勝持寺 (花の寺) (京都市西京区)
Shoji-ji Temple 
勝持寺 (花の寺) 勝持寺 (花の寺) 
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仁王門



仁王門、参道






南門


南門










旧庫裏



サルスベリ





阿弥陀堂(本堂)



阿弥陀堂




瑠璃光殿(収蔵庫)









不動堂



不動堂


鐘楼
 西山にある勝持寺(しょうじじ)は、平安時代の歌僧・西行ゆかりの寺とされる。「小塩山(おしおざん)大原院(寺)」とも称された。境内に桜の木が多く植えられ、古くより「花の寺」とも呼ばれた。
 小塩山の東山麓にあり、小塩山大原坊ともいう。正式には小塩山大原院勝持寺という。
 天台宗。本尊は薬師如来。 
 西国薬師第42番霊場(西国薬師四十九霊場めぐり)。京の通称寺霊場40番、「花の寺」。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 飛鳥時代、白鳳年間(672-686)、679年、680年とも、第40代・天武天皇の勅命により、修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)が、堂宇を建て薬師如来を安置したことに始まるという。(寺伝)
 奈良時代末期、791年、第50代・桓武天皇が天台宗開祖・最澄に命じ、堂塔伽藍を再建した、創建したともいう。最澄は、山王権現の神託により、薬師瑠璃光如来を自ら彫り本尊にした。脇侍に日光菩薩、月光菩薩、十二神将、毘沙門天を安置したという。当初は、「大原寺(たいげんじ/おおはらでら)」、「小塩山大原坊(おおはらぼう)」と呼ばれたともいう。以来、天台道場になる。
 平安時代、794年、「大原寺」と記されており、当寺とされる。(『日本紀略』)
 838年、第54代・仁明天皇の勅命により、堂塔49院が建立されている。
 仁寿年間(851-854)、852年とも、第55代・文徳天皇の帰依により、住持で大原野社別当職・仏陀(ぶっだ)が再興したという。大原野春日社の供養寺(別当寺)とし、後に、寺号を「大原院勝持院(寺)」と改めたという。仏陀は中興の祖になる。(寺伝)
 868年、第56代・清和天皇の二条皇后(藤原高子)が行啓する。皇子(後の第57代・陽成天皇)が誕生したことから法華塔を寄進する。
 平安時代、第56代・清和天皇(850-881)、第60代・醍醐天皇(885-930)も帰依し、多宝塔、小野道風に勅し寺額「勝持寺」などを寄進する。
 1140年、佐藤兵衛義清(後の西行)が当寺で出家した。境内に、一株の桜樹を植えたことから以後、「花の寺」と呼ばれるようになったともいう。
 1366年、将軍御所での武将・斯波高経(しば たかつね)主催の花見の宴が催された。ばさら武将・佐々木高氏(ささき たかうじ、導誉)はそれに対抗し、当寺で盛大な花見の宴を開いたという。(『太平記』)
 室町時代、元弘年間(1331-1334)、初代征夷大将軍・足利尊氏は、当寺に屯して寺の名を聞いた。寺僧が「勝持寺」と答えたため、尊氏は戦勝の吉瑞(きちずい)として喜ぶ。1333年、尊氏の六波羅攻めの際に、「勝持」の旗を献じた。以後、寺は庇護を受け、仏堂を再建し、本尊・薬師如来を安置した。
 応仁・文明の乱(1467-1477)により仁王門以外はすべて焼失した。以後、衰微する。
 1571年、勝竜寺城の細川幽斎が当寺で連歌の会を行う。「大原千句」といわれた。
 安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)、織田、豊臣の勧進により再興された。仏殿も再建され、本尊を安置する。
 1582年、山城奉行・杉原家次が桜木の伐採、桜に牛馬を繋ぐことを禁じる。家臣らは寺領田屋敷、山林などの一部を安堵する。(「勝持寺文書」)
 1583年、青蓮院宮尊朝法親王により再興された。
 1584年、山城奉行・小野木重次が寺領田、屋敷、田畑などを安堵する。(「勝持寺文書」)
