峰定寺・大悲山 (京都市左京区花背) 
Bujo-ji Temple
峰定寺 峰定寺
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「峰定寺参道」の石碑














「曹洞宗大本山総持神社獨法第一世 勅特賜 弘済慈徳禅師 梅崖英堂 大和尚山居御勝独之地」の碑


「吉原糸次郎翁彰徳碑」




参道脇を流れる寺谷川、川は上桂川、保津川に合流する。




寺谷川






手水舎
 花背(はなせ)の峰定寺(ぶじょうじ)は、大悲山(だいひざん、746m)の南西麓中腹にある。峰床山の西に位置し、桂川の源流の一つ寺谷(てらたに)川が境内東を流れている。
 急峻な連山は聖地、修験道場であり、奈良の大峰山に対し、北大峰(きたおおみね)と呼ばれてきた。山が深いことから、古くは「鞍馬の奥」といわれ、落人の隠れ里になっていた。山号は大悲山という。
 本山修験宗、本尊は十一面千手観音坐像。
◆歴史年表 平安時代後期、1154年、大峰、熊野の山岳修験者・三瀧上人観空西念の創建によるという。千手観音を石窟中に安置したことに始まるという。同年、鳥羽上皇(第74代)により勅願所になる。上皇の帰依により、当初は三間四面の堂が建てられた。本堂、仁王門の造営も勅命により、造営奉行には藤原通憲入道信西、工事雑掌として安芸守・平清盛が任命された。上皇の勅願により、脇士の二童子付き不動明王、毘沙門天立像が奉納され、峰定寺、大悲山寺とも呼ばれたという。(寺伝)。太政大臣・藤原忠通(1097-1164)が久多荘の所領を寄進した。寺は修験者の行場であり、天台宗修験者の霊場になる。
 1156年、護法殿、五所明神、宝蔵、湯屋なども建てられた。
 1159年、平清盛は仏舎利、唐羅漢十六体を奉納している。
 鎌倉時代後期、衰微する。
 室町時代、鞍馬寺の末寺になる。
 1326年、鞍馬寺との間で本末争論になる。比叡山延暦寺と園城寺(三井寺)信徒間での峰定寺支配を巡る諍いも起きた。一時は本山修験宗聖護院派に属したともいう。
 南北朝時代、1350年、本堂(観音閣)が再建された。
 江戸時代、1676年、延宝年間(1673-1680)とも、第111代・後西上皇の勅により、聖護院宮道祐親王が元快に命じて再興したともいう。
 享保年間(1716-1736)、貴船成就院の元快により中興されたともいう。聖護院の支配下になり、修験道練行の道場になった。
 天保年間(1830-1844)、庫裡が焼失し、寺宝の多くが失われた。
◆三瀧上人観空西念 平安時代末期の天台宗の修験道・三瀧上人観空西念(生没年不詳)。武家の子に生まれた。25歳で剃髪し、聖になる。1156年、鳥羽法皇の危篤の際に、召し出される。妃・美福門院の戒師になる。平清盛も心服した。1154年、大悲山の石窟中に千手観音を安置し、峰定寺を創建したという。
◆鳥羽天皇 平安時代後期の第74代・鳥羽天皇(とば てんのう、1103-1156)。父は第73代・堀河天皇。生後間もなく母が没し、祖父・白河法皇(第72代)の下で養育された。生後7カ月で立太子、5歳で即位した。ただ実務は法皇が握る。1117年、法皇の養女・藤原璋子(待賢門院)が入内する。1123年、子の第75代・崇徳天皇に譲位するが、実権は法皇が握り続けた。法皇没後、1129年より、自らも院政を敷く。藤原得子(美福門院)を寵愛し、体仁親王(第76代・近衛天皇)を即位させた。崇徳天皇、近衛天皇、第77代・後白河天皇の3代28年に渡り実権を握る。1142年、東大寺戒壇院で受戒した。崇徳上皇を疎んじ、1156年、保元の乱の原因になる。
