天龍寺 (天竜寺) (京都市右京区) 
Tenryu-ji Temple 
天龍寺 天龍寺
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勅使門




総門


中門(ちゅうもん)





方丈池、初夏、蓮が咲く。池は、泮池といわれる左右対称のもので、反りのある桁行形式の石橋が架かる。俗世から聖地に入る境界を意味する。


法堂


法堂


法堂






庫裏



庫裏、屋根には煙出し櫓がある。


庫裏




庫裏、「達磨図」、平田精耕(1924-2008)筆


庫裏、韋駄天


鬼瓦


唐門


大方丈


大方丈、扁額「方丈」、241世・関牧翁筆。


大方丈


大方丈




大方丈、南画家・若狭物外(1887-1957)「龍雲図」。


大方丈、菊華の釘隠し


曹源池庭園


曹源池庭園


曹源池庭園






曹源池庭園、池中にある三尊石、右の立石の釈迦牟尼仏、左奥の低い立石の普賢菩薩、手前にある横石の文殊菩薩。また、仙人が住する蓬莱山ともいう。


曹源池庭園石橋は3枚の板石により、現在、過去、未来の三世を表すという。縦組みの石組に対して水平方向の変化をつけている。池中にあるのは5つの夜泊石。




曹源池庭園






曹源池庭園、嵐山




曹源池庭園






方丈東

 天龍寺 (てんりゅうじ)は、境内10万㎡を有する。日本で最初に史跡・特別名勝に指定された。山号は霊亀山(れいきさん)といい、百人一首の小倉山別称の亀山に由来する。正式には天龍資聖禅寺(てんりゅうし しょうぜんじ)という。  
 臨済宗天龍寺派の大本山。本尊は釈迦如来。
 かつて京都五山の第一位。1994年に、「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録されている。
◆歴史年表 平安時代、初期、承和年間(834-848)、この地には、第52代・嵯峨天皇皇后・橘嘉智子(檀林皇后)により建立された日本初の禅寺・壇林寺があった。
 その後、第60代・醍醐天皇皇子・前中書王兼明親王(さきのちゅうしょおう かねあきらしんのう、914-987)の亀山の山荘が営まれている。
 第66代・一条天皇(在位986-10116)の頃、荒廃した。
 鎌倉時代、1255年、建長年間(1249-1256)とも、第88代・後嵯峨上皇により、仙洞御所(仙洞亀山殿、嵯峨殿)が営まれた。権大納言・西園寺実雄が造営の指揮をとる。広大な土地を有し、北は野宮神社、南は大堰川にまで及んだ。(『古今著聞集』巻8)
 亀山上皇(第90代、1249-1305、在位1259-1274)の離宮「亀山殿」が建てられる。第96代・後醍醐天皇(1288-1339)は、幼少期をこの地で過ごした。
 南北朝時代、1335年、第96代・南朝初代・後醍醐天皇は、亀山殿内に臨川寺を建立し、開山に夢窓疎石を迎えた。
 1338年、後醍醐天皇の没後、足利尊氏は、夢窓疎石の勧めにより天皇の菩提を弔うために、亀山殿の地を新寺の建立地とする。
 1339年、光厳上皇(北朝初代)による院宣が下される。(「天龍寺重要目録」)。夢窓を開山、尊氏を開基として、勅願寺が創建された。当初は元号により、「暦応資聖(ししょう)禅寺」と称した。夢窓が住持を辞し、等持院主・古先印元を大勧進とし、都寺妙了と共に住持代行する。尊氏は荘園を寄進した。
 1340年、仏殿、法堂、僧堂、庫裏、三門の造営工事が始まる。(『造営記』)。造営料所として尊氏の日向国、阿波などの庄を寄進、光厳上皇は丹波弓削庄地頭職を寄進する。
 1341年、夢窓が住持に復する。尊氏、夢窓も普請に加わり、芝土籠に土を入れ御堂へ運ぶ。寺号「暦応資聖禅寺」について、比叡山延暦寺などの反発により、直義が見たという大堰川から天に昇る金龍の夢(瑞夢)により、「天龍資聖禅寺」に改められた。直義により造天龍寺宋船(天龍寺船)2隻の元王朝派遣の許可が下りる。直義は、天龍寺を五山十刹位第2位とした。
 1342年、寺の造営費捻出のために、夢窓により、元へ貿易船、造天龍寺宋船(天龍寺船)が派遣される。国内に元の文物が持ち込まれ、莫大な利益をもたらす。法堂上棟、三門立柱し尊氏、直義が参詣する。
 1343年、仏殿、法堂、土地堂、祖師堂、方丈、書院、庫裏、三門、外門、総門、鐘楼など70あまりの伽藍が完成する。(『造営記』)。天龍寺船が帰港した。
 1344年、後醍醐天皇の霊廟が完成する。(『天龍紀年考略』)。北朝初代・光厳天皇が行幸する。
 1345年、仏殿、法堂が完成し、後醍醐天皇の七回忌に、開堂法要が執り行われた。落慶法要は、夢窓が導師を務めた。尊氏、直義、守護大名など多数が参加した盛大なものになる。光厳上皇の臨幸供養は、延暦寺衆徒の延暦寺、東大寺以外の臨幸供養は認められないとした強訴により取り止めになり、翌日の御幸になる。尊氏、直義も法会に加わる。(『太平記』『園太暦』『帥卿記』)。北朝第2代・光明天皇が入山する。夢窓により庭園が完成した。当時の境内は、東は釈迦堂、西は亀山、南は嵐山、北は法金剛院に及び、36町を有していた。 