江戸時代、5代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院(1627-1705)の寄進により修復が行われている。
 歌人・木下長嘯子(きのした ちょうしょうし、勝俊、 1569-1649)は、晩年に当寺の裏、小塩山に小庵を結びここで没したという。
 近代以降、復興された。
◆役行者 伝説的な修験道開祖・役行者(えんのぎょうじゃ、生没年不詳)。詳細不明。大和国に生まれた。賀茂一族(高賀茂朝臣)の出身ともいう。役小角(えんのおづぬ)、役の優婆塞 (うばそく)とも呼ばれる。生駒山、葛城山、大峰、熊野で修行した。吉野金峰山、大峰を開く。699年、弟子・韓国連広足に密告され伊豆国に流罪にされる。701年、赦される。数多くの呪術的な伝承が残され、修験道と結びついた。富士山、九州の山々で苦行し、前鬼、後鬼の二鬼を従えたという。
 後世、江戸時代、1799年、朝廷より神変大菩薩の諡号が贈られた。
◆最澄  平安時代前期の僧・最澄(さいちょう、767/766‐822)。幼名は広野。近江(坂本の生源寺付近)に生まれた。父は中国からの渡来系豪族の子孫で三津首百枝 (おびとももえ、浄足)、母は藤原藤子(妙徳)という。778年、12歳の時、出家、近江・国分寺で行表(ぎょうほう)に師事、780年、国分寺で得度し最澄 と名乗る。785年、19歳で東大寺で受戒(具足戒・小乗戒)するが、同年、比叡山大嶺山中(本願堂付近)に草庵を結び、願文を作る。禅を修め、12年間にわたり修行を積んだ。天台三大部摩訶止観、法華玄義、法華文句を修めた。788年、草庵の近くに小堂「一乗止観院」を建て、薬師如来を祀る。797年、内供奉 十禅師に任命される。798年、比叡山で法華十講を修する。801年、比叡山に奈良十大徳を招き法華十講を修した。802年、和気弘世主催により、神護寺で5カ月にわたる天台の教え「天台三部」を説いた。第50代・桓武天皇の信任、帰依を受ける。803年、短期の還学生(げんがくしょう)として、唐に渡航することが認められた。804年、遣唐使として義真を伴い、留学僧・空海(774-835)らと唐に渡る。霊地・天台山で、天台大師智顗(ちぎ)直系の天台山修禅寺・道邃(どうずい、?-805)より天台教学と大乗菩薩戒、仏ろう寺・行満座主より天台教学を、越州(紹興)の龍興寺で、順暁阿闍梨より密教を、しゅく 然禅師より牛頭禅を学び、天台、密教、禅、戒を修した。805年、帰国し、多数の天台典籍、密教の教えを唐より持ち帰る。高雄山寺で日本初の灌頂を行う。宮中で日本初の護摩供を行う。請来された天台密教経疏500巻、護摩の器具を桓武天皇に献上した。天皇は、双林寺を建立し、最澄は開山になる。806年、日本 天台宗が公認される。811年、弟子・泰範が空海の弟子となる。最澄は空海から経本を借り密教を学ぶ。812年、空海により灌頂を授けられた。その後、空海と は決別する。814年、九州巡化、815年、東国巡化、817年、徳一との論争が始まる。818年、小乗戒廃棄宣言、六条・八条天台宗年分学生式を制定、819年、四条の学生式上奏、822年、中道院で亡くなる。天台宗の祖。
 没後7日後に、大乗戒壇設立の許勅が下りた。以後、奈良の南都仏教から独立して、延暦寺において独自に僧を養成することができるようになった。866年、日本最初の大師号、伝教大師の諡号が贈られた。通称は叡山大師、根本大師。
◆仏陀 平安時代の僧・仏陀上人範慶(ぶっだ、生没年不詳)。詳細不明。仏陀上人範慶(はんきょう)。勝持寺住持、大原野社別当職。仁寿年間(851-854)、第55代・文徳天皇の帰依により、勝持寺を再興し中興の祖となる。大原野春日社の供養寺とした。墓は勝持寺の境外墓地にある。
◆藤原彰子 平安時代の藤原彰子(ふじわら の たかいこ、988-1074)。上東門院彰子。公卿・藤原道長(966-1028)の娘。999年、入内し、1000年、第66代・一条天皇の中宮となり、第68代・後一条、第69代・後朱雀両天皇を産む。1026年、上東門院の院号宣下、藤原氏全盛期の中宮として女官・歌人の紫式部(生没年不詳)、伊勢大輔(989?-1060)、赤染衛門(956?-1041)らの才女を集めた。
 868年、勝持寺に行啓する。後の第57代・陽成天皇が誕生したことから法華塔を寄進した。
