安楽寿院・鳥羽離宮跡 (京都市伏見区)
 Anrakuju-in Temple 
安楽寿院・鳥羽離宮跡 安楽寿院・鳥羽離宮跡 
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太師堂、安土・桃山時代、1596年建立、伏見の大地震により新御塔が倒壊した。その後、一時しのぎに再建されたという。その後、勤行堂となり、現在地へ移築され、大師堂と成る。本尊の弘法大師像、大日如来、薬師如来、聖観音、十一面観音、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、歓喜天などの旧塔頭の仏も安置されている。 新御塔は江戸時代、1608年に豊臣秀頼により復興された。








阿弥陀堂、台風による倒壊後、1959年に建立、本尊・阿弥陀如来像(重文)を安置する。


阿弥陀堂




書院の庭園


『明月記』(『愚記』)断片、安楽寿院が登場する。鎌倉時代の公家・藤原定家(1162-1241)の日記(1180-1235)








三宝荒神社、江戸時代、1606年建立、火災に遭わないことを願って勧請された。火難消除の神。






宝篋印塔





三如来石仏が二面ある。江戸時代、享保年間(1716-1736)、境内の西にあった成菩提院跡より三面の三尊石仏が出土し、当院に遷されたという。平安時代の作で切石に右に釈迦三尊があり、釈迦、弥陀(普賢菩薩とも)、薬師三尊が彫られている。舟形光背、蓮座。凝灰岩製、1m。
 鳥羽の安楽寿院(あんらくじゅいん)は、平安時代後期に造営された鳥羽離宮の東方に位置し、かつては東殿、泉殿が建てられていた。院政時代(第72代・白河、第74代・鳥羽、第77代・後白河の約100年)に、この地に建立された寺院だった。 
 新義真言宗智山派。本尊は阿弥陀如来坐像。美福門院、鳥羽法皇、八条女院も祀る。
◆歴史年表 平安時代末期、1086年、藤原季綱が第72代・白河天皇に鳥羽山荘を献上し、別業として鳥羽殿(南殿)を建立したことに始まる。
 1087年、鳥羽南殿が建てられた。
 1137年、鳥羽上皇(第74代)の発願によって、「鳥羽離宮」(鳥羽殿)東殿の御堂(東殿御堂)、またその一部として建立された。阿弥陀三尊を安置した。当初は東殿御堂と呼ばれた。落慶法要は、覚法法親王を導師としたという。
 1139年、鳥羽上皇の墓所として三重塔(本御塔、ほんみとう)が建立される。権中納言・藤原家成の寄進による。塔下に法華経を納め地鎮として自らの塔所と定めた。第一層の須弥檀上に等身大の阿弥陀如来坐像が安置されていた。以後、多くの荘園(安楽寿院領)が寄せられた。
 1143年、「安楽寿院」の院号の初見になる。
 1147年、阿弥陀堂(桁行11間)の供養が行われる。仏師・法印長円作の9体の丈六阿弥陀像を安置した。
 1148年、鳥羽上皇は、宸筆「法華経」8巻を石函に入れ、三重塔刹柱の下に納める。
 1155年、不動堂(1間4面)の供養が行われる。康助法橋作の丈六不動明王像を安置していた。
 1156年、鳥羽上皇没後、棺は御所より網代車で三重塔まで運ばれた。第一層須弥檀に埋葬される。本御塔(現在の鳥羽天皇安楽寿院陵の前身)と呼ばれた。
 1157年、皇后・美福門院(1117‐1160)の葬所のために新御塔(しんみとう)が建てられる。
 1160年、皇后・美福門院没後、その遺言に従い遺骨は高野山に葬られる。当院の新御塔三昧僧は分骨のために訴訟を起こす。
 1163年、新御塔(現在の近衛天皇安楽寿院南陵の前身)に、第76代・近衛天皇の骨灰が洛北・知足院本堂より塔に改葬される。
 院政期(第72代・白河天皇、第74代・鳥羽天皇、第77代・後白河天皇の約100年)に大いに栄え、14世紀(1301-1400)頃まで院御所として使用された。創建時-鎌倉時代までの最盛期には、北は茨城、南は熊本にまで至る32か国63所に所領を有していた。
 1179年、平清盛は後白河法皇を鳥羽殿に幽閉した。
 鎌倉時代、1296年、焼失している。