 1346年、夢窓が天龍寺十境を定める。仏徳を賛美する韻文・頌(じゆ)を作る。光厳上皇が臨幸した。夢窓は雲居庵に退隠する。
 1347年、光厳上皇が臨幸する。
 1348年、輪蔵が完成した。
 1350年、光厳院、光明院が臨幸する。(『臨幸記』)
 1351年、僧堂が完成する。夢窓が再住、後醍醐天皇十三年忌仏事後、退院した。
 1356年、焼失する。
 1358年、多くの伽藍が焼失した。雲居塔、多宝院、亀頂塔、霊庇廟は焼失を免れた。(『空華日用工夫略集』)。龍山徳見を住持に再任、春屋妙葩が復興大勧進職に就く。(『園太暦』)。足利義詮は、天龍寺を京都五山の第二位とする。
 1359年、幕府は天龍寺再建のために、棟別銭を徴する。
 1360年、春屋妙葩は足利基氏の要請により、夢窓直弟子10人を鎌倉に遣わした。
 1363年、春屋は綸旨を得て入寺する。
 1364年、春屋は光厳上皇の寿塔金剛院を山内に営む。
 1367年、塔、塔頭以外は全焼する。(『太平記』)。相国寺開山の春屋により再興、修復されている。(「天龍寺文書」)。倭寇禁止を願い、来日した高麗の訪日使節団(代表・金竜)が雲居庵に滞留する。
 1373年、仏殿、法堂、僧堂、衆寮、東司、三門が焼失している。(『後鑑』)。明の太祖朱元璋が倭寇の取締の件で来日し、天龍寺に招かれる。
 1374年、再建が始まる。(『花営三代記』)
 1380年、東廊、文庫、庫裏が焼失した。春屋が再興する。(『空華日用工夫略集』)
 1382年、東廊、文庫、庫裏が再建される。春屋が再住する。
 1383年までに仏殿が再建になる。
 1386年、京都五山の第1位になる。最盛期には塔頭・子院150寺を数えた。
 1387年、2402石の寺納米、5721貫の銭貨を得る。
 室町時代、1394年、浴室、総門を焼失する。
 1401年、足利義満により相国寺と交替し五山第2位になる。
 1410年、京都五山第1位に復する。
 1419年、法界門を焼失した。
 1420年、朝鮮回札使・宋希環は宝幢寺で4代将軍・義持朝鮮国王書簡を手渡し、義持書簡を得る。(『老松堂日本行録』)
 1426年、100余の塔頭が描かれている。(『応永鈞命図』)
 1441年、徳政一揆は嵯峨、天龍寺放火を迫る。
 1443年、日本通信使書状官・申叔舟が、天龍寺、西芳寺を訪れた。(『保閑斎集』)
 1445年、焼失する。
 1447年、浴室、七堂を放火により焼失している。雲居庵は残る。(『臥雲日件録』)。
 1451年、遣明船10船のうち、3船が天龍寺船になる。
 1461年、幕府は勘合符を与え、僧堂造営費を朝鮮国に募る。
 1462年、勘合船に3船が天龍寺船になる。
 1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失した。
 1468年、西峨の乱により臨川寺とともに焼失した。(『碧山日録』)
 1523年、法堂のみ再建される。
 安土・桃山時代、1585年、豊臣秀吉は朱印状により寺領1720石を寄進した。法堂が上棟される。
 江戸時代、1604年、徳川家康は黒印状で寺領7020石を安堵する
 1615年、幕府により五山十刹諸山法度の規定を受ける。
 1734年、連環結制が始まる。五山持ち回りで、雨安居時に10名ずつの参加を得、結制(集団的坐禅)を行なった。
 1815年、法堂、方丈などを焼失する。その後、再建される。(『年中記録』)
 1864年、蛤御門の変(禁門の変)では、長州兵1000人が寺に籠もり、御所に向けて出陣した。その後、幕府軍・薩摩藩兵の探索により山内での収奪と砲撃が行われ、仏殿、庫裏、僧堂、塔頭などが損傷、焼失した。(『寿寧院日記』)
 1866年、臨川寺客殿を移して仮本堂とする。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈による混乱があった。衰微する。
 1870年、現在地、直作地以外は上知になる。
 1876年、臨済宗各派とともに独立し、天龍寺派の大本山になった。
 1877年、上地により寺領(嵐山、亀山、嵯峨)などの大半を失う。境内は10分の1(30ha)に減じている。
 1879年、朝廷より下賜金が下される。
 1894年、法堂を起工する。
 1899年、法堂、方丈、庫裏が再建される。
 1900年、仮法堂を書院(集瑞軒)とした。
 1924年、小方丈が再建になる。
 1934年、多宝殿、茶室「祥雲閣」、小間席「甘雨亭」が建立される。
 1941年、多宝殿奥殿、廊下が建立された。
 現代、1952年、27000坪(89256㎡)が譲渡される。
 1994年、「古都京都の文化財」として、「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録されている。
 2000年、龍門亭が建立された。
