高山寺 (京都市右京区) 
Kozan-ji Temple
高山寺 高山寺
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「栂尾山 高山寺」の石碑、表参道に立つ。


「仏足石参道」の石標


「世界文化遺産 高山寺」の石碑




表参道







ここに、仁王門があった。1881年に類焼により焼失している。


「ひぐらしや ここにいませし 茶の聖(ひじり)」、水原秋桜子 


参道各所に石垣が築かれている。


吾妻屋「間雲亭」



裏参道

 石水院周辺

岩水院


岩水院


岩水院


岩水院


岩水院、笠塔婆の下乗石(重要美術品)


書院、玄関


鐘楼


石水院


扁額「石水院」、文人・儒学者の富岡鉄斎(1837-1924)筆


石水院


石水院、欄間に掛る寺名の起源になった後鳥羽上皇筆と伝えられる扁額「日出先照高山之寺(ひいいでて まずてらす こうざんのてら)」が掛る。


石水院南縁、明恵の知られた歌「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」


石水院


石水院、蟇股の唐草透し彫り


石水院、善哉童子像


石水院、「鳥獣人物戯画 甲巻」部分、兎と蛙が猿を追う。案内版より


向山、境内の対岸


境内の森に突然現れた野性の鹿。2頭の子鹿を連れた母鹿だった。甲高い警戒の鳴き声をしきりにあげ、やがて森の中に消えていった。


茶室「遺香庵」、普段は非公開。


茶室「遺香庵」


茶室「遺香庵」


「日本最古之茶園」の碑


境内にある茶園、新葉。


法鼓台道場


法鼓台道場


法鼓台文庫

開山堂周辺


開山堂




開山堂、「不許飲酒」の石碑


開山堂、水盤


開山堂、梵字の石碑「阿字石」



開山堂


開山堂、織部(キリシタン)燈籠


開山堂、聖観音像、彫刻家・赤堀信平(1899-1992)作。


開山堂


開山堂


開山堂


開山堂、海老虹梁


開山堂、土蔵

 御廟周辺


御廟



御廟、明恵は楞伽山(りょうがせん)山腹に向って坐禅をしたという。その地には現在、開山廟、明恵上人の墓・御廟、石造妙法経塔、歴代の土宜法龍、土地宜覚了、小川義章、葉山照澄の墓が並んでいる。


