法住寺・後白河天皇法住寺陵 (京都市東山区)
Hoju-ji Temple
法住寺 法住寺
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大瓶束






「親鸞聖人御木像」







「法住寺殿蹟」の石標


「旧御陵正門」の石標


「あそびをせんとやうまれけん」「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子どもの声きけば、我が身さえこそ動がるれ。舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。」(『梁塵秘抄』)




ウメ
 法住寺(ほうじゅうじ)は、三十三間堂の東隣にあり、後白河法皇ゆかりの寺として知られる。後白河天皇法住寺陵は、境内の北、東に隣接しており、近代以前は御陵を守る寺とされていた。  
 天台宗、本尊は不動明王。
◆歴史年表 平安時代、1192年、後白河法皇が亡くなり、焼失した法住寺殿の敷地に法住寺法華堂が建てられ葬られる。その後、再建されるが荒廃する。
 鎌倉時代、建春門院の法華堂、その南に後白河上皇の法華堂が建てられていた。 
 江戸時代
、1621年、妙法院門跡の「院家」になる。後白河天皇の御陵(法華堂)を守護するために現在の法住寺が創建された。法住寺殿跡地に因み寺名とした。
 元禄期(1688-1703)、山科に潜んでいた大石内蔵助が法住寺の不動明王を参拝したという。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、後白河天皇陵、法親王御陵が宮内省所管に移る。寺は、「大興徳院(大興院)」と改称する。仏光寺(東山渋谷)より親鸞ゆかりとされる阿弥陀如来像、親鸞聖人坐像(そば喰いの像)が当寺に遷される。
 現代、1955年、寺号を大興徳院より旧号の「法住寺」に戻す。
 1960年、法住寺陵法華堂の大修理に伴い、耐火性新厨子が製作された。江戸時代初期作の旧尊像厨子が当寺に贈られる。
 1965年、法住寺殿跡の発掘調査が行われた。
 1976年、1977年、発掘調査が行われた。
 1991年、後白河法皇木像が新造され、厨子内に納められる。
◆後白河天皇 平安時代後期の第77代・後白河天皇(ごしらかわ てんのう、1127-1192)。第74代・鳥羽天皇の第4皇子。母は藤原璋子。1155年、異母弟の第76代・近衛天皇の死により即位する。1156年、保元の乱、1159年、平治の乱後、源平対立の中で王力を維持した。1158年、第78代・二条天皇に譲位し、六条、高倉、安徳、後鳥羽天皇の5代の歴代天皇に対して30年に渡り院政をしく。1169年、園城寺前大僧正・正覚を戒師として出家する。園城寺長吏・覚忠により受戒し、法名行眞と称した。『梁塵秘抄口伝集』(1169)を撰した。1170年、東大寺で改めて受戒した。1179年、平清盛の謀反により、院政を止め鳥羽殿に幽閉の身となる。1181年、高倉上皇没後、院政を再開する。1183年、法住寺合戦では、木曾義仲が法住寺殿を襲撃し、後白河法皇と後鳥羽天皇は六条西洞院の御所に幽閉される、この地で亡くなる。没後、法住寺法華堂に葬られる。
 遊女・乙前に今様を学ぶ。今様は、法住寺の広御所で披露された。さまざまな階層が参加した。
◆乙前 平安時代末期の女性芸能者・乙前(おとまえ、?- 1169~1177)。美濃国遊里の青墓宿、女傀儡師・目井の養女。12-13歳頃より目井と監物・源清経より今様を学ぶ。50歳を過ぎて都に上る。声美しく、今様で名が知れた。1158年、後白河天皇は信西入道(藤原通憲)を介し師弟の縁を結ぶ。御所内に部屋を用意された、法住寺近くに住んだともいう。天皇に今様を10数年にわたり伝授した。最晩年は五条尼とも呼ばれた。没後、後白河法皇は、今様で念じ毎日拝み、手厚く葬ったという。84歳。江国粟津(大津市)で討ち死にした。
◆健御前 平安時代-鎌倉時代の女官・健御前(けんごぜん、1157-?)。建春門院中納言、八条院中納言、健寿御前(けんじゅごぜん)。父は藤原俊成、母は藤原親忠の娘。定家の同腹姉。1168年、12歳で法住寺殿の建春門院(平滋子)に出仕、1176年、女院死去まで仕えた。前斎宮亮子の御所に出仕し、以仁王の姫宮を養育した。1180年、以仁王の挙兵により生家に戻される。1183年、美福門院、八条院に出仕、1195年、八条院の猶子で後鳥羽天皇皇女・昇子(春華門院)の養育係になる。1206年、出家。晩年に『たまきはる』(『建春門院中納言日記』)を著し、建春門院、八条院、春華門院の3女性を描く。小督とも親交を結んだ。
◆長谷川町子 近現代の漫画家・長谷川町子(はせがわ まちこ、1920-1992)。佐賀県生まれ。1932年、県立福岡高等女学校(福岡中央高校)入学、1933年、父死去。1934年、一家で上京する。山脇高等女学校に編入、漫画家・田河水泡に入門。1935年、『少女倶楽部』で「狸の面」を発表する。1936年、女学校を卒業し、水泡の内弟子となる。1939年、『国民新聞』で四コマ漫画連載。1944年、福岡に一家で疎開し、西日本新聞社に入社、1945年、新聞社を退社した。1946年、『夕刊フクニチ』で「サザエさん」連載。1957年、『サンデー毎日』より「エプロンおばさん」連載。1962年、第8回文藝春秋漫画賞を受賞。1974年、『朝日新聞』朝刊で「サザエさん」連載終了。1985年、長谷川美術館開館(のちに長谷川町子美術館)する。1991年、第20回日本漫画家協会賞・文部大臣賞受賞、1992年、没後、国民栄誉賞を受賞。『長谷川町子全集』(全33巻、別巻1)を著す。法住寺に遺骨が納められている。
◆仏像・木像 ◈「阿弥陀如来像」は、「聖人山刀(なた)作の如来像」と呼ばれている。親鸞(1173-1262)自刻とされる。比叡山西塔・聖光院門跡範宴として修行を重ねていた、平安時代末期の1191年、18歳の時の作という。背に其心(ごしん)という朱印が二つ押され、足に親鸞の花押が朱と墨で三字記されているという。