◆夢窓疎石 鎌倉時代-南北朝時代の臨済宗僧・夢窓疎石(むそう そせき、1275-1351)。伊勢国に生まれた。父は佐々木朝綱、母は平政村(北条政村?)の娘。1283年、市川・天台宗の平塩山寺・空阿大徳に師事、後に剃髪。1292年、奈良・東大寺の慈観につき受戒。平塩山寺・明真没後、建仁寺・無隠円範に禅宗を学ぶ。1295年、鎌倉に下向、東勝寺・無及徳栓、建長寺・韋航道然、1296年、円覚寺・桃渓徳悟、建長寺・痴鈍空性に参じた。1297年、建仁寺・無隠円範、1299年、建長寺・一山一寧のもとで首座、1303年、鎌倉・万寿寺の高峰顕日に禅を学び、1305年、浄智寺で印可を受ける。浄居寺開山。1311年、甲斐国牧丘の龍山庵、浄居寺に一時隠棲する。美濃国・虎渓山永保寺(古谿庵)を開き、北山、土佐、鎌倉、三浦、上総と移り、1325年、第96代・南朝初代・後醍醐天皇の請により上洛、南禅寺住持。1326年、北条高時に鎌倉・寿福寺の請を避け伊勢国・善応寺を開く。鎌倉・南芳庵に居し、1327年、瑞泉寺を開く。1329年、円覚寺に入り高時、北条貞顕の信を得る。1330年、甲斐・恵林寺を開き、1331年、瑞泉寺、1332年、恵林寺に移り、播磨・瑞光寺を開く。1333年、鎌倉幕府が滅亡、建武の新政を開始した後醍醐天皇に招かれ、1334年、南禅寺に再住、1336年、臨川寺・西芳寺開山に迎えられた。足利家の内紛の観応の擾乱で調停し、北朝方の公家や武士が帰依する。尊氏は後醍醐天皇らの菩提を弔うため、疎石の勧めで全国に安国寺を建立、利生塔を設置した。1339年、天龍寺開山。1342年、建設資金調達のため天龍寺船の派遣を献策した。1346年、雲居庵に退隠。1351年、天龍寺再住。最晩年は臨川寺・三会院(さんねいん)に移り亡くなった。
 夢窓国師・正覚国師など、歴代天皇より7度国師号を賜与され七朝帝師と称された。北条高時、後醍醐天皇、足利尊氏らの帰依を受け外護を得た。夢窓派としては、無極志玄、春屋妙葩など門下は13000人にのぼる。多くの作庭も行う。能書家としても知られた。
 夢窓疎石は、後醍醐天皇が亡くなる2カ月前に、僧形の天皇が乗り物に乗り、亀山宮に入る夢を見たという。1339年、天龍寺開山、1342年、建設資金調達のため天龍寺船の派遣を献策した。1345年、天龍寺庭園完成、雲居庵開創、1346年、天龍寺を辞したが、亡くなる1351年、再び再任されている。
◆天龍寺と足利氏、後醍醐天皇 天龍寺と後醍醐天皇、室町幕府、足利氏との関係は深い。夢窓国師(疎石)は、師・仏国国師没後、俗世にまみれることを避けた。だが、隠岐から京都に還った後醍醐天皇に請われ、足利尊氏を通じて京都に呼ばれている。後醍醐天皇は夢窓国師に南禅寺、臨川寺を与えた。
 天龍寺が建立されたのは、北朝方の室町幕府初代・足利尊氏が、北朝初代・光厳(こうごん)天皇の許可を受け、弟・直義とともに、南朝方の後醍醐天皇の菩提を弔うためのものだった。二人は、吉野で亡くなった後醍醐天皇の怨霊を恐れていたという。また、尊氏は天皇の政策には反したが、天皇個人を憎むことはなかったという。
 二人に鎮魂の新寺建立を進言したのは、幕府の宗教政策の顧問になった夢窓国師だった。夢窓国師は、夢に亡くなった後醍醐天皇が嵯峨・亀山に御幸する姿を見たという。戦乱の犠牲者の追悼のためにも、諸国に一つ、臨済宗の寺院を安国寺に指定する。利生塔(五重塔、三重塔)の建立も進言し、実現させ、臨済禅は影響力を増した。
◆後醍醐天皇 鎌倉時代-室町時代(南北朝時代)の第96代・南朝初代の後醍醐天皇(ごだいご てんのう、1288-1339)。第91代・後宇多天皇の第2子、母は談天門院藤原忠子。1302年、親王宣下。1304年、大宰帥、1308年、持明院統の花園天皇の皇太子に立つ。1318年、即位、1321年、親政を開始する。鎌倉幕府打倒計画、1324年、正中の変の失敗、引き続く倒幕計画、1331年、元弘の変の失敗により、京都を脱し笠置山に逃れた。1332年、隠岐島に流されたが脱し、1333年、挙兵、足利尊氏の協力により復権し、天皇中心の政治「建武の新政」を行った。1336年、新政に失望した尊氏は離反し、武家政治の再興を図る。天皇は、吉野朝廷(南朝)を開き、以後、二つの朝廷が並立する南北朝時代(1336-1392)になった。京都に戻ることなく吉野で亡くなる。 儀式典礼に詳しく、学問、和歌も好んだ。
◆足利尊氏 室町幕府初代将軍・足利尊氏(あしかが たかうじ、1305-1358)。足利高。源頼朝同族の名門の家に生まれた。第96代・後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕の元弘の乱(1331-1333)に対し、尊氏は討伐の幕命を受けるが、後に六波羅探題を急襲し、その後幕府は滅亡した。1333年、後醍醐天皇自ら政治を行った建武新政により尊氏は厚遇され、天皇の諱(尊治)の1字を与えられ尊氏と改名する。だが、天皇は尊氏を牽制もした。1335年、北条氏残党の鎌倉掃蕩を契機に天皇と対立、後醍醐軍との攻防の後、持明院統の豊仁親王(光明天皇)への譲位で天皇と和睦した。1336年、建武式目を制定し新幕府(室町幕府)を京都に開く。1338年、征夷大将軍となる。
 他方、天皇は吉野で南朝を開き、討幕を呼びかけた。幕内では、尊氏・高師直ら武将派と弟・直義らの官僚派との対立に、やがて南朝軍も加わる争乱になった。尊氏は畿内と周辺の鎮定をした。1341年、後醍醐天皇追善のために、暦応資聖禅寺(天龍寺)を建立した。背中の癰(腫物)により亡くなる。