御廟、笠石塔婆、明恵が詠んだという「山のはにわれも入りなむ月も入れ夜な夜なごとにまた友とせむ」の歌碑。


御廟、笠石塔婆(重文)、明恵の遺訓「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」碑。


御廟、明恵上人御廟、覆屋内に明恵の五輪塔がある。


御廟、宝筺印塔(重文)
 若狭へ向かう九十九折の周山街道(国道162号線)に清滝川が沿って流れる。川に面して、楞迦山(りょうがさん)が迫る。山の斜面に伽藍点在する高山寺(こうざんじ)が建つ。
 典籍15000点、経蔵本「高山寺本」などを蔵し、中世以来の学問寺として知られる。「三尾(さんび)の名刹」(ほかに高雄(尾)山神護寺、槙尾山西明寺)のひとつに数えられた。 
 山号を栂尾山(とがのおさん)という。かつて真義真言宗、現在は単立寺院。本尊は釈迦如来。
 境内は、国の史跡に指定されている。1994年に「古都京都の文化財」として、世界遺産条約に基づく世界文化遺産に登録された。
◆歴史年表 奈良時代、774年、第49代・光仁(こうにん)天皇の勅願により、慶俊らを開創とした。当初は、神願寺都賀尾(じんがんじとがのお)坊と称し、華厳宗だった。
 平安時代、初期、度賀尾寺と記されている。(『尊意贈僧正伝』)
 802年、和気弘世(清麻呂長男)の主催により、最澄は神護寺で5か月にわたる天台の教え「天台三部」を説いた。
 814年、天台宗の都賀尾十無尽院(じゅうむじんいん)と改称されている。
 859年-876年、賢一が都賀尾で般若心経に修練する。
 876年、法性坊尊意僧正(後の13代天台座主)が賢一に付き、4年にわたり修行している。
 平安時代後期、天台の古刹、度賀尾寺が文覚(もんがく)により復興され、神護寺別院になった。
 鎌倉時代、1206年、後鳥羽上皇(第82代)の帰依を得てその院宣により、明恵(みょうえ)が神護寺の一院・栂尾十無尽院を贈られ、華厳宗の根本道場として再興した。後鳥羽上皇の勅語「日出先照高山之寺」(日出でて先ず照らす高山の寺)により、寺名も「高山寺」に改められた。上皇はその勅額を贈ったともいう。近衛家、鷹司、西園寺家などの公家の帰依も受け、堂宇も復興された。明恵は実質的な開山、中興開山になる。
 1210年、明恵は『金師章光顕抄』などを著わし、栂尾に隠居修行する。
 1215年、明恵は四座の講式を定める。涅槃会を始めた。
 1216年、石水院が建立される。
 1218年、明恵は快慶作の本尊・釈迦如来とともに賀茂の別所に移る。神主能久は僧房、経蔵を寄進建立する。草庵は「石水院」と名付けられた。その後、栂尾に戻る。
 1219年、金堂、鐘楼などが建立になる。金堂に本尊が安置された。
 1221年、北条泰時の軍勢が寺に乱入した。明恵を連行しようとしたものの、明恵の説諭により軍を引いた。明恵は賀茂へ移り泰時と法談する。
 1223年、明恵は善妙尼寺を建立し、栂尾に戻る。
 1224年、明恵は楞伽山の峰に蟄居し、坐禅修行した。石水院を賀茂の別所より移築した。
 1225年、羅漢堂が建立になる。東経蔵を石水院に師岸に移す。白光(びゃつこう)神、藤原氏の氏神、鎮守社・春日明神、善妙神が鎮守として勧請された。説戒会が始められ、参詣者が群集する。(『明月記』)
 1227年、三重塔が棟上になる。
 1228年、石水院が洪水により流出した。石水院は、禅堂院に移される。
 1229年、阿弥陀堂、西経蔵が建立される。鎮守社を宝殿の西山傍らに移す。三加禅の庵室が結ばれた。
 1230年、明恵と神護寺寺僧の訴えにより、境内地を定める太政官牒(だいじょうかんちょう)が下る。境界の標識「四至ぼう示」を打つというものだった。三加禅を禅堂院の一廓に移し、禅河院とした。絵図が作成される。
 1232年、明恵は高山寺置文を定める。その後、禅堂院で亡くなり、御廟の地に葬られる。
 1233年、喜海は明恵が修行した遺跡に木標を立てた。
 1235年、石水院に、春日明神、住吉明神が遷座される。
 1236年、明恵の遺徳を偲び、覚厳は十三重塔を建立する。
 1238年、住吉神が勧請された。
 1240年頃、春日社が開帳奉幣される。
 1253年、高信は後嵯峨院(第88代)の院宣により『高山寺縁起』を著わした。
 1282年、八幡社が遷宮になる。
 1320年、花園上皇(第95代)、後伏見上皇(第93代)は春日、住吉のご神体を拝する。
 1322年、明雲尼は明恵の木標の遺跡顕彰を石標に変える。
 室町時代、1467年-1475年、応仁・文明の乱(1467-1477)により、山名軍が当寺を占拠する。
 天文年間(1532-1555)、戦火により焼失した。また、1547年、細川晴元の兵火により、金堂、十三重塔など大半の伽藍を焼失した。同年間、薬師寺備後守夫人清範が十無尽院を霊雲院に移す。
 江戸時代、1634年、寛永年中(1634-1636)とも、永弁、秀融により再興される。仁和寺古御堂などより建物が移築され、金堂が再興された。覚深法親王は高山寺置文十八条を定める。金堂に南都・円照寺宮より応身説法釈迦牟尼仏が贈られる。
 1636年、秀融、永弁により開山堂が建立された。
 慶安年間(1648-1652)、1648年とも、永弁は塔頭・十無尽院を復興した。
 1717年、御廟、開山堂、禅堂院、塔頭・宝性院が焼失した。
 1723年、禅堂院を焼失する。開山堂、御廟を再建した。
 1742年、塔頭・善財院が焼失する。