 南北朝時代、1363年、焼失している。南北朝の内乱期以後、寺領の多くを失い急速に荒廃した。
 室町時代、1548年、新御塔を除く本御塔、御堂、九体阿弥陀堂、不動堂が焼失した。
 安土・桃山時代、1585年、豊臣秀吉が500石を寄進した。
 1596年、慶長伏見大地震により被災し、仏堂、本御塔、新御塔が失われる。
 安土・桃山時代-江戸時代、慶長年間(1596-1615)、豊臣秀頼により、新御塔に付属した前松院が安楽寿院として再興された。
 江戸時代、徳川家康、徳川幕府は、幕末期まで朱印地を寄進している。
 1606年、豊臣秀頼は、普請奉行・片桐且元に命じ多宝塔を再建した。
 享保年間(1716-1736)、西にあった成菩提院跡より三面の三尊石仏が出土し、当院に遷されたという。
 1864年、法華堂が再建された。
 幕末-近代、荒廃した。
 近代、1868年、鳥羽・伏見の戦で、官軍(薩摩軍)の本営となるが兵火は免れた。神仏分離令後の廃仏毀釈により、塔頭・末寺十二院五坊、伽藍の多くを失った。本御塔が再建される。本御塔、新御塔は宮内庁の管轄になった。維新後の上地により多くが失われた。
 現代、1958年以降、高速道路の開発に伴い発掘調査が行われる。
 1960年以降、鳥羽離宮の発掘調査が行われている。
 1961年、第2室戸台風などで倒壊し、その後再建された。
◆白河天皇 平安時代の第72代・白河天皇(しらかわ てんのう、1053-1129)。第71代・後三条天皇の第1皇子、母は中納言・藤原公成の娘・茂子。1072年、20歳で即位した。1075年、法勝寺の創建に着手する。父の遺言に背き、1086年、8歳の子・善仁親王(第73代・堀河天皇)に譲位後、自らは白河院として院政を行った。1087年、別業の鳥羽殿(南殿)を建立する。1107年、5歳の孫・第74代・鳥羽天皇、1123年、曾孫・第75代・崇徳天皇と、3代にわたり43年間の強権的な執政を行う。「治天の君」といわれた。院御所は主に六条院とした。200か所以上の倉を有し、1077年、六勝寺の初めである法勝寺、1095年頃、白河に白河殿を建立した。熊野参詣は9度行う。延暦寺衆徒の嗷訴(強訴)に苦慮し、源平の武士を登用しその台頭を促す。
 西三条殿内裏で亡くなる。衣笠山山麓で荼毘に付され、香隆寺に埋葬される。その後、1131年、成菩提院(成菩提院陵)に改葬された。
◆鳥羽天皇 平安時代後期の第74代・鳥羽天皇(とば てんのう、1103-1156)。父は第73代・堀河天皇、母は贈太政大臣・藤原実季の娘・苡子。1103年、堀河天皇の東宮となる。1107年、即位するが、祖父・白河法皇による院政がしかれた。 1123年、子・顕仁(第75代・崇徳天皇)に譲位し、鳥羽離宮を居所とした。1129年より、崇徳・近衛・後白河の3代28年にわたり院政を行う。また、荘園公領制を確立させた。1141年、出家し、御願寺の造営、熊野参詣は23回行う。1149年より、第76代・近衛天皇の即位は、皇位継承をめぐる皇統内部の対立になり、鳥羽天皇の没後、1156年、保元の乱が起きた。
 安楽寿院内の陵墓に葬られた。
◆美福門院 平安時代の鳥羽上皇皇后・美福門院(びふくもんいん、1117‐1160)。父は藤原長実、母は源俊房の女方子。名は得子(なりこ)。1123年、鳥羽天皇の譲位後、寵を得て1139年、女御になり、1141年、皇后となる。皇子体仁親王(後の近衛天皇)を生後3か月で皇太子に立て、1142年、崇徳天皇を譲位させ3歳の皇太子を皇位に就かせた。1149年、美福門院の院号宣下を被って女院となる。1156年、落飾し真性定と号した。近衛天皇陵は当初、鳥羽上皇が美福門院のために造営したが、美福門院は高野山に葬られた。
◆近衛天皇  平安時代後期の第76代・近衛天皇(このえ てんのう、1139-1155)。鳥羽天皇皇子。母は藤原得子(美福門院)。1142年、異母兄の崇徳天皇の譲位後3歳で即位した。だが、父・鳥羽上皇が院政を行っている。17歳で夭折し、安楽寿院内の陵墓に葬られた。