◆春屋妙葩 鎌倉時代-南北朝時代の臨済宗の僧・春屋妙葩 (しゅんおく みょうは、1311-1388)。国師号は知覚普明など。七朝の国師と称され、7代の天皇に国師号を贈られた。甲斐の生まれ。夢窓疎石の甥、1322年、甲斐・慧林寺の道満につく。1325年、得度、1326年、南禅寺住持の夢窓のもとで登壇受戒。夢窓に従い鎌倉の浄智寺・瑞泉院(後の瑞泉寺)に移る。1327年より、鎌倉・浄智寺の元の渡来僧・竺仙梵僊に師事、鎌倉・円覚寺に赴く。1334年より、竺仙の書状侍者、1335年、京都の夢窓に参じた。1336年、南禅寺・元の渡来僧・清拙正澄に梵唄(声明)を学んだ。1345年、天龍寺・雲居庵主、夢窓により春屋の号を受け印可を得た。1357年、等持寺に住した。1351年、夢窓没後、無極志玄につき、1359年、その没後は同派領袖の一人となる。1363年、天龍寺に住した。1368年、南禅寺山門破却事件で延暦寺と対立、管領・細川頼之の裁定に反発し、強硬派の春屋一派は朝廷、幕府に抗議したため、春屋らは丹後・雲門寺に10年間隠棲する。1379年、頼之失脚後、天龍寺・雲居庵、南禅寺住持に戻り、足利義満の外護により禅宗最高要職・天下僧録司に任じられた。宝幢寺住持、寿塔を建て鹿王院と名付ける。1382年、天龍寺再住。1384年、義満創建の相国寺勧請開山を夢窓とし、自らは2世に就く。鹿王院で亡くなり、当院に葬られる。相国寺・大智院にも分葬された。
 『夢窓国師年譜』などを著す。五山版の祖録、外典など出版事業に業績を残した。
◆五山 五山は、京都五山・鎌倉五山と呼ばれ禅宗(臨済宗)の主要寺院をいう。
 五山制度はインドに由来し、中国では五山、その下に十刹、35か寺の諸山が置かれた。日本では鎌倉時代末に、当初は鎌倉五山として採り入れられた。南北朝時代に京都の寺院も入るようになる。1341年に5か寺の定めが崩れ、1386年以降は、京都五山が鎌倉五山より優位に立った。室町時代に官寺の制度として確立した。
 1410年以降、京都五山の第1位は天龍寺、第2位は相国寺、第3位は建仁寺、第4位は東福寺、第5位は万寿寺、五山の「上」に南禅寺が置かれた。
 天龍寺は、寺が完成する前の1341年に京都五山の第2位、1358年に第2位、1386年には第1位になった。その後、1401年に第2位、1410年には再び第1位になる。
◆天龍寺船  室町時代、足利尊氏、光厳上皇は、天龍寺造営資金として土地の寄進をした。それでも資金不足だったため、尊氏の弟で副将軍の直義と疎石は、モンゴルの来襲(元寇、1274、1281)以来絶えていた元貿易を再開させた。1342年、幕府公認の「造天龍寺宋船」が派遣され、留学の禅僧も乗船している。
 疎石は、博多の商人・至本を綱司とし、交易の成否にかかわらず、一渡航につき五千貫文を天龍寺に納めさせ、寺の造営資金に充てた。幕府は、船を海賊などから保護する責任を負った。
◆仏像・木像 大方丈仏間に、平安時代作の本尊「釈迦如来坐像」(重文)(88.5㎝)を安置する。木造、漆箔、現在は素地。また、秘仏の「聖(しょう)観世音菩薩立像」(重文)を安置する。一面二臂、かつては薬師如来脇侍、月光菩薩とみられている。
 法堂中央須弥壇上に、「釈迦三尊」、「釈迦如来坐像」、「文殊菩薩坐像」、「普賢菩薩坐像」、南北朝時代の「夢窓疎石像」(重文)、室町時代作の「足利尊氏像」、「光厳上皇位牌」などを安置している。
 多宝殿に「後醍醐天皇像」が安置されている。
◆建築 伽藍配置は、鎌倉建長寺を踏襲し、東を正面として西へ縦長に配置されている。東より、総門、中門・勅使門、放生池、法堂、唐門、大方丈が建つ。
 「勅使門」は、安土・桃山時代-江戸時代の慶長期(1596-1615)の建立による。山内最古の建物になる。1641年に御所・明照院禁門より移築したという。伏見城遺構ともされた。切妻造、四脚門、本瓦葺。
 「中門(ちゅうもん)」は、安土・桃山時代-江戸時代の慶長期(1596-1615)の建立で、親柱が棟木を受ける禅宗様になっている。切妻造、四脚門、禅宗様、本瓦葺、練塀、。
 「法堂(はっとう)」は、江戸時代中期(後期とも)に建てられたという。旧座禅堂(雲居庵、選仏場)が近代に移築された。正面扉上に掲げられている「選仏場(せんぶつじょう)」とは、僧堂を意味している。堂内床はせん敷。5間4面、単層、寄棟造、桟瓦葺。
 「大方丈」は、江戸時代末の1864年に兵火で焼失した。近代、1899年に再建された。境内で最大の建物になる。正面、背面に広縁、落縁。6間取りの方丈形式、室中は48畳。正面30m、奥行き20m、入母屋造、桟瓦葺。
 書院の「小方丈」は、1924年に建立された。
 「多宝殿」は、1934年に建立された。吉野朝の紫宸殿を模して建てられている。かつて亀山上皇の離宮が営まれ、後醍醐天皇の学問所があった。拝堂は合いの間を通して祠堂と繋がる。後醍醐天皇像、歴代天皇の尊牌が安置されている。宿敵・足利尊氏像のある法堂とは150m離れている。正面に1間の向拝付、広縁、拝殿は半蔀。入母屋造、檜皮葺。
 