 像は比叡山延暦寺西塔の無量寿院に、本尊として安置したという。江戸時代、1834年、仏光寺の学頭・信暁が比叡山の女人禁足の地から仏光寺旧跡地(東山渋谷)に遷した。近代、1868年、当寺に遷された。この経緯について記した「無量寿院由来書」が伝わる。この時、天台宗学僧・羅渓慈本(1795-1869)が関わる。
 ◈「親鸞聖人蕎麦喰いの像(そばくい御真影、そばくいさん)」は、親鸞28歳の自刻の像という。
 鎌倉時代、1201年、親鸞は無量寿院より密かに比叡山を下り、100日間の六角堂参籠を行った。この時、同宿の僧が怪しみ、師に告げた。師(座主)は衆僧たちを集め、蕎麦を振舞う名目で、親鸞の所在を確かめようとした。すると、木像が留守の親鸞に代わり、蕎麦(団子状の物)を食べ終え、居留守の役を見事に果たしたという。
 後に東山渋谷の仏光寺に遷され、近代、1868年に、当時の住職・大仏天ゆう(示+右)(後に妙法院門跡)が妙法院宮(尊統法親王、1696-1711)の思し召しにより当寺に遷したという。
◆身代不動明王 本堂に安置されている「不動明王像(身代不動明王像)」は、平安時代の3代天台座主・慈覚大師(794-864)作という。後白河法皇の信仰篤く、念持仏だったという。1183年の法住寺合戦の際に、当時の天台座主・明雲(1115-1184)が木曽義仲の軍が放った矢に倒れた。法皇は無事であり、不動明王が明雲になり身代りになったとして落涙したという。
 元禄の頃、播州赤穂の浪士・大石内蔵助(1659-1703)が山科に隠棲中、山科街道より遊郭に通う道すがら、当寺の不動明王に討ち入りの祈願をした。当寺で謀議を持ったともいう。
 方除け不動として信仰されている。毎年11月15日に不動会が営まれる。
◆四十七士木像 江戸時代、元禄期(1688-1703)、山科に潜んでいた大石内蔵助が法住寺の不動明王を参拝していたという。また、妙法院院家であることから、宮方を通じて公儀の情勢を伺っていたともいう。当寺で同志との連絡を取り、会合も開いていたともいう。1702年、四十七士は本所の吉良上野介邸に討ち入りを果たした。
 当寺には、大石内蔵助以下四十七士の木像が祀られている。全員が揃った木像は他に例がないという。12月14日に義士会法要が行われている。
◆法住寺殿 平安時代、1158年、後白河上皇(第77代)は、皇子・第78代・二条天皇に譲位し、1161年、院御所法住寺殿を建立し移り住んだ。建設に際して周辺の堂舎など80あまりを打ち壊したという。この地は、東海道・東山道、大和街道に通じ、平氏の六波羅の南にあり重要な位置になる。当初は院御所であり、後に院政の中心地として機能した。
 範囲は、東は法輪寺(今熊野観音)の旧域を除く東山山麓、西は大和大路(鴨川)、北は七条通(七条坊門小路末)北、南は八条通(八条大路末)にいたる10町(東西0.6km、南北1.1km)あまりの広大なものだった。現在、法住寺殿遺構は三十三間堂と後白河天皇陵しかない。
 地区割りがされており、院御所、寺院などが建てられていた。七条大路末の北に法住寺北殿、南に法住寺南殿、その南に蓮華王院、南の園地の西に最勝光院があった。池に面して阿弥陀堂が建ち、僧房はなかった。また、園地の東には新熊野神社、北西に新日吉神社が祀られていた。後に、蓮華王院に接し、上皇と建春門院の陵墓が造られている。
 平安時代、1161年、中心になる南殿(狭義の法住寺殿)は、平治の乱で敗れた藤原通憲の邸宅跡に、藤原信頼の邸を移し、その後改造された。西殿、北殿(上御所、下御所)の三御所があり、南殿は宗教的な施設になっていた。南殿には上皇の住居とともに、東小御堂、不動堂、千手堂が建ち並び、広大な池もあった。1167年に南殿は拡張されている。北殿は政治的な施設が置かれた。二条天皇を初めとして、高倉天皇などの朝覲行幸が行われている。高倉天皇中宮平徳子(建礼門院)の入内も当御所からだった。
 1183年、木曽義仲の軍により南殿は焼失する。
◆今様 今様は平安時代中期から鎌倉時代に宮廷で流行した長い節回しの歌謡をいう。それまでの神楽歌・催馬楽・風俗歌に代わる最新の流行り歌謡だった。主に七五調四句の形をとり扇や鼓で拍子を取り、楽器演奏、即興、替え歌などもあった。そのほか、仏教歌謡、神事歌謡・民間歌謡長歌などの影響もうけ多くの種類があった。
 後白河法皇は今様に関心を示し、後世へ伝えるために、これらを集成して『梁塵秘抄』を著した。今様の伝え手は、遊女、人形使いや曲芸を生業女傀儡女(くぐつめ)・白拍子(しらびょうし)だった。
 1986年以来、日本今様歌舞楽会(代表・石原さつき)により、今様歌合が再現された。
◆建築 山門屋根の鬼瓦は、口下のヒレ部分が長く、下部は内に巻く特異な形になっている。
◆墓 近代以前は、後白河天皇陵、妙法院歴代門跡法親王の墓は、当寺境内にあり、寺でその守護を続けていた。近代以後、それらは宮内省所管に移る。  
 漫画家・長谷川町子の墓がある。
◆修行体験 写経(毎日9:00-15:00、随時)、写経・精進料理は10人以上から。写経・法話(第3日曜日 10:00-12:00)、護摩炊き・法話(毎月28日、10:00-14:00)。
◆年間行事 修正会・新春護摩祈祷会(1月1日-7日)、無病息災大根炊き(1月15日に近い日曜日)、初不動縁日(力こんにゃく、力餅の供養)(1月28日)、節分会(10時に甘酒供養、0時半より餅つき・ぜんざい供養、13時30分に鬼法楽・撒豆式、14時に厄除開運、星供採灯大護摩供、厄除け札、福豆授与、長寿笹酒供養。)(2月3日)、涅槃会(松村景文作の大涅槃図を掛ける)(3月15日)、春彼岸会(3月21日、前後一週間)、花まつり(4月8日)、春の大祭(不動明王との結縁護摩)(4月28日)、後白河上皇木像開扉公開(5月1日-7日)、後白河院御聖忌法要(5月3日)、盂蘭盆会(8月13日-16日)、秋彼岸会(9月23日前後一週間)、今様歌合せ(日本今様歌舞楽会の奉仕)(10月第2日曜日)、身代不動尊大祭(採灯護摩供養、舞楽奉納)(島原太夫のかしの式、山伏問答の後、護摩火のまわりで天狗、赤鬼、青鬼、黒鬼が踊る。)(11月15日)、義士会法要(法要、献茶式、討入そば接待)(12月14日)、終い弘法(12月28日)。
 写経・精進料理(毎日、行事日などを除く)。


