西福寺・末広不動尊・幽霊子育飴 (京都市東山区) 
Saifuku-ji Temple
西福寺 西福寺
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西福寺脇にある「六道の辻」の道標、轆轤(ろくろ)町の町名(右)が残る。








本堂


本堂


本堂、本尊の阿弥陀如来坐像






迎鐘


壇林皇后と弘法大師 


「九想図絵」


「九想図絵」、壇林皇后を描いたとされ、腐敗した屍を鳥獣が食らう。


「地獄図」、絵は地獄のみならず六道世界を描いているという。
 轆轤(ろくろ)町界隈の六道の辻は、古くより鳥辺野の入口に当たり、葬送地に送られる亡骸の無常所になっていた。周辺に、かつて6つの仏堂があり現在は3つが残っている。
 西福寺(さいふくじ)は、正式には桂光山敬信院という。
 浄土宗鎮西派。本尊は阿弥陀如来坐像。 
 四十八願寺(四十八願巡り)の第31願。子育地蔵は子どもの健康、病平癒の信仰篤い。末広不動尊は商売繁盛の信仰がある。
◆歴史年表 平安時代初期、この地に弘法大師(空海)(774-835)が辻堂を建立し、土仏地蔵尊を安置したのが始まりとされる。
 第52代・嵯峨天皇皇后の橘嘉智子(786-850)は、地蔵堂に参詣し空海に帰依したという。
 814年、空海は、嵯峨天皇皇子・正良親王(810-850、54代・仁明天皇)の病平癒を祈願し、以後、子育て地蔵と呼ばれたという。
 鎌倉時代初期、第77代・後白河天皇(1127-1192)は、熊野詣千日修行に際し不動尊堂に籠り、地蔵尊に道中の安全祈願を行う。帰京後、那智の不動尊を勧請し、地蔵尊の守護神として、不動堂に末廣不動明王が安置された。
 室町時代以後、熊野比丘尼達が付近に移住し、絵解きし、熊野詣を勧めた。
 安土・桃山時代、1603年、毛利家家臣・井上安芸守(五左衛門)は、関ヶ原の戦い(1600)で斬首刑になった安國寺恵瓊を悼み、地蔵堂に籠りその菩提を弔う。蓮性を開山として堂宇を建立した。寺号は桂光山敬信院とし、南都六宗、平安二宗(真言宗、天台宗)の兼学道場にした。
 その後、衰微する。
 江戸時代、1678年、日向の僧・念故が中興している。
 1726年、1727年とも、関白・二条綱平が父・九条兼晴(禅門円学、1641-1677)のために再興する。
◆橘嘉智子
 平安時代の橘嘉智子(たちばな の かちこ、786-850)。橘清友の娘。第52代・嵯峨天皇皇后、禅院檀林寺を創建したことから檀林皇后ともいわれた。第54代・仁明天皇(正良親王)、正子内親王(第53代・淳和天皇皇后)などを産む。橘氏としては最初で最後の皇后になり、嵯峨上皇没後も皇太后、太皇 太后として勢威を振るう。兄の公卿橘氏公とともに、橘氏教育のために大学別曹学館院を設立した。仁明天皇の皇太子恒貞親王が廃された政変、承和の変 (842)にも関わったという。
 空海に帰依し、六道の辻の地蔵堂を度々訪れた。没後埋葬時には、彼女の帷子が宙を舞い、帷子の辻へ向かったという。
◆安国寺恵瓊 安土桃山時代の僧・安国寺恵瓊(あんこくじ えけい、?-1600)。安芸国の守護武田家に生まれた。安芸国安国寺・竺雲恵心に師事、安国寺、備後・安国寺の住持、使僧(外交顧問)として毛利氏と京都の調停に当たる。1573年、足利義昭と織田信長の争いでは義昭に付く。1582年、豊臣秀吉の備中高松城攻めでは双方の講和に入る。その後、秀吉の使僧として四国平定により、伊予国に所領を与えられ大名となる。文禄・慶長の役(1592-1598)にも加わる。毛利家内の吉川広家と対立、1600年、関ヶ原の戦では西軍敗北に伴い、石田三成、小西行長により六条河原で斬首、三条大橋に晒された。