「庫裏」は、1899年に建立された。屋根には煙出し櫓がある。切妻造。
 総鎮守社「八幡社」は、八万大菩薩を祀る。かつて亀山山頂に祀られていた。天龍寺十境のひとつ霊庇廟(れいひびょう)と呼ばれ、南北朝時代、1344年に夢窓国師の霊夢により八幡宮として建立される。1875年に現在地に遷された。1937年に増改築された。
◆文化財 天龍寺では、宋、元などの禅宗に関する復刻本「五山版」を出版してきた。南北朝時代に最も出版され、「天龍寺板」「臨川板」と呼ばれた。「夢窓国師語録」3巻(1365年)、「虎丘語録」1巻(1394年)など数多い。
 南北朝時代の「不動明王像」(重文)、南北朝時代の「北畠親房消息」(重文)、中国渡来の元時代の「観世音菩薩像」(重文)、南宋時代の馬遠筆という「雲門大師像・清涼法眼禅師」(重文)、南北朝時代の「北畠親房消息」(重文)、明時代の「花鳥図」、元時代の「葡萄図」、塔頭妙智院に無等周位筆の絹本著色「夢窓国師像」(重文)など。
 夢窓国師筆「謝宋船綱司上堂語」。夢窓国師筆木額「篩月」。14世紀後半作とみられる「夢窓国師像」は、曲ろくに坐し、法印を結ぶ。 
 木像の坐像「後醍醐天皇像」「足利尊氏像」。
 南北朝時代の夢窓疎石遺愛の硯石は、1467年に遣明船で明に献上されたものが何らかの理由により持ち帰られたものという。
 亀山天皇筆「三首の御詠」。
 1426年、月渓中珊作という「応永鈞命絵図」(重文)は、寺領を書き記している。1207年「嵯峨遮那院御領絵図」(重文)は臨川寺の前身とみられている。
 天龍寺船が中国より持ち帰った「天龍寺青磁」。
 法堂天井に描かれている現代の日本画家・加山又造(1927-2004)の「雲龍図」(1997年)は、白土の杉板に「八方睨みの龍」が描かれている。龍を見上げ円を描いて回ると、どの方角からも睨んでいるように見える。円相は直径9m。杉板159枚分ある。それ以前には、1899年作の鈴木松年(1848-1918)の雲龍図が描かれていた。天龍図は、龍が水を司る神であることから、仏法を守護し、修行僧に法雨、仏法の教えを降し、また、寺を火災から守るという意味もあった。室町時代、東福寺法堂に、画僧・兆殿司(明兆、1352-1431)が蟠龍図を描いたのが日本の初例といわれている。
 大方丈には南画家・若狭物外(わかさ もつがい、1887-1957)の障壁画「龍雲図」がある。1957年作。龍は仏法守護神になっている。
 禅堂本尊の文殊菩薩前に鉄製の立ち上がる「香炉」がある。
◆庭園 大方丈西にある曹源池庭園は池泉廻遊式であり、1200坪(4000㎡)の広さを占めている。室町時代、開山・夢窓国師(疎石)の最晩年の作庭といわれている。夢窓国師にとって作庭は、修行の一つになっていた。平安時代この地には、第60代・醍醐天皇皇子・前中書王兼明親王の亀山の山荘があり、その池泉が庭の原型とされている。それを改修したともいわれている。庭は、第96代・南朝初代・後醍醐天皇の鎮魂の意味を含んでいるともいう。
 庭の名の由来は、禅語「曹源の一滴水」により、正しい源から流れ出る真実の禅、すべての源という意味があるという。庭は、史跡特別名勝として第一号指定されている。
 庭園が境内の西に位置するのも、西方浄土の方角を意味している。大方丈前には白砂、その先に曹源池(心字池)がある。亀山を背後にし、呼応して池は亀の形をしているという。池泉の中央に中島が造られていない。正面に「岩島(鶴島)」、北(右手)に「亀島」があり、亀の頭になる。中央に滝石組(龍門瀑)、石橋が架かる。滝組からは、江戸時代には掛樋により水を落していた。背後の谷を隔てた亀山の山裾に湧水地があるという。なおこの地点より、「曹源の一滴水」と刻んだ石が出土している。これらの鶴石、亀石は神仙思想の、長寿延年を意味している。
 池の中央奥にある三段の「滝組(龍門瀑)」は、最も上に「遠山石(観音石)」、中ほどに「鯉魚石(りぎょせき)」、下に「水落石」を立てる。その左に「碧巌石」がある。鯉はすでに下段を昇り切り中段に向っている。これらの枯滝石組、鯉魚石は、中国黄河中流域にある龍門瀑の故事に由来する。龍門瀑は流れが激しく、滝を昇りきった鯉は天に昇り龍になるといわれた。禅ではそれにたとえ、厳しい修行の後に悟りを開き、仏になる戒めとした。南宋からの渡来僧・鎌倉建長寺の蘭渓道隆(1213-1278)が日本に伝えたといわれている。滝の左方には坐禅石が据えられている。
 夢窓により据えられた三枚の自然石(青石、緑泥片岩)の橋は、現存最古とされ、その後の庭園作庭に影響を与えた。石は、禅修業に必要な師、環境、本人の意志を表しているという。立石(垂直方向)の石組のなかで、橋は横(水平方向)の石組であり、全体の構図を安定させる意味も持っている。
 龍門瀑の右手にある鶴島に、三尊形式の「岩島(中心の立石の釈迦牟尼仏、低い立石の普賢菩薩、横石の文殊菩薩)」がある。浮島のような岩、岸は洲浜型の出島、汀などがみられ、浄土庭園の様式も見られる。また、滝組前の石橋は、3石の「平石」と間に「橋脚石」、脇の「橋添石」で組まれている。最古の石橋といわれ、後に「三橋石」と呼ばれた。「虎穴の三笑」の故事に因み、儒教、仏教、道教の三宗を表し、それらを超越することを意味しているという。池の右には、亀島が造られ、蓬莱連山を表している。石橋の左には5つの「夜泊石」が並べられている。さらに、庭園は、亀山や嵐山、愛宕山を借景に取り入れている。なお、池には遠近法が取り入れられている。池の南(左手)は池の幅が広く、北(右手)は狭く造られている。このため、南では借景の山並みが近くに、北からは遠くに見える。