◆俊寛 平安時代末期の真言宗の僧・俊寛(しゅんかん、生没年不詳、1143?-1179?)。山城生 まれ。村上源氏源雅俊の孫、木寺法印寛雅の子。僧都となり、仁安年中(1166-1169)、法勝寺執行となる。1174年、八条院の御堂供養を行う。後白河 院の近習僧として仕えた。1177年、平家横暴に抗し、藤原成親、西光らと共に平氏打倒計画を企てるが失敗、清盛によって捕らわれる。薩摩国・硫黄島に配流 され没した。(鹿ヶ谷事件)。
 その際に、俊寛と妻子は一時、峰定寺境内に隠れ住んだという。潜んだという岩穴「獅子岩」も境内に残されている。一家は3年余り暮らし、冬の寒さのために妻と男児が近くの「なめら谷」(僧都谷)で亡くなった。生き残った娘は、奈良の寺に預けられたという。(『源平盛衰記』『平家物語』)。僧都もついに都に還ることはかなわず、流された島で亡くなった。その後、この地の人々が供養を行い、峰定寺に、宝篋印塔(俊寛僧都塔)が立てられた。
◆仏像 本堂の本尊「十一面千手観音坐像」(57㎝)は平安時代後期作で、創建当初から安置されているという。光背は宝相華文様を透彫している。台座も残る。金銅製。
 「十一面千手観音坐像」(31.5㎝)(重文)は、平安時代後期、1154年の作になる。鳥羽法皇(第74代)の念持仏という。藤原期後期の名品とされ、院派仏師の作によるとみられる。美仏で穏やかな表情を見せる。白木の表面に截金文様を張り付ける。業平菱繋に菊花団花文が施されている。材は貴重な南方産の白檀製であり、西海貿易によりもたらされた。光背は舟形金銅板に透彫金銅宝相華唐草文、台座に宝相華文を施す。木造、素地、截金。
 「金剛力士立像」(重文)の「阿形」(266㎝)、「吽形」(270㎝)は、平安時代、1163年の作による。かつて、仁王門に安置されていた。像内銘により平貞能母尼、沙弥生面が願主になり京都の仏師僧・良元が造像した。木造。
 「不動明王像」(52.7㎝)(重文)は、平安時代、1154年作になる。青不動で右手に剣、左手に羂索を持つ。腰衣に珍しい流水文がある。「二童子立像」(重文)は、向かって左の「制吁迦童子」(25.9㎝)の腰衣に立涌文、向かって右の「矜羯羅童子」(25.8㎝)の腰衣に巴文、腰衣上に花喰文など珍しい截金文様を施す。3尊は鳥羽法皇の御願いにより造立され、千手観音像の脇侍像として寄進された。木造、彩色、截金。奈良国立博物館寄託。
 「釈迦如来立像」(50㎝)(重文)は、鎌倉時代、1199年、南都の僧により造られた。胎内に興福寺光明院の僧・覚遍の墨書願文のある水晶舎利塔、経典、結縁文(笠置寺貞慶の願文、木の葉の願文)などが納められていた。
 「毘沙門天立像」(50㎝)(重文)は、平安時代後期作、木造、彩色、截金、玉眼。
 本堂に懸仏、扁額などを掲げている。
◆建築 山麓より山にかけて、総門、仁王門、庫裏、書院、宝物庫、鐘楼、本堂、八大竜王、行者堂、蔵王堂などが建つ。山中の参道の石段の数は423段ある。『発句経』中の詩の数と同じになる。
 