*「上皇」は、皇位を退いた天皇の尊称。「法皇」は出家した上皇。
*建物内の撮影禁止
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*参考文献 『天台宗 法住寺』『京都・山城寺院神社大事典』『旧版 古寺巡礼 京都 14 妙法院/三十三間堂』『京都府の歴史散歩 中』『平安の都』『院政期の京都 白河と鳥羽』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『続・京都史跡事典』『京都大事典』『稲荷信仰と宗教民俗』『京都・美のこころ』『おんなの史跡を歩く』『洛中洛外』『古都歩きの愉しみ』『あなたの知らない京都府の歴史』



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本堂
 
前庭

十三重塔

百度石
 
阿弥陀堂

絵馬

阿弥陀堂

「照于一隅」

ウメ

阿弥陀堂

阿弥陀堂東の庭園

中庭

豊川陀枳尼天、厳島弁財天白峰弁財天、竹男大龍神、毘沙門天王、護法魔王尊を祀る。修験、寺鎮守稲荷、水神稲荷になる。商売繁盛の信仰がある。

福寿観音

地蔵尊
後白河天皇陵

「後白河天皇陵 参道」の石標、境内北、東に隣接している。


後白河天皇法住寺陵、法華堂が建つ。建春門院の法華堂は今はない。御陵前には「法住寺」と書かれた江戸時代の手水鉢がある。寺の創建時にあった井水「桐の井」という井戸も残されている。

井戸跡

御陵より三重三間堂を見る。
 法住寺 〒605-0941 京都市東山区法住寺三十三間堂廻り町655   075-561-4137
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