 1807年、慧友(えゆう)が三尊院に住し、十無尽院主を兼務した。
 天保年間(1830-1843)、慧友により堂宇の修復、所蔵物の調査整理などが行われた。
 1841年、絵師・冷泉為恭が参篭し僧形八幡像を模写した。
 1848年、仁和寺済仁法親王の命により、慧友は仏足跡を復刻する。
 近代、1868年、華厳宗本山高山寺となる。真言宗兼学になる。
 1871年、上地令により、寺領地などを失う。
 1872年、真言宗の所轄になり、御室派に属する。
 1881年、白雲橋対岸民家より出火、塔頭、仁王門などを焼失、その後復興された。
 1889年、証成の時、石水院が現在地(旧三尊院跡)に移されている。
 1931年、茶室「遺香庵」が、高橋箒庵らにより建立された。
 現代、1959年、義章により収蔵庫(法坡鼓台文庫)が建立される。
 1965年、デューク・エイセスの歌う「女ひとり」が流行した。
 1966年、真言宗系の単立寺院になる。境内は史跡に指定された。
 1968年、高山寺典籍文書綜合調査団による典籍、古文書の調査が行われる。
 1969年、法鼓台道場が建設された。
 1986年、イタリアアッシジの聖フランシスコ教会と高山寺は、聖ヨハネ・パウロ二世の祝福により、異宗教間で世界初の兄弟教会になる。
 1994年、「古都京都の文化財」として、世界遺産条約に基づく世界文化遺産に登録された。
◆慶俊 奈良時代の僧・慶俊(けいしゅん/きょうしゅん、生没年不詳)。河内国、渡来系氏族葛井(藤井)氏に生まれた。出家後、大安寺の入唐僧・道慈を師として、三輪、法相、華厳などを学ぶ。華厳講師、753年、法華寺の大鎮となる。第45代・聖武天皇(701-756)の死に際して律師に任じられる。第45代・聖武天皇の光明皇后(701-760)、藤原仲麻呂(706-764)と親交あり、仲麻呂政権の崩壊で失脚、その後、律師に返り咲いた。
◆尊意 平安時代中期の天台僧・尊意(そんい、866/876-940)。京都に生まれた。8歳で父母を亡くしている。876年、11歳で洛東の吉田寺で地獄絵を見て仏道に志し、栂尾寺・賢一に学ぶ。879年、比叡山に登り、17歳で剃髪した。887年、登壇受戒して12年籠山、 増全、玄昭に台密を学び、円珍に菩薩戒を受けた。第60代・醍醐天皇、第61代・朱雀天皇の護持僧になる。926年、第13世座主となり14年間在任した。
 霊験あり、多くの逸話が残されている。旱魃、疾病流行に祈願し、930年、菅原道真の御霊による清涼殿落雷の際には天皇を加持した。(『天神縁起絵巻』)。935年、平将門の乱に大威徳法を修した。
◆明恵 平安時代末期-鎌倉時代の高山寺中興の祖・明恵(みょうえ、1173-1232)。紀州湯浅(有田郡石垣庄)の生まれ。父は武士・平重国、母は湯浅宗重の娘。1180年、8歳で孤児となり、1181年、9歳で神護寺の叔父・上覚の下に入る。仁和寺の尊実、尊印、景雅より真言密教、華厳を学ぶ。上覚、勧修寺の興然より密教を学び灌頂を授けられる。1188年、上覚により出家、東大寺戒壇院で具足戒を受ける。成弁(後高弁)と称した。1193年、東大寺に出仕する。東大寺・尊勝院の聖厳、建仁寺でも学び、華厳、真言、律、禅宗などを体得した。1195年、紀州白上峰に隠遁した。1198年、高雄に戻され文覚より寺再興を託される。白上、筏立(いかたち)に戻る。1199年、高雄、筏立に籠る。1201年、筏立、糸野に移った。1202年、上覚により伝法灌頂を受ける。1203年、天竺行を春日明神の神託により止める。春日神社、笠置に解脱上人を訪ねた。1204年、糸野、神谷、栂尾、紀州・崎山に移る。1205年、神谷で入唐を決したが実現できなかった。栂尾に移る。1206年、高山寺を建立した。1207年、院宣により東大寺尊勝院学頭。1208年、紀州に移り、1210年、栂尾に戻る。1216年、石水院建立、1217年、紀州、1218年、栂尾、賀茂仏光山に移った。1223年、善妙寺建立、1224年、楞迦山蟄居、1226年、紀州、1229年、神護寺講堂供養導師、1231年、紀州施無畏本堂供養、1232年、亡くなり禅堂院に埋葬された。
 明恵は法然とも対立し『摧邪輪(ざいじゃりん)』(1212)で糾弾した。華厳を基礎とし、真言密教も取り入れた厳密(ごんみつ)は、実践的な修行を重んじた。仏の足下より発する光に一体化する仏光観、五秘密法(金剛薩埵・欲、触、愛、慢)を説いた。仮名混じり文『華厳唯心義』を著し、多くの在家女性の読者を得、女人救済に尽力する。建礼門院も明恵により受戒した。『解脱門義聴集記』、自らの見た夢を40年にわたり綴った『夢記(ゆめのき)』(1190-1231)などがある。夢中の欲についても記している。
◆覚猷 平安時代後期の天台僧・覚猷(かくゆう、1053-1140)。鳥羽僧正。1053年、源隆国の第9子。若くして出家し、園城寺で天台仏教・密教を修め、画も描く。園城寺法輪院に住し、絵を描き密教図像の集成と絵師の育成した。四天王寺別当、法成寺別当、園城寺長吏を歴任、1132年、僧正、1134年、大僧正。1138年、47世天台座主に就くが3日で退任し、帰依した鳥羽上皇の鳥羽離宮・証金剛院へ移り、離宮の護持僧になる。以後、鳥羽僧正と呼ばれた。作品として「鳥獣人物戯画」(鳥獣戯画)」「放屁合戦」「陽物くらべ」などがあるが確定されていない。