◆覚猷 平安時代後期の天台僧・覚猷(かくゆう、1053-1140)。鳥羽僧正。1053年、源隆国の第九子。若くして出家し、園城寺で天台仏教・密教を修め、画も描く。園城寺法輪院に住し、絵を描き密教図像の集成と絵師の育成した。四天王寺別当、法成寺別当、園城寺長吏を歴任、1132年、僧正、1134年、大僧正。1138年、47世天台座主に就くが3日で退任し、帰依した鳥羽上皇の鳥羽離宮・証金剛院へ移り、離宮の護持僧になる。以後、鳥羽僧正と呼ばれた。作品として「鳥獣人物戯画」(鳥獣戯画)」「放屁合戦」「陽物くらべ」などがあるが確定されていない。
◆鳥羽 鳥羽は、かつて鴨川と桂川の合流点にあった。当時の鴨川は、東から南へと流れ、西に桂川が流れていた。この地には、巨椋(おぐら)池という広大な池(遊水地)があり、周辺の河川はこの池に注いでいた。鳥羽は、狩猟や遊興の地としても知られ、邸宅、寺院なども建てられた。
 平安時代初期、「鳥羽の作(造)り道(作道)」がこの地まで通じていた。北は、平安京の南北の朱雀大路につながっていた。作り道は、鳥羽殿建設以後に、「鳥羽西大路」とも呼ばれる。道は、さらに南、南西に延び、伏見区久我森ノ宮、山崎へ向かう「久我縄手」に通じた。
 「鳥羽の津」が設けられていた。陸路の山陽道と、京都、淀川、瀬戸内海へと通じる水運の要衝地だった。物資は川を遡り、この地で陸揚げされる。作り道により車、馬で平安京まで運び込まれていた。鳥羽は平安京の南の玄関口にもなっていた。
 なお、巨椋池は1933-1941年に干拓され、消滅した。
◆鳥羽離宮 平安時代の鳥羽離宮は、この地にあった藤原季嗣の山荘が、白河天皇(1053-1129)に献上され、それが元になっている。この譲位後の御所は、1086年に造営が始まった。
 鳥羽離宮の敷地は広大であり、建設は「都遷り」(『扶桑略記』、1086年の条)と形容される。あたかも、もう一度、遷都が行われたかのようだと噂された。離宮は、「鳥羽の水閣」、「城南の水閣」と呼ばれた。敷地は現在の京都市南区、伏見区にまたがり、180万㎡、東西1.5km、南北1km。西は小枝橋、北は名神高速南インターチェンジ、東は安楽寿院、地下鉄竹田駅辺、南は離宮公園辺までを占めていた。なお、当時の鴨川は鳥羽離宮の西を流れていた。
 鳥羽離宮には、1101年に建立された証金剛院(南殿)には、丈六の阿弥陀を安置する金堂があった。1109年に建立された三重塔、1111年に建立の多宝塔のある成菩提院、1137年に建立の安楽寿院(泉殿、東殿)、1136年建立の勝光明院(北殿)、釈迦堂、1147年に建立の九躰阿弥陀堂、1153年に建立の寝殿のある金剛心院(田中殿)、城南鎮守明神、馬場殿、御所、寝殿など、殿舎と寺院が混在する形で湖畔に建てられていた。庭園なども数多く築かれ、往来は船で行われていた。
 1179年、平清盛は「今様狂い」と称された後白河法皇(1127-1192)をこの鳥羽殿(鳥羽離宮)に幽閉し、一時期院政を止めさせる。法皇は藤原氏、源氏、平氏らを操り、34年間にわたり院政をしいた。源頼朝は法皇を「日本国第一の大天狗」と評した。
 一時、貴族文化の栄華は、極楽浄土の再現とまでいわれる。だが、院政の衰微、武家政治の台頭、戦乱などにより次第に廃滅していった。
◆仏像 阿弥陀堂安置の平安時代末期作、本尊の「阿弥陀如来坐像」(重文)(87.6㎝)は定印を結ぶ。胸に小さな「卍」字相が刻まれており、「卍字阿弥陀仏」と呼ばれている。鳥羽天皇の念持仏であり、かつては三重塔(本御塔)内に安置されていたとみられている。円派仏師(賢円、長円ら)作とみられ、面相部、胴部が長めになっている。螺髪は極めて細く、両眼はわずかに見開く。相好は円く穏やか、体躯も整い、衣褶は薄手に彫り出されている。頭部、体部は前後二材を寄せ、頭部で割り接ぎ、膝前に材を接ぐ。像内は内刳りしている。像内頭部より下に金箔押しする。定朝様。光背と台座は室町時代、1553年、1554年に修理されている。光背は二重円相、周縁に透かし彫り、台座は九重の蓮華座。寄木造、木造、桧材、漆箔。
 「大日如来坐像」は、鎌倉時代作、慶派仏師作という。塔頭・前松院の内仏堂の本尊だった。