 東福寺退耕庵主、東福寺224世・住持、建仁寺を再興した。
◆二条綱平 江戸時代前期の公卿・二条綱平(にじょう  つなひら、1672-1732)。九条兼晴の次男。二条光平の養子。1683年、従三位。1715年、左大臣、1722年、関白になる。正一位。入道となり円覚と称した。
◆仏像・木像 本尊は「阿弥陀如来坐像」(86.6㎝)を安置する。室町時代、「長禄元年(1457年)」の墨書銘がある。上品下生の来迎像になる。寄木造、漆箔、玉眼入、
 橘嘉智子の等身大とされる木像がある。近年になり造立された。
◆地蔵 本尊の「土仏地蔵尊」は空海(774-835)作といわれている。橘嘉智子が子・正良親王の病気平癒を祈願したことから子育地蔵として崇敬された。子安地蔵、子授地蔵ともいう。蓮華座に坐して手を合わせて置く。像高20cm。
◆末広不動尊 境内の「末広不動尊」は、鎌倉時代、後白河法皇が那智熊野の千日修行満願を感謝し、勧請して地蔵尊の守護にしたという。
 商売繁盛の信仰がある。かつて、倒産危機のあった社長が祈ると倒産を免れたという。後に社長は不動尊前に自然石を寄進した。
 祈願し、一円玉を懐紙に包んだものを財布に入れておくと金持ちになるという。
◆文化財 「六道絵」があり、六道詣り(8月7日-10日)の日に公開される。
 平安時代の壇林皇后を描いたといわれる江戸時代初期の「九相図絵(壇林皇后九相図絵)」は、風葬された死屍が、変容し白骨化する様が極彩色で生々しく描かれている。宮殿での豪華絢爛とした生活が終わり、やがて主は病に臥す。遺体は腐敗し始め膨張する。ガスは皮膚を破り、内臓が流れ出す。これに、蝿が寄り蛆がたかる。死肉を獣や鳥が喰らい啄み、骨のみが残される。永く野晒しになり骨は散乱し、髑髏(どくろ)だけが転がる。骨すら土に朽ち果て、碑も跡かたなく消えてしまう。
 ほかに、室町時代の「後白河法皇熊野参詣図」、室町時代「六道十界図」、江戸時代初期「十王図」、江戸時代初期、海北友松(1533-1615)筆「布袋図」、江戸時代初期「洛中洛外屏風」一双、江戸時代中期「七難絵巻」「観音菩薩立像図」「二条綱平公木像」「壇林皇后像」などがある。
◆熊野比丘尼 室町時代以後、「熊野比丘尼(びくに)」といわれる人々が付近に移住していた。「勧進比丘尼、「絵解き比丘尼」、「歌比丘尼」とも呼ばれていた。
 比丘尼とは出家し、定められた戒を受けた尼僧をいう。鎌倉時代-室町時代には、尼僧の姿で諸国を巡り歩いた女芸人もいた。絵解きとは、平安時代末期に、琵琶を奏でながら、地獄の様などを描いた絵図を示して講釈する人々をいう。 
 熊野比丘尼は、「熊野詣曼荼羅」「地獄極楽変相図」などの絵解きをし、三所権現(熊野三社の主祭神、本宮の家都御子神、新宮の熊野速玉神、那智の熊野夫須美神)の三神について解説した。熊野三山で配布される特殊な神札「熊野牛王宝印札(熊野牛王符、熊野牛玉符)」を売り、熊野詣を勧めていた。
◆六道・盂蘭盆 「六道(ろくどう/りくどう)」とは、平安時代の源信(942-1017)が、985年に著した『往生要集(おうじょうようしゅう)』3巻に説かれている。人の生前の善行により導かれる冥界とされる。階層であり、①最上位の「天道(天上道、天界道)」より、②「人間道」、③「修羅(阿修羅)道」、④「畜生道」、⑤「餓鬼道」、⑥「地獄道」がある。これらの六道輪廻(ろくどうりんね)の迷いからの脱却、悟りを開かない限り、人は永遠に苦渋に満ちた六道世界を彷徨うとされた。たとえ、最上位の天道ですら死を免れることはかなわず、死期が迫ると体に5つの前兆が現れるとされた。さらに、人間道には、「四苦(生老病死)」、「四苦(愛別離苦)」の「八苦」がある。これらの六道の輪廻より脱するには、念仏修行が説かれ、悟りで極楽浄土に至るとされた。