◆善妙寺 鎌倉時代、1223年、別院・尼寺の善妙寺(ぜんみょうじ、善妙尼寺)が建立され、善妙神像が祀られていた。後鳥羽上皇の鎌倉幕府倒幕である承久の乱(1221)で、刑死した中御門宗行の妻(戒光)が夫の弔いのために建立した。
 善妙とは、もとは唐の美貌の女性の名で、華厳宗を開いた新羅の義湘(ぎしょう)に心引かれたが、心改め龍や石に化身し、義湘を守護したという。
 寺には、尼僧禅恵(藤原光親の妻)を初め、承久の乱で未亡人になった、上皇方の身寄りのない多くの女性が集った。明恵はこれらの人々を匿う。このため、明恵は、鎌倉幕府の秋田城ノ介景盛に捕らえられ連行された。だが、六波羅探題北方執権・北条泰時は明恵に帰依、出家して弟子となっている。
 寺には尼衆が書写した2種の『華厳経』、善妙神立像(重文)、『華厳宗祖師絵伝(義湘絵)』(国宝)がある。
 その後、善妙寺は廃寺になった。高雄の為因(いいん)寺境内の宝院塔「阿難塔」が遺構といわれている。
◆義湘 新羅華厳宗の祖・義湘(ぎしょう、625-702)。660年代に唐へ入り、唐の長安終南山の華厳宗第2祖・智儼(ちごん、602-668)に学んだ。671年、新羅に帰国、文武王の勅命を報じて太伯山に浮石寺を建立し、華厳宗の根本道場とした。海印寺などの華厳十刹で教学を広め、十大弟子といわれる悟真など門弟を輩出した。善妙との恋の話が知られている。
◆元暁 新羅の華厳宗の僧・侶元暁(がんぎょう/げんぎょう、617-686)。新羅押梁郡(現在の慶尚北道)に生まれた。興輪寺の法蔵に華厳を学び、650年、義湘と共に唐に渡ろうとしたが、高句麗軍隊のために果たせなかった。661年、義湘と再度渡ろうとし、骸骨に溜まった水を飲み悟って帰ったという。その後、華厳学に関して240巻の著作を成した。新羅浄土教の先駆者、新羅随一の学者とされた。
 弟子・審祥が日本に華厳宗を伝えた。
◆湛慶  鎌倉時代の慶派仏師・湛慶(たんけい、1173-1256)。運慶の長男。父とともに東大寺、興福寺の復興造仏に関わる。1212年、最高の僧綱位の法印を授かる。1223年、快慶と共に醍醐寺閻魔堂、1224年、平岡善妙寺、1248年、後嵯峨院、雪蹊寺の善膩師童子像や高山寺の狛犬・仔犬を手掛ける。1249年、蓮華王院(三十三間堂)の仏像修理、直後の火災後、82歳で再び中尊の造仏を手掛ける。完成後84歳で亡くなる。甥に仏師・康円(運慶二男康運の子)、康清(運慶4男康勝の子)がいる。
◆藤原長房 鎌倉時代前期の公卿・藤原長房(ふじわら の ながふさ、1170-1243)。参議光長の子。1191年、蔵人その後、右少弁、蔵人頭、1204年、参議となる。鳥羽上皇の近臣となり、皇女煕子内親王の乳父となる。院の御所二条殿の焼亡した跡を下賜された。九条兼実、良経、兼実の娘の宜秋門院任子(後鳥羽中宮)に仕えた。1210年、出家し覚心と称した。奈良の貞慶の門人となり、海住山寺2世となる。明恵と上皇を仲介している。当寺の上皇宸筆扁額裏にその名が墨書されている。
◆宅磨勝賀 鎌倉時代の絵仏師・宅磨勝賀(たくま しょうが、生没年不詳)、澄賀。父は詫間派(宅磨派、宅間派)の祖・為遠。弟は為久。絵所の役に任じられ、法橋、後に法眼に叙せられた。宅間法眼と呼ばれる。1169年頃-1209年頃、神護寺・東寺の仏像制作などに携わる。高山寺の明恵に帰依した。東寺に作品の「十二天図屏風」が残る。
 逸話がある。明恵が夢に見た春日・住吉神が法要を聴聞することがよくあった。二神の姿は明恵にのみ見ることが限られた。勝賀は二神の姿を絵に写したいと懇請する。だが、明恵は常人が神の姿を見れば、命を落とすかもしれないと忠告する。それでも懇願すると、果たして二神が現れそれを写すことが叶った。その帰路、落馬し落命したという。その終焉地に宅間塚(右京区鳴滝宅間町)がある。
◆土宜法龍 近代の僧侶・土宜法龍(どき ほうりゅう、1855-1923)。伊勢国に生まれた。幼くして出家し、1869年より、高野山の伝法入壇に入る。1876年、慶應義塾別科に入学、卒業。1881年、真言宗法務所課長。御七日御修法を東寺に再興する。「十善会」を主宰した。1893年、シカゴでの万国宗教会議に日本代表として参加。仏教研究者であり密教学研究の基礎を築いた。高野山学林長、36代・仁和寺門跡、1906年、御室派管長、真言宗各派連合総裁、高野山真言宗管長などを歴任。
 南方熊楠との30年間に渡る往復書簡が交わされた。当寺で法龍に宛てた熊楠の書簡38通が発見されている。御廟に墓塔がある。
◆西村虚空 現代の彫刻家・虚無僧の西村虚空(1912-2002)。熊本に住した。普化宗谷派2世家元。虚鐸(きょたく)という三尺二寸(約90cm)の尺八を奏することで知られていた。
◆仏像・仏画・木像 木心乾漆造漆箔の「薬師如来坐像」(重文)は、奈良時代末期作、かつて丹波・神尾山金輪寺(亀岡市)にあった。医家・丹波康頼(912-915)の念持仏という。かつてね脇侍、日光・月光菩薩像が控えた。
 「白光神立像」(重文)(42.3㎝)は、鎌倉時代、1225年に勧請され鎮守社・白光神に祀られた。鎌倉時代の厨子(重文)に納められ、天竺雪山神ともいわれる。全身が白く彩色され、鬱多羅迦(うたらか)神ともいう。神仏習合で、神像でありながら印を結び火焔の光背を背負う。
 鎌倉時代作、美仏の「善妙神立像」(31.2㎝)(重文)は、湛慶(1173-1256)作という。善妙が義湘に渡そうとした所須(しょしゅ)を手に持つ。夢中で善妙に会ったという明恵が造らせた。木造、彩色、切金文様を施す。京都国立博物館委託。