 本堂に、弘法大師像、薬師如来、聖観音、十一面観音、千手観音、地蔵菩薩、不動明王、歓喜天など旧塔頭の仏も安置されている。
◆建築 「本坊(書院・庫裏)」は、塔頭・前松院(ぜんしょういん)を基としている。江戸時代、1795年、寛政年間(1789-1801)の建立による。
 「太師堂」は、安土・桃山時代、1596年の建立による。伏見の大地震により新御塔が倒壊した。その後、一時しのぎに再建されたという。後、勤行堂となり、現在地へ移築され、大師堂と成る。
 「新御塔」は江戸時代、1608年に豊臣秀頼により復興された。
 「薬師堂」は、1958年に再建された。
 「阿弥陀堂」は、台風による倒壊後、1959年に建立された。本尊・阿弥陀如来像(重文)を安置する。
 「鐘楼」は、江戸時代、1606年に、豊臣秀頼による大修復の際に建立された。柱、梁にのみ当時の材を残す。
 「梵鐘」は、江戸時代、1692年に鋳造された。
 「三宝荒神社」は、江戸時代、1606年の建立による。火災に遭わないことを願って勧請された。火難消除の神。
◆文化財 三幅一対の「鳥羽法皇御影」、皇后の「美福門院御影」、皇女の「八条女院御影」は、安土・桃山時代-江戸時代作。
 『明月記 断片』(『愚記』)には、安楽寿院が登場する。鎌倉時代の公家・藤原定家(1162- 241)の日記(1180-1235)になる。
 平安時代の絹本著色「孔雀明王像」(重文)。
 鎌倉時代の絹本著色「普賢菩薩像」(重文)、国立京都博物館寄託 。
 平安時代(13世紀前半)の絹本著色「阿弥陀二五菩薩来迎図(阿弥陀聖衆来迎図)」掛幅装(重文)は、阿弥陀が転法輪印を結び、七尊、八菩薩、不動、毘沙門などが描かれた来迎図になる。115.6×74.3cm。国立京都博物館寄託。
 「十二天屏風」は、江戸時代、1651年に木村徳応が東寺の「十二天屏風」を模写した。
「」は、鎌倉時代後期作。国立京都博物館寄託。
◆石造物・石仏 境内の石造「五輪塔」(重文)は、鎌倉時代、「弘安十年(1287)」の銘が刻まれ、願意による。在銘のものとして貴重という。古くは「妙法経塚」と呼ばれ、阿弥陀信仰により、この地に鳥羽上皇が妙法経を埋めたという。花崗岩製、3m。国立京都博物館寄託。
 「三如来石仏」が2面ある。江戸時代、享保年間(1716-1736)、境内の西にあった成菩提院跡より三面の三尊石仏が出土し、当院に遷されたという。平安時代の作で切石、右に釈迦三尊、釈迦、弥陀(普賢菩薩とも)、薬師三尊が彫られている。舟形光背、蓮座。凝灰岩製、1m。左に平安時代作の薬師三尊、薬師、日光、月光菩薩が彫られている。かつて石仏を削り、水で練り、子供の顔に塗るとクサが治るとされた。凝灰岩製、1m。
 平安時代後期の「石造阿弥陀三尊像」は伏見区竹田町付近で出土したという。現在は、京都国立博物館に屋外展示されている。
◆庭園 枯山水式庭園は、苔地に飛石、蹲踞、燈籠、植栽が配されている。
◆塔頭 近世初頭、塔頭として本御塔に前松院、玉蔵院、金蔵院、宝珠院、福音院、慈尊院が付属した。
 新御塔に、明照院、妙音院、千手院、遍照院、宝光院、大善院があった。
◆保元の乱 平安時代、1156年、7月2日、鳥羽院は、安楽寿院御所で亡くなる。崇徳上皇は父の見舞いに訪れるが、近臣は面会を断る。夜、藤原公教、信西入道により葬儀は行われる。鳥羽殿に、美福門院、忠通、平盛兼、後白河上皇の里内裏・高松殿に源義朝らが集結していた。7月8日、初七日の法会が催される。7月9日夜、崇徳上皇はわずかの供を連れて密かに鳥羽田中殿を脱出し、白河北殿に移る。
 7月11日の後白河方の白河北殿への夜襲により戦闘が始まり、白河北殿は焼失する。7月13日、崇徳上皇は逃れた仁和寺御室で投降、後に讃岐に配流され亡くなる。
 この保元の乱は、皇位継承争いに、摂関家、平氏、源氏の武士が関わり、相互の複雑な人間関係が絡んだ。以後、武士が政治に台頭する。
◆巨椋池 巨椋池は、弥生時代に生まれたと見られている。南山城、大和での開発により、山林の樹木が乱伐された。山が荒廃し、土砂流入により池が誕生した。
 


