・源行宗(源基平の子)の官職・右兵衛権佐に因む。崇徳天皇後宮になり、重仁(しげひと)親王を産む。養父に和歌を学ぶ。1156年、保元の乱後、讃岐に流された崇徳上皇に従う。上皇没後、京都に還り出家した。
◆金毘羅神 四国に流された崇徳天皇は金毘羅神を崇敬していた。このため、金毘羅神も当社に合祀されている。金比羅神社の総本宮としては、四国に金刀比羅宮(香川県琴平町)がある。
 金毘羅大権現とは、大物主神(おおものぬしのかみ)、また牛頭天王(ごずてんのう、素盞鳴尊<すさのおのみこと>)、崇徳天皇ともされた。
◆三壷(みつぼ)大神 
金毘羅山山頂付近に三壷(みつぼ)大神が祀られている。
 かつて山頂には「火壷(ひつぼ)」、「風壷(かぜつぼ)」、「雨壷(あめつぼ)」と呼ばれる自然の石壷「三壷」があったという。「石窓」ともいう。干ばつになると大原の里人は、山頂に登り降雨祈願をしていたという。山は魔所として畏れられていた。(『山州名跡志』巻5)
 山は神の依代であり、盤座の名残りともされている。
◆江文寺 江文寺(えぶみじ)についてはよくわかっていない。金毘羅山(江文山)の南腹あった。現在の不動堂付近にあったともいう。江文神社の旧鎮座地だったともいう。
 平安時代の『後拾遺往生伝』(1130)に寺名があり、それ以前にすでに存在していたとみられている。寺は、都の北東鬼門にあることから、鎮守寺として毘沙門天を本尊にしていた。中世(鎌倉時代-室町時代)に廃寺になったとみられている。
 境内の東方にある現在の江文神社は、かつて、江文寺(毘沙門堂江文寺)と習合していたともいう。江文神社の神霊は、かつて、金毘羅山山頂に祀られていたともいう。
◆金毘羅山 金毘羅山(572m)は、江文山とも呼ばれた。山は、京都への眺望がきく。露岩に覆われ、古代には祭祀が行われた磐境(いわさか)とみられている。中生代三畳紀の秩父古生層になる。
 山には、記紀神話の天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の造化三神を祀ったともいう。(『山城名勝記』)
 平安京遷都後、都の鬼門に当たるため、江文寺が建立され、また、仏教修行の山になったという。
◆石碑 参道沿いに「人立たす かぎろひ 江文寺の跡」の小さな自然石の碑が立てられている。1961年に広江蓑草により立てられた、
 「人立たす かぎろひ」の「かぎろひ」とは、厳冬期の夜明け前に現れる太陽光のスペクトル現象であり、漆黒の空にさまざまな色が現れるという。
 飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂(660?- 720?)は、軽皇子(後の第42代・文武天皇)の狩猟に伴い阿騎野(あきの、奈良県大宇陀町)を訪れた。その際に歌った「東(ひむがし)の野にかぎろひの立つみえて かえり見すれば 月かたぶきぬ」がある。 
◆江文峠 江文峠は静原峠ともいう。古く、鞍馬と大原を結んだ。峠は金毘羅山(江文山)の南にあり、標高は324mある。若狭街道と鞍馬街道を結ぶ東西の連絡路になる。
 平安時代、1174年、公卿・藤原(吉田)経房は、義兄・平親範の極楽院を訪ねた。鞍馬寺、薬王坂を経て江文峠、江文寺に参詣した。(『吉記(きつき)』
 平安時代、1186年、後白河法皇はこの峠道を経て、大原・寂光院の建礼門院のもとを訪れたという。(大原御幸)


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
※「上皇」は、皇位を退いた天皇の尊称。「法皇」は出家した上皇。
参考文献 『京都市の地名』『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都大事典』『京都の地名 検証2』『京都府の歴史散歩 中』


   関連・周辺江文神社     関連寂光院    周辺静原神社         

山中に続く参道脇に、旧江文寺の遺構らしきものがある。

金毘羅山山頂付近にある金毘羅大権現

金毘羅大権現

金毘羅山山頂付近にある三壷大神

三壷(みつぼ)大神

金毘羅山山頂付近の巨大な岩上に、天御中主大神、魔王大神、大国主之命、時津大神、清涼?大神の5座が祀られている。 

金毘羅山山頂付近に立つハングル文字の塔、「アメノミナヌシオオカミ」(天御中主大神)と日本語表音に近いハングル文字表音で表記されている。

金毘羅山山頂からの京都市街の眺望、山から都は南西方向になる。

金毘羅山山頂からの大原の展望
 金毘羅大権現・琴平新宮社・旧江文寺 京都市左京区静市静原町(江文峠山中) 

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