 奈良時代後期作の「薬師如来坐像」(73㎝)(重文)は木心乾漆、京都国立博物館委託。
 開山堂安置の「明恵上人坐像」(83㎝)(重文)は、手に数珠を持つ。明恵没後、弟子たちによりその姿を生き写しされたものとされ、生身供(しょうじんく)が行われていた。鎌倉時代、1236年に建立された十三重塔と禅堂院を結んでいた渡廊に安置されていたとみられている。木造、彩色、玉眼。
 金堂に本尊・「釈迦如来坐像」を安置している。室町時代作。
 鎌倉時代の絹本著色としては、明恵自賛「仏眼仏母像」(国宝)、「文殊菩薩像」(重文)、「菩薩像」(重文)がある。
 鎌倉時代の絵仏師・宅磨勝賀作の「春日・住吉神」は、明恵が夢に見た二神を写したものという。
 現在は失われた多くの仏像がある。金堂に運慶作の盧遮那如来如来、四天王像、快慶作の釈迦如来像、羅漢堂に運慶作の賓度羅尊者像、禅堂院十三重塔に快慶作の本尊・弥勒菩薩像、金堂に湛慶作の増長天像、三重宝塔に華厳五聖像、羅漢堂の比丘形文殊像、大門の金剛力士像、禅堂院十三重塔の脇侍四躯、善妙寺の善妙神像、獅子狛犬像などがあった。
◆楞迦山 楞迦山(りょうがせん)とは、南海の孤島にある山という。羅婆那夜叉(らばなやしゃ)という王が華宮殿に住んでいた。釈迦は説法を行うために山を訪れ、如来が弟子を従えて海上に現れると、王は眷属を連れて一行を出迎えた。
 明恵はこの故事に因み、高山寺の境内裏山を楞迦山、庵室を華宮殿、羅婆坊などと呼びならわした。かつて、楞迦山には、明恵が練行場とした七か所があった。練若台(れんにゃだい)、羅婆坊(らばぼう)、華宮殿(けきゅうでん)、縄床樹(じょうしょうじゅ)、定心石、遺跡窟、岩水院だった。それぞれに、明恵没後、1333年に木標が立てられ、1322年に石標に改められた。現在は、このうち5本だけが残る。
 華宮殿跡には笠塔婆が立つ。「華宮殿 建保元仁之比 前後数年坐禅 修練之地」と記されている。その下にある羅婆坊の庵室跡には、石組が残り笠塔婆が立つ。「羅婆坊 元仁嘉禄之比 華宮殿隠居之 時真言行法之 道場也」の銘が入る。明恵も語っている。「すべてこの山の中に面の一尺ともある石に、わが坐せぬはよもあらじ」(『明恵上人伝記』)
◆仏眼仏母像 24歳の明恵は、故郷の紀州湯浅山上の庵で世俗を斥け、欲を断ち仏道に精進した。そのため、自らの五根(目、耳、鼻、舌、身)を削ごうとする。だが、日常生活に支障が出るとして、障りのないと思った耳を切ることにした。母の代わりに常日頃拝していた念持仏・絹本著色「仏眼仏母像」(国宝)の前で右耳を削いだ。像は、胎蔵界曼荼羅の遍知院ある七尊のひとつになる。その時飛び散った明恵の鮮血が、当寺の絵にいまも残されているという。
 明恵(成弁)自身の賛には、「モロトモニアハレトヲホセミホトケヲキミヨリホカニシル人モナシ 無耳法師之母御前也」(諸ともに哀れれと思せ御仏よ君より他に知る人もなし)とある。幼くして両親を失った明恵は、釈迦を父とし、三世諸仏能生の母とされる仏眼仏母像を母と慕っていた。毎日2度の仏眼法を日課とした。画像の複製は石水院西庇の間に掛けられている。縦182cm、横128cm。
◆あるべきようわ 石水院の床の間に黒板の額が掲げられ、明恵の遺訓「阿留辺畿幾夜宇和(あるべきようわ)」の白墨の七文字が残されている。これは、万葉仮名による当て字になる。続けて「三宝礼(さんぽうらい)」(仏・法・僧の三宝を敬い、帰依することを讃える偈文<げぶん>、現前、一体、住持の三宝)が記されている。
 「あるべきようわ」とは、「阿留辺幾夜宇和と云ふ七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。乃至、帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様を背く故に、一切悪しきなり。」(『栂尾明恵上人遺訓』)。また、「只現世に有べき様にて有んと申也。聖教の中にも行ずべき様に行し、振舞べき様に振舞へとこそ説き置かれたれ。」(『明恵上人伝記』)に通じる。浄土教の来世救済ではなく、現世救済を説いたともいう。
◆栄西・明恵・茶・茶園 平安時代、茶祖といわれる臨済宗の栄西(1141-1215)は、宋に渡った際に茶を喫し、禅寺で行われていた作法についても日本に伝えた。1187年の2度目の天台山滞在の際に、喫茶を習得する。栄西は、南宋から茶種を持ち帰り、日本での栽培を奨励する。当初は筑前と肥前の間にある背振山石上(せふりさん いしがみ)に種を蒔いた。ただ、栄西以前の奈良時代に、すでに遣唐使によって奈良に茶木が持ち込まれていたとみられている。平安時代、815年、第52代・嵯峨天皇に茶を煎じ奉ったとの記録がある。(『日本後記』)。当時の茶は、団茶(だんちゃ)と呼ばれ、団子状になっており煎じて飲んだ。栄西は挽いて飲む抹茶法をもたらした。
 明恵は建仁寺に栄西を訪ねたという。明恵は、宮中より新車に乗り帰った栄西を見て気後れし、帰りかけようとした。栄西はそれを呼び止め、みすぼらしい身形の明恵を歓待し、仏教について論じたという。栄西は、印可も与えようとした。明恵はそれを断る。栄西は明恵に、茶の効用を説いたとも、1207年に茶種を譲ったともいう。