 夢窓は、足利直義の問いに答えた「夢中問答集」で、「山水(庭)を好むは、定めて悪事ともいふべからず。定めて善事とも申しがたし。山水に得失なし。得失は人の心にあり」と語っている。庭を好むことは悪くも良くもなく、庭そのものに利害得失もない。それはただ人の心中にあるとした。夢窓は、山内塔頭・雲居庵にもうひとつの庭園を造っている。最後の作庭になった。庭は『都林泉名勝図絵』(1799)にも記されている。現在の墓地付近に広大な池泉式庭園があり、いまは失われている。庭には龍門瀑が組まれ、西芳寺庭園との類似点があったといわれている。また、後に塔主として入った相国寺の春林周藤に追従した雪舟(1420-1506)にも、夢窓の作庭が影響を及ぼしたとみられている。
 庭園は、修行の場でもある。雲水は夜に、曹源池に向かう。「夜坐(やざ)」といわれる。
 境内北西の新しい百花園には、桜などの植栽がある。1983年造園された。
◆茶室 小方丈の廊下の北にある茶室「祥雲亭」は、表千家「残月亭」を写した。もとは、利休が聚楽屋敷内に建てた。12畳敷の広間、2畳の上段の間を床の間とした。
 水屋で繋がる「甘雨亭」は、4畳半台目、通い口前に三角形の鱗板。いずれも1934年に7代・管長の関精拙により建立された。
◆文学 夏目漱石は1907年に天龍寺を訪ねた。『虞美人草』中で、寺を登場させている。「石に目を添えて遥かなる向こうを極むる行き当たりに、仰げば伽藍がある」と記した。翌日、保津川下りを体験している。
◆天龍寺十境 現在の境内は、かつての10分の1に過ぎない。南北朝時代、1346年、夢窓疎石の定めた「天龍寺十境(じゅきょう)」がある。これらすべては、かつての天龍寺境内を意味していた。
 ①普明(ふみょう)閣(三門)、「壮麗な山門の雅称」。
 ②絶唱渓(大堰川)、「大堰川」の清らかな渓水」。
 ③霊庇(れいひ)廟(鎮守八幡宮/後醍醐天皇の廟)、「旧鎮守八幡宮」。
 ④曹源池(そうげんち)(庭園)、「方丈裏の庭園」。
 ⑤拈華(ねんか)嶺(嵐山)、「桜の美しい嵐山」、吉野の行在所より蔵王権現を遷し、吉野の桜を移植した。
 ⑥渡月橋(現在地より川上にあった)、「朱塗欄干の美しい橋」。
 ⑦三級巖(音無瀬<となせ>の滝)、「川中にある三層の巨岩」。
 ⑧萬松洞(ばんしょうどう、門前の松並木)、「門前通りの老松並木」。
 ⑨龍門亭(音無瀬の滝を望む河畔の茶亭)、「嵐山を望む茶席」。
 ⑩亀頂(きちょう)塔(亀山頂きの塔、九重塔)、「眺望絶景の亀山頂上の塔」。
◆天皇陵 境内北西隅に、後嵯峨天皇陵(第88代、1220-1272)、亀山天皇陵(第90代、1249-1305)が東西に並ぶ。それぞれ法華堂が建てられている。
 後醍醐天皇菩提塚(第96代、1288-1339)がある。
◆名水 「星の井戸」跡は、大昔、隕石が井戸に落ちたという。また、井戸に星が映ったことからこの名がついたともいう。
 近代、嵯山昌禎住持により、自らの衣代すら資金に当てて掘りあてたという「更衣泉」があったという。
 「弁天湯」(1876)は、塔頭の慈済院に沸いた温泉で、龍淵元碩住職により、寺の再建資金の捻出のために使われたという。
 「愛の泉」は、地下80mより汲み上げられている。
◆塔頭 塔頭に松巌寺、慈済院、弘源寺、三秀院、金剛院、妙智院、寿寧院、等観院、永明院、友雲庵、宝巌院、専門道場(僧堂)がある。
◆映画 現代劇映画「制覇」(監督・中島貞夫、1982年、東映)の撮影が庭園で行われた。組長を引退した田所政雄(三船敏郎)は、妻・ひろ子(岡田茉莉子)と訪れる。
◆野生生物・植生 境内に本来の植生であるアラカシ群落(常緑広葉樹)が見られる。
 ヤマトソリハゴケ(蘚類、絶滅危惧種)、アラハシラガゴケ(蘚類、絶滅危惧種)、チャボサヤゴケ(蘚類、絶滅寸前種)、ヤマトムチゴケ(苔類、準絶滅危惧種)がある。寺周辺にキンイロネクイハムシ(昆虫類、絶滅寸前種)が生息する。2015年現在。
◆花暦 枝垂れ桜・染井吉野など200本(4月上旬-中旬)には、境内の300本(1000本とも)の楓の紅葉と周囲の嵐山、亀山などの木々の紅葉も重なる(11月上旬-中旬)。
 放生池は、蓮(7月上旬-8月中旬)が見られる。八重紅蓮、瓜紅白蓮、舞妃蓮など。アセビ(3-5月)、フヨウ・ハス・サルスベリ(6-8月)、ハギ(9-11月)、ツバキ・ウメ・サザンカ(12-2月)。
◆天龍寺七福神めぐり 天龍寺七福神めぐり(2月節分)は、当初、1930年に阪急電鉄嵐山線の開通を記念して、嵐山一帯の社寺で始められた。その後、廃絶する。1960年より天龍寺山内に再構成されて復活した。
 当日は、総門前で福笹を受けて7塔頭を巡る。山内では、嵯峨念仏狂言、年男の豆撒き、甘茶接待などが催される。
◆修行体験・精進料理 境内の「天龍寺 篩月(しげつ)」で、庭園を望みながら精進料理が頂ける。年中無休。
 坐禅会(第2日曜日、9:00-12:00、友雲庵、7-8月は7月最終土・日曜日の暁天講座のみ、休会は2月)。
 龍門会(毎月第2日曜日、10:00-11:00、友雲庵)。
 写経(予約により随時、9:00-17:00、多宝殿)。
◆年間行事 茶礼・祝聖 修正会般若修行(1月1日)、天龍寺節分祭・天龍寺七福神めぐり(2月3日)、涅槃会・刺繍の涅槃図公開(3月15日)、灌仏会(4月8日)、三門施餓鬼(7月15日)、嵐山燈籠流し・川施餓鬼(天龍寺、大覚寺、清凉寺)(8月16日)、後醍醐天皇忌(9月15日)、達磨忌(10月5日)、開山忌(夢窓疎石忌日法要)(10月30日)、臘八大接心(12月1日-8日)、成道会(12月8日)、歳晩渡諷経行事・除夜の鐘(23時半より法要、整理券配布、23時45分より鐘が撞ける。)(12月31日)。 