「仁王門」(附棟札8枚)(重文)は、平安時代、1159年に建立された。南北朝時代、貞和年間(1345-1350)に修理が行われている。平安時代、後白河上皇(第77代)筆による「大悲山発心門」の額が掛かる。和様、三間一戸、単層の八脚門、入母屋造、杮(こけら)葺。
 「本堂(観音閣)」(附棟札7枚)(重文)は、峰付近の標高550mの崖に張り出して建てられている。平安時代、1154年に建立された。その後、鎌倉時代、1350年に再建される。日本最古の舞台造(舞台懸崖造り)になる。清水寺舞台の原型になったともいう。内部は1間通化粧屋根裏、内陣は鏡天井。堂内内陣須弥檀(重文)は唐様。木造、桁行5間、梁行5間。一重(単層)、寄棟造、入母屋造、杮(こけら)葺。
 「供水所」は、本堂北東隅にある。平安時代、1154年の建立という。仏前に供える水汲み場である阿迦井屋(あかいや)としては日本国内最古とされる。今も水が絶えない。方一間、一重(単層)、向唐破風造、板葺、大仏様系双斗。
◆文化財 「草花文磬(くさばなもんけい )」(重文)は、平安時代、1154年作による。
 「銅鐘」は、鎌倉時代、1296年作による。刻銘によれば、当初は阿波国・金剛光寺にあり、室町時代、1465年、河内国・広隆寺に移された。1466年、当寺に移された。
 木製「礼盤」は平安時代作による。
◆石造物 峰定寺境内の鐘楼の上段の地に、俊寛僧都にまつわる宝篋印塔(俊寛僧都塔)が立つ。室町時代作ともいう。
 「曹洞宗大本山総持神社獨法第一世 勅特賜 弘済慈徳禅師 梅崖英堂 大和尚山居御勝独之地」の碑が立つ。近代の曹洞宗の僧・諸岳奕堂(?-1879)は。名古屋に生れた。号は梅崖など。9歳で愛知郡聖応寺雪堂暁林について得度、後霊若寺雲麟、黄竜寺道契、岐阜竜泰寺来応などに学ぶ。香積寺風外本高より印可を受けた。山科・大空寺住職、前橋・竜雲院、金沢・天徳院へ移る。永平寺・総持寺両本山の争いを終結させ総持寺独住第一世になる。弘済慈徳禅師と賜号された。
◆奇岩 山は行場であり、山頂付近に「鏡岩」、「獅子岩」、「蟻の戸渡り」、「鏡掛岩」、「両界窟」、「大蛇杉」などの奇岩怪石がある。
 「乳岩」は、寺谷川の東800mほどの山中にある。鍾乳石であり、乳房のような形の岩先から水が滴る。授乳に霊験あるとされた。
◆自然 境内周辺には豊かな自然が残されており、1985年に「京都府歴史的自然環境保全地域」(24.3ha)に指定されている。地質は丹波帯秩父古生層であり、硬いチャートの岩峰になる。1997年の京都府「京都の自然200選 歴史的自然環境部門」に「花背大悲山」として選定された。
 この地の夏の平均気温は22℃、冬は1℃になる。冬季には豪雪地帯になり、かつては旧暦2月頃の京中の風雪を「大悲山荒」と呼んだという。
 山門前にコウヤマキの大木がある。参道の大杉は京都市の銘木200選に指定されている。
 寺谷川の対岸に、ご神木の「三本杉(大悲山の三本杉)」が立つ。1本の根元から3本の巨木の幹が出ている。京都市の巨樹名木に指定されている。2000年、林野庁の「森の巨人たち100選」にも選ばれた。「花背の三本スギ」として1997年に京都府の「京都の自然200選」にも選ばれている。高さ60m(35mとも)、幹周13.6m/17.8mとしており、府内最大級という。石積と谷川に接する地にあり、土壌はやや湿った森林褐色土に根を張る。
 周囲にスギの人工林、トチノキ、カツラ、チドリノキ、キブシ、地床にツリフネソウ、アキギリが見られる。
 一帯は、モミ、ツガ、スギ、ヒノキ、ヒメコマツなどの針葉樹林と、ミズナラ、クリ、カエデ、アカシデなどの落葉広葉樹林が混交した森になる。春(4月-5月)にはホンシャクナゲ、秋は紅葉でも知られている。そのほか、タムシバ、ミヤマカタバミ、ベニドウダン、ホオノキ、タニウツギ、コアジサイ、ミカエリソウ、アケボノソウ、ヒカゲツツジ、シダ類など貴重な植生も見られる。
 鳥類はミソサザイ、ウグイス、オオルリ、ツツドリ、ホトトギス、コゲラ、アカゲラ、アオゲラ、カケス、キセキレイ、カワガラス、シジュウカラ、エナガ、ヤマガラなどが見られる。哺乳動物は、ホンシュウジカ、ノウサギ、イノシシ、ホンドタヌキ、ホンドキツネ、ニホンカモシカ、ニホンザル、ツキノワグマなどが生息する。
 寺谷川には、魚類のアマゴ、アブラハヤ、アユ、両生類のオオサンショウウオ、シュレーゲルアオガエル、モリアオガエル、昆虫のカゲロウ、カワラゲ、ヘビトンボ、アミカの仲間などが見られる。ほかにもクロカワゲラ、ウスバシロチョウ、ミヤマカラスアゲハ、ヒグラシ、エゾゼミ、ミンミンゼミ、カワトンボ、オニヤンマ、ノシメトンボ、アキアカネ、ナツアカネなどがいる。
◆三本杉の伝承 境内の三本杉には伝承が残る。かつてある樵が大杉を伐り倒そうとした。半分まで伐り、日が暮れたためその日は家に帰った。翌日、再び伐り出そうとすると、昨日伐った筈の大杉の切口が元通りになっていた。仕方なく、改めて伐り始めたが、その日も半分までしか伐ることができなかった。翌日も同じことが続き、半分だけ伐りかけて家に帰った。このようなことが3日間続いた。 
 その後、樵は原因不明の病に罹り急逝した。人々はこの三本杉の大木をご神木と信じ、以後今日まで、大切に守り続けているのだという。
◆寺谷川 寺谷川は、保津川の支流で、平安時代-昭和初期まで、丹波材の伐り出し地になっていた。9月半-翌年の5月半頃、杉、檜のほか、松、楓などの木材が筏(2間の材×12本)に組まれ、京都まで木流しで運ばれていた。川の水量が不足すると、堰が造られ、水を溜めた後に堰を切って流した。
◆花暦 シャクナゲ、紅葉が見られる。 
◆年間行事 冬季閉山(1月-3月)、春の収蔵庫特別拝観(5月3日の前後3日間)、本尊開帳採燈大護摩供(9月17日)、秋の収蔵庫特別拝観(11月3日の前後3日間)。
 