 栄西が宋から持ち帰った茶の種3粒(5粒とも)は、「漢柿形茶入」(柿蔕茶入)(あやのかきべた の ちゃいれ)に入れて明恵に贈られたともいう。種は、日本で初めてこの地、栂尾の深瀬(ふかいぜ/ふかせ)三本木(境内東、清滝川対岸)に植えられ、栂尾茶として栽培されたともいう。栂尾の地は地下水が豊富で湿潤な気候であり、冷涼地であるため茶の栽培に適していた。ただ、傾斜地で畑地が狭いという難点があった。
 当初は、薬、覚醒用に利用された。その後、宇治(跡影園、あしかげえん)に栽培地が移り、全国に茶が普及する。明恵は、宇治(駒の蹄影茶園)でも茶木の栽培を試み、栂尾本茶のもとになったともいう。
 鎌倉時代、室町時代、栂尾茶は「本園」、茶は「本茶」といわれ、天皇への献上も行われる。鎌倉時代-室町時代初期、お茶の産地を当てる「闘茶(とうちゃ)」が催された。その等級により栂尾茶を「本茶(ほんちゃ)」、そのほかを「非茶(ひちゃ)」とし、これを「本非を争う」と呼んだ。
 現在境内には、宇治の茶業協会の篤志家により管理されている茶園があり、「日本最古之茶園」の碑が立つ。この地には、かつて十無尽院が建てられていた。大正期(1912-1926)、山に散在していた茶樹をここに集めて現在の茶畑が作られている。
◆石水院 「石水院(せきすいいん、)」(国宝)は、五所堂ともいわれる。鎌倉時代、1206年に建立、また1215年、1216年、1218年ともいわれる。明恵の住房、禅堂とした庵室「練若台」が前身だったという。後鳥羽上皇(第82代)により贈られた御学問所を移築したという。また、後鳥羽院の賀茂別院を移築したともいう。もとは経蔵として建てられたともいう。
 当初は金堂の東に東経蔵としてあり、鎌倉時代、1228年の洪水の被害に遭う。残された建物を東経蔵とし、春日明神、住吉明神を祀り、広縁が設けられ、石水院とした。1235年に拝所が付け加えられる。近代、1889年、金堂東より現在地に移築された。
 石水院は鎌倉時代初期の寝殿造の遺構であり、簡素な趣きがあり、当山の明恵在住時代の唯一の建物になる。内部は両流れ舟底天井(もとは天井用板に用いられていた高野槇を裏返しにしたもの、明恵の板葺草庵の遺材)。広縁と一重疎垂木の軒が付く。南縁、西側正面は3間、1間の廂があり、格子状の蔀戸がある。南面には蔀戸と広縁があり、その奥には、清滝川を挟んで向山(むかいやま)を望むことができる。桁行正面3間、背面4間、梁間3間、正面1間通庇、一重、入母屋造、西を正面とした妻入、木階を蔽う向拝付、こけら葺。
 拝所は、正面1間の向拝を付して拝殿風に改めた。縋破風、正面は吊り下げ式の蔀戸、側面は引き違い戸、南面は菱格子戸、欄間の唐草の本蟇股(水藻形と呼ばれた。西に4つあり両端のみ鎌倉時代中期作、南に1つ)、天井は化粧屋根裏。
 なお、江戸時代初期の石水院は、内陣に春日、住吉明神社殿(現在の八光神像)を祀り、密教蔵(その奥)、顕教蔵(現在の主室)があり、蔵には五重棚が備え付けられていた。
 欄間(南面長押上)に、後鳥羽上皇(1180-1239)の扁額「日出先照高山之寺(ひいいでて まずてらす こうざんのてら)」が掲げられている。華厳経の「日出先照高山」に拠る。高山とは華厳の教えを意味している。高山寺の寺号にもなった。上皇は明恵に華厳経の隆盛を託した。西面に富岡鉄斎(1837-1924)の「石水院」の額が掛る。最晩年のものになる。床の間には、複製の「明恵上人樹上坐禅像」、明恵の遺訓「阿留辺畿幾夜宇和」(あるべきようわ)の掛板がある。また、酉の刻から申の刻に至る勤行次第が記されている。内陣には聖観音を安置、伝運慶(?-1224)作の明恵遺愛の木彫の犬(木彫狗児<くじ>、25.5㎝)、「仏眼仏母(ぶつげんぶつも)像」(複製)、「犬彫り物」(複製)、「樹上座禅図」(複製)、「鳥獣人物戯画」(複製)などが展示されている。
 拝所中央(廂の間)の落板敷の部分には、かつての春日明神、住吉明神の拝殿があった。西に吊り上げの蔀戸、東に菱格子戸、本蟇股が見られる。善財童子(ぜんざいどうし)像が置かれている。華厳経中、善財童子は悟りを求める心を発し、長い旅を続ける童のことをいう。明恵は善財童子を敬愛した。写真家・土門拳(1909-1990)は「六葉釘隠し」に魅了されている。
 西側に庭園がある。2基の石燈籠が立つ。楓、桜、シャクナゲなどが植えられている。
◆建築 鎌倉時代、明恵により寺が再興された当時は、楼門、鎮守社、鐘楼、三重塔、本堂、阿弥陀堂、羅漢堂、経蔵、懸造の金堂などが建ち並んでいた。(「高山寺絵図」、1230年)。その後、石水院を除く建物が消失した。
 「開山堂」は、明恵が晩年を過ごし終焉の地になった。もとは草庵の禅河庵(禅堂院)、明恵没後に御影堂、その後、開山堂と呼ばれた。室町時代の兵火で焼失している。江戸時代、享保年間(1716-1736)に再建された。正面に半蔀、両側に花頭窓、側面に舞良戸。宝蔵とは渡廊でつながる。宝形造、本瓦葺。
 「金堂」は、江戸時代、1634年、寛永年間(1624-1644)に、仁和寺古御所の御堂(子院の真光院本堂)を移築したという。この際に、仁和寺覚深法親王の御願、徳川家光の令旨により、板倉周防守により移築されたという。また、1634年、奈良の円照寺から寄進されたともいう。かつては南の妻部分が崖地に建てられた懸造だったという。正面に蔀戸、側面に舞良戸、内陣に小組格天井と折上小組格天井、外陣は格天井。本尊は室町時代の釈迦如来坐像を安置している。正面に1間の向拝付。桁行3間、梁間3間、一重、入母屋造、銅板葺。
 「鐘楼」は、傘形の化粧屋根裏になる。梵鐘に茶室「遺香庵」の創建にかかわった人々の名が刻まれている。
 