*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都市文化財ブックス23集 京都の五山寺院 その歴史と系譜』『図解 日本の庭 石組に見る日本庭園史』『京都・世界遺産手帳 10 天龍寺』『朝鮮通信使と京都』『日本の古寺大巡礼』『京都美術鑑賞入門』『旧版 古寺巡礼 京都 4 天龍寺』『古寺巡礼 京都 9 天龍寺』『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』『京都・山城寺院神社大事典』『足利義満と京都』 『京都ぎらい』『京都の寺社505を歩く 下』『昭和京都名所図会 4 洛西』『京都大事典』『事典 日本の名僧』『京都・美のこころ』『洛西探訪』『庭を読み解く』『京都古社寺辞典』『あなたの知らない京都府の歴史』『庭の都、京の旅』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都絵になる風景』『京都隠れた史跡100選』『京の福神めぐり』『こころ美しく京のお寺で修行体験』『京都 古都の庭をめぐる』『週刊 日本庭園をゆく 3 京都洛西の名庭 1 西芳寺 天龍寺』『週刊 仏教新発見 26 南禅寺 天龍寺』『週刊 古寺を巡る 39 天龍寺』『世界遺産のツボを歩く』
 


  関連・周辺弘源寺〔天龍寺〕      関連・周辺宝厳院〔天龍寺〕      関連・周辺三秀院〔天龍寺〕     関連・周辺慈済院〔天龍寺〕      関連・周辺松巌寺〔天龍寺〕      関連・周辺永明院〔天龍寺〕      関連・周辺等観院〔天龍寺〕      関連・周辺寿寧院〔天龍寺〕      関連・周辺金剛院〔天龍寺〕      関連・周辺妙智院〔天龍寺〕      関連・周辺南芳院〔天龍寺〕      関連・周辺臨川寺〔天龍寺別院〕   関連・周辺壇林寺跡      周辺嵐山公園(亀山公園)      関連        