「上皇」は皇位を退いた天皇の尊称。「法皇」は出家した上皇。
*仁王門内の写真撮影(携帯も不可)、飲食物の持ち込み、参道以外の山中への立入りも禁止。20人以上の団体、子供の入山禁止。冬季(1月-3月)、雨天の拝観も中止。
*京都市内からバス1時間40分。バス停から寺までは徒歩30分。

*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都を歩く 13 鞍馬』『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都大事典』『京都の寺社505を歩く 上』『仏像』『京都の仏像』『京都仏像を訪ねる旅』『日本美術全集 7 浄土教の美術』『社寺』『京都府の歴史散歩 中』『京都 神社と寺院の森』


                鞍馬寺       延暦寺・東塔(大津市)      聖護院       鹿谷山荘遺址碑        

手水舎

仁王門(重文)

仁王門

仁王門

仁王門

仁王門

ムラサキシキブ

門前橋、天皇行幸の際にのみ使用したという。

門前橋

仁王門脇にあるアベマキの巨木、樹齢250年ともいう。春には門前のホンシャクナゲも開花する。

庫裏

収蔵庫

周辺の峰

三本杉へ向かう旧参道

三本杉、三本の杉の巨木が立つ。威容は鼎立するかのよう。
境内からは谷川沿いの山道を徒歩で片道約30分かかる。

三本杉、白鷹龍王

三本杉途中の林道
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