「法鼓台文庫(収蔵庫)」は、1959年に建立された。二階建、鉄筋コンクリート造。
◆茶室・庭園 茶室「遺香庵(いこうあん)は、1931年に明恵上人700年遠忌記念として、全国の茶道家の懇志により建てられた。1995年、京都市指定名勝に指定された。発起人は古美術商で民藝運動を支援した土橋嘉兵衛、実業家で茶人・高橋箒庵(そうあん)(義雄、1861-1937)らによる。数奇屋大工・3代・木村清兵衛の設計による。腰掛に鋳金工芸作家、歌人・香取秀真銘(1874-1954)の梵鐘がかかる。
 四畳台目隅板中柱出炉下座床の席は西に貴人口、南の中央に躙口、隅板に自然木で縁取った給仕口、中央に茶道口、右に色紙窓、風呂先窓、火灯窓が開く。床は赤松皮付、床框は杉面皮葺漆、床の間左に棚、地袋、炉は四畳半切。奴葺の屋根、深い庇、益田孝筆の木額「遺香庵」が掛かる。
 その北東に次の間、水屋、合の間、さらに広間(8畳、炉は四畳半切)は土庇付、予備室(3畳)が追加され接続している。大徳寺・興臨庵にも同じ茶席がある。数寄屋造。
 茶庭は、高橋箒庵指導の下、7代・小川治兵衛(1860-1933)の作庭による。伝い、露地、広間の露地からなる。腰掛は最上部にあり、茶庭を見下ろす珍しい形になっている。露地には飛石、蹲踞、灯籠が据えられる。貴人口の沓脱ぎ石は、石を寄せ集めて造られている。
 植栽はイロハモミジ、アセビ、ネズミモチなどからなる。1995年に京都市の指定名勝指定になった。
◆鳥獣人物戯画 紙本墨画「鳥獣人物戯画4巻(甲巻、乙巻、丙巻、丁巻)」(国宝)には、蛙、兎、猿、狐、猫、鼠、馬、鹿、梟、鶏、鷹などが遊ぶ様が擬人化されて描かれている。風刺的な内容であり、白描で詞書きはない。16世紀以降に寺にもたらされたものという。
 甲巻、乙巻は平安時代後期(12世紀後半)、丙巻は12-13世紀、丁巻は鎌倉時代(13世紀)の作といわれている。甲巻と乙巻では作風が違うともいう。甲巻の筆者は平安時代後期の天台僧・鳥羽僧正覚猷(1053-1140)ともいう。甲巻はかつて二巻だったともいう。作者として、平安時代後期の画僧・定智(生没年不詳)、平安時代後期の比叡山無動寺の僧・義清阿闍梨の名も挙がる。
 傑作とされる甲巻は兎、猿など11種の擬人化された動物による遊戯、法会が繰り広げられる。(30.4×1148㎝)
 乙巻は実在の牛、馬、鶏、象などとともに架空の麒麟、竜などを含め15種の家畜動物が登場する。(30.6×289㎝)
 丙巻は囲碁、将棋、競馬、蹴鞠、相撲、闘犬などをする人間風俗と後半の動物戯画による。(30.9×933㎝)
 丁巻は人物のみが登場し、曲芸、法会、流鏑馬、田楽舞、棟木引きなどの勝負事、芸能、行事を描いている。(31.2×113㎝)
 戯画は、比叡山延暦寺と三井寺の寺門争いを揶揄しているともいう。頽廃した貴族社会、宗教界、新興の武士を揶揄したものともいう。平安時代、戯画は「をこ絵」(烏滸絵、痴絵)と呼ばれた。「をこ」とは「愚か、馬鹿げた」の意味で、天台僧により、即興的に滑稽、諷刺的な絵が描かれていた。
 2009年から4年かけて行われた大規模な修理により、23枚目と11枚目は、紙を漉き乾かす段階での刷毛跡が繋がり、本来は1枚の紙であることが分かった。23枚目と11枚目は他の紙より小さく、合わせて1枚の大きさになっていた。絵巻にされてから切り離されたとみられる。当初の順番は現在と違い、現在の16-23枚目の後に、11-15枚目が続いていたという。
 現在、乙・丙巻は京都国立博物館に寄託、甲・丁巻は東京国立博物館に寄託されている。
◆文化財 国宝、重要文化財は数多い。「高山寺典籍文書類」9000点が一括指定されている。
 石水院の欄間に、寺名の起源になった後鳥羽上皇筆と伝えられる扁額「日出先照高山之寺(ひいいでて まずてらす こうざんのてら)」が掛る。裏書には「建永元年(1206年)丙寅十一月八日 別当民部卿藤原長房卿」とある。天皇の側近、鎌倉時代の公卿・藤原長房(1170-1243)が沙汰した。西面には「十無盡院」の額が掛る。
 