方丈西

方丈東の庭園

方丈と小方丈、1899年建立

茶室「祥雲閣」「甘雨亭」


多宝殿に向かう渡廊

愛の泉より流れている小川

「大堰川」、橋脚

多宝殿

多宝殿

多宝殿

多宝殿、後醍醐天皇像

多宝殿から観る桜


硯石、高さ2mあり、1899年に鈴木松年が法堂に雲龍図を描いた際に使ったものという。その際には、60人の僧がこの硯で墨を磨ったという。

平和観音と愛の泉、観音像はかつて中国より伝来したものという。夢窓国師が観音菩薩を篤く信仰していた。井水は地下80mより湧く。水を口に含むと愛と幸を授かるという。

観音菩薩

経堂


八幡社


八幡社

八幡社

八幡社

八幡社

飛雲観音、仏師・西村公朝作。1980年に建立された。台座揮毫は管長・関牧翁、清水寺貫主・大西良慶、戦没した19歳の特攻兵・高崎文雄による。菩薩像の左手に載る火焔宝珠は十字架を刻む。

境内からの東、望京の丘からの景観

桜、望京の丘、京都市街地が一望できる。

【参照】境内から見える愛宕山

【参照】後嵯峨天皇陵、亀山天皇陵、法華堂が建てられている。
天龍寺 グーグルマッブ・ストリートビュー
map 天龍寺 〒616-8385 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68  075-881-1235   8:30-17:30, 8:30-17:00(10月21日-3月20日)

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