 六道を脱した「極楽」は西に在る。阿弥陀仏の浄土であり、10の幸福「十楽(じゅうらく)」が得られるとされた。①最初の「聖衆来迎の楽」は、臨終の際に阿弥陀如来などが来迎し、極楽に導く。ほかに、②「蓮華初開の楽」、③「身相神通の楽」、④「五妙境界の楽」、⑤「快楽(けらく)無退の楽」、⑥「引接結縁(いんじょうちえん)の楽」、⑦「聖衆倶会(しょうじゅくえ)の楽」、⑧「見仏聞法の楽」、⑨「随心供仏の楽」、⑩果たせなかった悟りに到達する「増進仏道の楽」などがあるとされた。
 地獄は、「八大地獄/八熱地獄」といわれる。地獄は城壁に囲まれ、階層になっている。各々の周囲に16の小地獄が置かれている。生前の罪の深さでより最下層に落とされる。①最上層の「等活(とうかつ)地獄」は、殺生により落とされ、罪人同士が傷つけ合い、鬼に八つ裂きにされる。その下層に、②「黒縄(こくじょう)地獄」、③「衆合(しゅごう/しゅうごう)地獄」、④「叫喚(きょうかん)地獄」、⑤「大叫喚地獄」、⑥「焦熱(しょうねつ)地獄/炎熱地獄」、⑦「大焦熱地獄/ 大炎熱地獄」、⑧最下層の「阿鼻(あび)地獄/無間地獄」は、殺生・父母・阿羅漢(聖者)殺害などにより、ありとあらゆる苦が終結し、ほかの7地獄の千倍以上の苦しみが待つという。
 平安時代以来、貴族の間で浄土信仰は広まり、鎌倉時代には絵解きも流布した。江戸時代には庶民にも拡大する。『往生要集』にはなかった三途の川、閻魔、賽の河原なども次第に脚色されていく。
 お盆、盂蘭盆とは、梵語の「ullambana、ウランバーナ」に由来し、「倒懸」という逆さ吊りからの救いを意味する。釈迦弟子の目蓮は、亡き母の所在を神通力で見てもらうと、餓鬼道に落ちて苦しんでいることが分かる。目連は釈迦の教えに従い、供養をすると功徳により母は救われたという。以後、僧が百日の修行を終え、伝道に出る旧暦7月15日頃に、祖先の霊に供物を行う。施餓鬼をすることで餓鬼道で苦しむ人々のために、善行を代わりに積み、仏の慈愛により極楽世界へと導く。
◆ろくろ町 「六道の辻」の地名の由来について、鎌倉時代初期の『古事談』が文献初出になる。
 江戸時代初期までは「髑髏原(どくろはら)」、「髑髏(どくろ/ろくど)町」といわれていた。この髑髏が「六度」、「六道」に転訛したともいう。また、平安時代、977年、空也の弟子・中信が六度の行を行い、西光寺を六波羅蜜寺に改めたという。(『伊呂波字類抄』)。鳥辺山麓の麓道(ろくどう)とも、古語「ろく」は霊の集まる原野を意味するともいう。
 かつてこの地には轆轤(ろくろ)職人が多く住んだ。江戸時代、寛永年間(1624-1645)、京都所司代・板倉宗重は町名を轆轤(ろくろ)に改めさせたともいう。
◆幽霊飴 西福寺の辻向かいに「幽霊子育餅」を製造販売する店舗がある。麦を原料とした切り飴であり、六原の名物になっている。(幽霊子育飴、赤子塚伝説については下記参照)。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『六道の辻 あたりの史跡と伝説と古典文学を訪ねて』『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『昭和京都名所図会 2 洛東 下』『京都「癒しの道」案内』『京都の寺社505を歩く 上』『新版 京のお地蔵さん』『京都のご利益手帖』『京のしあわせめぐり55』『京の寺 不思議見聞録』『京の怪談と七不思議』