※「上皇」は、皇位を退いた天皇の尊称。「法皇」は出家した上皇。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『遺跡から見た京都の歴史』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『京都古社寺辞典』『京都・山城寺院神社大事典』『仏像』『平安京散策』『平安の都』『京都・美のこころ』『社寺』『京都府の歴史散歩 中』『京都大事典』『京都の地名検証 2』『京都 阿弥陀の寺と庭』『京都まちかど遺産めぐり』『あなたの知らない京都の歴史』『平成28年度春期 拝観の手引』『京都時代MAP 平安京編』『京都を歩く 41 伏見・大山崎』


  城南宮      小枝橋       白河北殿跡・保元の乱跡        高松神明神社・高松殿跡        羅生門跡・矢取地蔵尊      土御門内裏跡                     

三如来石仏、左に平安時代作の薬師三尊、薬師、日光、月光菩薩。江戸時代に出土したという。かつて石仏を削り水で練り、子供の顔に塗るとクサが治るとされた。凝灰岩製、1m。

冠石、鳥羽天皇が法皇となった際にこの地に冠を埋めたという。



鳥羽離宮の想像図、案内版より

【参照】鳥羽離宮の金剛心院跡の鬼瓦軒瓦、京都アスニー

【参照】鳥羽離宮の金剛心院跡の鬼瓦、京都アスニー



安楽寿院出土の石、石の多くは高野川流域、和歌山県周辺部より運ばれた和泉砂岩、緑色片岩など。

【参照】五輪塔


【参照】京都国立博物館に屋外展示されている平安時代後期、石造阿弥陀三尊像。伏見区竹田町付近で出土したという。安楽寿院蔵。

【参照】白河・鳥羽法皇院政之地の碑

【参照】近くにある白河天皇(1053-1129)陵、一辺33mの方形。創建時は一辺56mの方形、さらに周囲に8.5mの濠があった。

【参照】近くにある鳥羽天皇(1103-1156)陵、ここには東殿があった。鳥羽上皇は自らの写経法華経を本御塔に納めた。

【参照】近くにある近衛天皇(1139-1155)陵の多宝塔、陵墓には珍しい形をしている。江戸時代、1606年に豊臣秀頼により再建された。現存する陵墓建築物では最古。建物内に骨臓器を納めた。

【参照】北向不動尊、平安時代、1130年、鳥羽上皇の勅願により建立。かつて離宮内に建てられていた。
本尊不動明王が、王城鎮護のため北向きに安置されたことから「北向不動尊」と呼ばれた。

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 安楽寿院  〒612-8446 京都市伏見区竹田中内畑町  075-601-4168

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