◆西行 平安時代末期の真言宗の僧・西行(さいぎょう、1118-1190)。佐藤義清(のりきよ)。紀州生まれともいう。秀郷流武家藤原氏の出自。父は検非違使の職にあった。16歳頃、徳大寺家に仕え、1135年、兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、1137年、鳥羽院の下北面の武士になる。1140年、妻子を捨て出家、円位、後に西行とも称した。鞍馬山、1144年頃(1147年とも)、奥羽、1149年頃、高野山に庵を結ぶ。1168年、中四国、高野山、1177年、伊勢国二見浦、1186年、東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州、伊勢国の漂泊で多くの歌を詠む。途中、鎌倉で源頼朝に初対面する。1189年、河内国の弘川寺(ひろかわでら、大阪府河南町)に庵を結ぶ。当寺で亡くなる。
 平清盛と親交したという。歌人・寂然(藤原為業)、歌人・藤原俊成と親しく、和歌に秀で『新古今和歌集』に94首入集。恋歌が多く鳥羽上皇皇后との禁断の恋に破れたともいう。桜を愛で多くの歌を残す。故実に通じ、武芸、蹴鞠も秀でた。
 当寺で出家したと伝えられている。西行庵は、西の山の山上にあり、その後、本堂前に移された。手植えという桜が伝えられている。「願はくは花の下にて春死なむ その如月の頃」。
◆佐々木高氏 鎌倉時代末期-南北朝時代の武将・佐々木高氏(ささき たかうじ、1296/1306-1373)。法名は導誉。京極氏の出。足利尊氏に従い、室町幕府創立に参与した。若狭・近江・出雲・上総・飛騨・摂津守護守護大名を努めた。和歌・連歌、立花、茶道、香道、笛を嗜み、近江猿楽の保護をした。
 1366年、幕府内で対立した斯波高経の花見に対抗し、大原野・勝持寺で大宴会を催す。その後、高経は失脚した(貞治の変)。
◆木下長嘯子 江戸時代前期の歌人・木下長嘯子(きのした ちょうしょうし、1569-1649)。名は勝俊。尾張の北政所(高台院)の兄・木下家定の嫡男。少年時代より秀吉に仕え、1587年、19歳で播磨国・竜野城主となる。小田原攻め、文禄の役などに参加。1594年、若狭国小浜城主。1600年、関ヶ原の戦で豊臣秀頼の命により伏見城の留守を預かるが、石田三成の挙兵により任務放棄、所領地の若狭小浜は没収となり、失脚、ねねの嘆願により命だけは救われた。東山に遁世した。後に洛西小塩に移る。細川幽斎、林羅山ら多くの文人と交わる。高台寺山中に葬られる。
 庵は勝持寺境内東方に山荘跡あったという。当地で亡くなったという。「ここもまた炭こそやかね大原やあこかれていてしふる里の山」と詠んだ。勝持寺の境外墓地に、塚という五輪石塔がある。
◆仏像 瑠璃光殿に、秘仏の本尊「薬師如来坐像」(85.1cm)(重文)が安置されている。鎌倉時代作になる。結跏趺坐、左手の薬壷から右手で薬を摘む姿は珍しいという。寄木造、漆箔、金箔、玉眼。
 平安時代(9世紀)の「薬師如来坐像」(9.1cm)(重文)は、厨子内に納められている。小仏で、本尊の胎内より見つかった胎内仏になる。芳香ある檀木(白檀)に、衣文襞に添う細かい截金文様の彫りが施されている。光背は菩提樹形であり、宝相華(ほうそうげ)を地とし、化仏の七仏薬師と下段に十二神将が半肉彫りで配されている。光背に十二神将があるのは珍しい。木造、素地、截金。  
 脇侍の「十二神将像」(85㎝)は、彩色、寄木造になる。ほかに、薬師如来の「眷属仏」、「日光菩薩像」、「月光菩薩像」、鎌倉時代の裸形「南無仏太子像」を安置する。
 美仏の「菩薩半跏像」(137.2㎝)(国宝)は、平安時代前期作になる。厨子内に納められている。傑作とされている。かつて向日市の廃絶した宝菩提寺の本尊が遷された。如意輪観音と伝えられる。精緻な彫りで端正な表情、大理石彫刻のような肌合いを見せる。右足を踏み下げて坐り、施無畏印を結ぶ。衣文の表現も繊細に表現する。頭部、蓮肉、右足までヒノキ材を用いた木彫りになる。内刳りはない。素地。現在、隣接する宝菩提院(願徳寺)の所有、勝持寺の客仏として管理する。