   六波羅蜜寺       六道珍皇寺       薬師町・城東寺跡        愛宕念仏寺       立本寺      大黒寺(薩摩寺)       

「地獄図」、火焔地獄。現世で犯した罪と同等の罰を地獄で執行される。ただ、年に一度の六道詣りでその罪を懺悔し、先祖を供養することで救済と罪の軽減がされると説いた。

子育地蔵尊

子育地蔵尊

水子地蔵尊

水子地蔵尊

水子地蔵尊

水子地蔵尊

末廣不動尊

末廣不動尊

末廣不動尊

円福地蔵

轆轤町の町名
幽霊子育飴





幽霊子育飴、原材料は麦芽水飴、砂糖
 西福寺の辻向かいに「幽霊子育飴」の屋号を掲げ飴を売る店がある。この店にまつわる赤子塚伝説がある。
 ◈安土・桃山時代、1599年、陰暦の9月、六道の辻に一軒の飴屋が店を開いていた。主人は惣兵衛という。ある夜、主人が店を閉めて床に入ると、夜更けに店先から女の声がする。潜り戸を開け、恐る恐る蝋燭の火で外を照らす。青白く痩せこけた20代中頃の女が一人立っていた。女はか細い声で、一文の飴を分けてくれという。惣兵衛は仕方なく飴を渡すと、女は闇の中に消えた。
 翌日の夜半にもまた、女は店先に現れ飴を買い求める。ある雨の日に、女は傘も差さず、髪も着物もずぶ濡れになって訪れた。足元を見ると、着物の裾が泥で汚れていたという。
 7日目の夜、主人は店の売り上げの帳尻が、一文あわないことを不審に思う。代わりに一枚の樒(しきみ)が入っている。主人は意を決して女を追うことにした。夜半、案の定、女は再び店を訪れる。主人は密かにその後をつけた。女は六道の辻から清水坂を上り、さらに人気の絶えた鳥辺山の墓地に入り、やがて消えた。主人は家に帰ったが、さすがに一睡もできなかった。
 夜明けとともに、主人は寺の住職に経緯を話した。主人が、住職と共に昨日の墓地を訪れると、女が消えた辺りには、真新しい盛土がある。寺の住職によると、6日前に江村の身重の若い妻が亡くなったという。話を聞きつけた親類縁者も、墓前に集まり回向しだした。すると、土の中から突然赤子の泣き声がする。急いで土を掘り返すと、棺桶の中に亡くなった母親とともに、傍らで泣く赤子がいた。赤子は飴をしゃぶっていたという。
 住職によると、身重の母親は墓の中で赤ん坊を産んだが乳が出ない。仕方なく、幽霊になって飴を買い求め、乳の代わりに赤ん坊に与えていたのではないかという。母親の遺骸は再び手厚く葬られ、赤ん坊は墓から取り出され住職が育てることになった。
 その日の夜以来、女は店に現れなかった。その子は寺で育てられ、8歳で仏門に入る。よく修行に励み、亡き母の菩提を弔い、後に高僧になったという。以来、店の飴は、幽霊子育飴として知られるようになったという。六道詣り(8月7日-10日)の際にも、店が開き子育幽霊飴が売られている。
 ◈別の幽霊飴の伝承がある。鳥辺野の墓地があり、清水坂に出る付近に一軒の飴屋が店を開いていた。秋の夜に、店の戸を叩く音がする。主人が外をのぞくと、痩せこけた女が嬰児を抱いて立っている。女は、三文の飴を分けて欲しいという。主人が竹の皮に飴を包んで渡し、御代を受け取り銭箱に入れた。
 翌朝、主人が勘定すると、木の葉三枚が入っている。女は毎夜現れ、三文が木の葉三枚に変ることが続いた。ある夜、女が現れたため、怪しんだ店の若い者が跡をつけた。女はある墓場へと消える。夜が明け、主人と若い者は、寺を訪ね、和尚に事の次第を話した。和尚は、4-5日前に裕福な家の若嫁が、出産間際に亡くなったという。和尚が念仏を唱えると、土の中から赤児の泣き声がする。掘り出すと、美しい母の上で赤ん坊が泣いていた。また、遺体は腐乱しており、傍に白髪の赤ん坊が泣きながら飴をしゃぶっていたという。
 死んだ母は、乳が出ないために、毎夜、幽霊になり飴を求めていた。主人は、一切の経費を負担するので、子を寺で預かり、母の菩提を弔う僧にして欲しいと申し出た。和尚は子を引き受けて、子はやがて有名な僧になったという。飴は「子育幽霊飴」と呼ばれ、もてはやされたという。
 この「子育幽霊」「赤子塚」の話は、細部の違いはあるものの全国にみられるという。(『底本 柳田国男集』第12巻)。原型は「空船」(うつろぶね)ともいう、不義の子を身籠った姫が、船に乗せられ流される話にある。生まれた子は、神の授かりものとする「異常誕生譚」との説もある。京都の立本寺、千本十二坊、大黒寺などにも同じような逸話が残されている。母親が渡した銭について、銭六文ではないかともいう。人が死ぬと銭六文を棺桶に入れる習わしがあった。三途の川渡しの際に、渡し賃として用いるためという。母親の幽霊は、その六道銭を持って飴を求めていたという。7日目には六道銭を使い果たしたため、樒を代わりに用いた。あるいは、銭を払えずに飴を求めて帰ったともいう。
 西福寺  〒605-0813  京都市東山区轆轤町(ろくろちょう)81,松原通大和大路東入る2丁目 075-551-0675
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