一燈寺 (葉山観音、葉山馬頭観音堂) (京都市左京区)
Itto-ji Temple  
一燈寺 一燈寺
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「葉山馬頭観世音」の石碑
  
観音堂





 洛北の葉山(180m)の中腹に建つ一燈寺(いっとうじ)は、葉山観音(はやまかんのん)、葉山観音堂、葉山馬頭観音堂とも呼ばれている。 
 単立の臨済宗、本尊は三面馬頭観世音菩薩。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 葉山の名は、観音堂を守護してきた端山(はやま)氏に由来するともいう。
  江戸時代、第108代・後水尾天皇皇女・元瑤(げんよう、1634-1727)禅尼が葉山観音を信仰し、堂宇を整備したという。
 幕末、1852年、尊攘派志士・梅田雲浜一家が一時、観音堂の堂守小屋二畳間に住む。
 近代以降、荒廃している。
◆元瑶 江戸時代初期の皇族・元瑶内親王(げんよう ないしんのう、1634-1727)。朱宮(緋宮)光子(てるこ)内親王。第108代・後水尾天皇の第8皇女に生まれた。1638年天皇の後の中宮・徳川和子(東福門院)の養女となり、内親王宣下を受けた。1680年、法皇没後、大覚寺に入寺、剃髪している。1682年、朱宮御所(音羽御所、現在の修学院離宮内)を寺に改めた林丘寺の開基となった。和歌、書、特に絵画に優れた。
 寺に帰依し、堂宇を整備したという。
◆梅田雲浜 江戸時代後期の尊攘派志士・梅田雲浜(うめだ うんぴん、1815-1859)。父は矢部義比、母は武川又兵衛の娘。若狭小浜藩藩士。16歳で江戸の儒者・山口普山に学ぶ。闇斎の提唱した朱子学・崎門学を修めた。1843年、京都の小浜藩塾・望楠軒(木屋町二条)に通う。望楠軒講主となる。一時、高雄に移る。1852年、海防に関する建言により藩主・酒井忠義は士籍剥奪、浪人となる。葉山馬頭観音堂の堂守となる。長州藩物産御用掛となり、烏丸御池上ルに邸宅を建てた。1853年、ペリー来航後、1858年、京都で梁川星巌と条約不可、一橋慶喜擁立、井伊直弼排斥を青蓮院宮に説く。1854年、妻・信子が亡くなる。1855年、子・繁太郎が相次いで亡くなる。1858年、「反逆の四天王」とされ、幕政批判により安政の大獄で逮捕第一号になる。烏丸御池上ルの家で捕縛され、江戸の小倉藩邸で拷問死した。
 境内に、「梅田雲浜先生旧蹟の碑」が立てられている。墓は東山・安祥院にある。
◆梅田信子 江戸時代後期の女性・梅田信子(うめだ しんこ/のぶこ、1827-1855)。大津の学者・上原立斎の長女に生まれた。1846年、18歳で梅田雲浜と結婚し、当初は木屋町二条に住んだ。1852年、夫が浪人となり、貧しい家計を手内職で支えた。自らの着物を質に入れ、家を訪れた志士らに酒を振舞い、琴を聞かせていたという。高雄、一乗村、寺町一条下ルと移る。1854年、結核と栄養失調に倒れる。子・繁太郎も栄養失調により病に伏した。翌年、夫外出中に2人の子を残して亡くなる。和歌、書道、絵画、琴に優れた。極貧の中で「樵りおきし軒のつま木も焚きはてて拾う木の葉のつもる間ぞなき」と詠む。29歳。
◆梅田千代 江戸時代後期-近代の教育者・梅田千代(うめだ ちよ、1824-1889)。大和生まれ。勤皇家・村島内蔵進の娘。1855年、梅田雲浜の後妻として結婚し、2児を生む。1872年、新英学校・女紅場で製品係となる。娘・ぬい子は英語学教導試補となる。
◆建築 かつて観音堂、茶亭「臨江亭」、三重小塔の絵垣塔などがあった。
◆年間行事 本尊・三面馬頭観音は、毎月17、18日に開扉されている。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都事典』『京都の寺社505を歩く 上』『幕末京都 新選組と龍馬たち』『新選組と幕末の京都』『京都隠れた史跡100選』『京都大事典』『おんなの史跡を歩く』『京を彩った女たち』『京都府の歴史散歩 中』


   関連・周辺林丘寺      関連下御霊神社     関連安祥院(日限地蔵)      周辺        




手水舎


十三重塔、四方仏

境内の森

「梅田雲浜先生旧蹟の碑」

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一燈寺(葉山観音) 〒606-8145 京都市左京区一乗寺葉山町21-1 
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