 仁王門には、「金剛力士立像阿形像」(300㎝)(重文)、「吽形像」(300㎝)(重文)が配されていた。鎌倉時代、1285年、湛康、慶秀らの作による。足の臍に「弘安八年(1285年)十月十日法眼慶秀法橋湛□」の墨書銘が入っていた。京都市内最古の仁王像という。現在は瑠璃光殿に遷された。木造、寄木造、彩色、玉眼。
 西行庵に安置されている「西行法師像」(55cm)は、室町時代の作になる。寄木造、漆塗。
◆建築 南門、仁王門、山門、西行庵、庫裡、瑠璃光殿(収蔵庫)、本堂(阿弥陀堂)、不動堂、鐘楼、客殿などが建つ。
 「仁王門」は、平安時代、仁寿年間(851-854)の建立という。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で唯一類焼を免れた。寺の中で最も古い建物になる。三間一戸、八脚門、寄棟造、桟瓦葺。
 「西行庵」は、西行ゆかりになる。かつて境内背後の山上にあり、いまも礎石が残されている。現在は、庫裡の庭内に建てられている。
 「瑠璃光殿(収蔵庫)」は鉄筋コンクリート造。
 旧「庫裡」は、主室(14畳)に床、違棚があった。次の間(8畳)に仏壇があった。主室との間に竹の櫛欄間があった。茅葺。
◆不動堂 「不動堂」は、平安時代、弘法大師空海(774-835)が眼病に悩む人のために、不動明王に病魔退散の祈願をした場所という。岩不動明王を刻み、岩窟に安置したという。以来、諸病平癒の信仰を集めている。
◆文化財 「醍醐天皇勅額」は、平安時代前期、927年、天皇の勅により、小野道風筆により納められた「勝持寺」の額になる。摂政大政大臣近衛家熙の御添書がある。
 室町時代、1571年、細川幽斎筆の「大原野千句連歌懐紙」(重文)、京都国立博物館寄託。
◆西行旧跡 能の「雨月」「松山天狗」のワキ西行法師は、嵯峨の奥に住まいするとされた。
 「西行桜」では、「西山西行の庵室」が舞台になる。この庵室は、勝持寺とされ、境内に桜多く、堂前に西行桜があると記されている。(『都花月名所』)。
◆西行桜 鐘楼近くに「西行桜」が植えられている。出家剃髪の際に、西行が手植えしたという。桔梗型の八重桜になる。
◆鏡石  「鏡石(かがみいし)」は、「西行姿見ノ池」という小池の畔にある。珪石質の石には光沢があり、西行が剃髪に用いたという伝承がある。
◆冴野の沼  鐘楼下に「冴野の沼(さえののぬま)」という池がある。かつて「佐江野沼」とも呼ばれた。歌枕になった。
 「小塩山松風寒し大原や冴野の沼のさえまさるらん」。平安時代中期の女流歌人・中務(なかつかさ、912?- 991?)が詠んだ。
翁滝 本堂背後に「翁滝(おきなたき)」がある。今も水は落ち、仏陀が山王権現に出会った場所という。
 沼は佐江野沼とも書かれ歌枕になっている。
◆樹木 境内に、西行手植えという八重桜の「西行桜」(3代目)がある。ソメイヨシノ100本(4月上旬)が植えられている。小塩桜がある。
 カエデ100本(11月中旬)が自生している。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都大事典』『京都府の歴史散歩 上』『京都の寺社505を歩く 下』『京都おとくに歴史を歩く』『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』『仏像』『京都の仏像』『京都仏像を訪ねる旅』『洛西探訪』洛西歴史探訪』『日本の名僧』『京都歩きの愉しみ』『京都 神社と寺院の森』 『週刊 京都を歩く  39  大原野』


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西行桜、西行が当寺で出家した際に1株の桜を植え、愛でたことから「花の寺」と呼ばれるようになったという。

西行桜

鏡石、西行が出家した際に、石を鏡の代わりにして頭を剃ったという。

ヤマブキ


ヤマブキ

シダレザクラ

シダレザクラ

冴野の沼

参道脇の竹林

魚鑑観音のある小池

小塩山
 勝持寺 〒610-1153  京都市西京区大原野南春日町1194    075-331-0601  9:00-16:30
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