唐時代「冥報記」(国宝)。唐時代「玉篇 巻第二十七」(国宝)。南宋時代「不空三蔵像」(重文)。
 平安時代、1114年の「篆隷万象名義」(国宝)は、現存最古の日本製辞書とされる。
 鎌倉時代、明恵筆「大唐天竺里程書」(重文)は、長安から天竺までを踏破するための行程を調べ、日数を算定した。
 鎌倉時代、1220年明恵筆「入解脱門義」(重文)。夢見る事も修行の一貫であるとして、白日夢を含む赤裸々な夢の記録を40年間にわたり書き綴った『夢記』(1191-1230)(重文)がある。明恵筆『華厳信種義』(重文)がある。平安時代、玄証筆「梵天火羅図」(重文)。
 鎌倉時代の「高山寺尼経(善妙寺尼経)」は、明恵を悼み尼たちが華厳経などを写経した。明達という尼は、明恵を慕い、明恵没後、清滝川に入水したという。
 公卿・藤原兼実(1149-1207)寄進の「高山寺一切経」
 鎌倉時代の『華厳宗祖師絵伝(義湘絵、元暁絵)』(国宝、全7巻)。華厳宗を中国から新羅に伝えた義湘(634-702)と元暁(618-85)の経緯を描く。義湘大師絵、元暁大師絵からなる。義湘絵では、義湘の入唐留学、留学僧を慕い帰国する船を、龍に化身して守護した善妙の物語。元暁絵では、元暁の求法の行状が描かれる。
 鎌倉時代(13世紀)、明恵の弟子で詫間派の恵日房成忍筆という紙本着色「明恵上人像(樹上坐禅像)」(国宝)は、華宮殿の西にあった縄床樹(じょうしょうじゅ)という松の上で、坐禅を組む明恵の姿を描いている。讃は明恵によるといわれている。146×58.8cm。京都国立博物館寄託。
 鎌倉時代の「明恵上人坐像(持念珠像)」(重文)は、明恵の等身大の肖像画「生身供」ともいう。
 鎌倉時代の「明恵上人像(山中ノ御影)」、左手に経巻、右手に杖を持つ。 
 鎌倉時代「文殊菩薩像」(重文)、「(弥勒)菩薩像」(重文)、南北朝時代「熊野曼荼羅」(重文)、鎌倉時代「華厳海会諸聖衆図」(重文)、鎌倉時代「華厳宗祖師絵伝」7巻(国宝)には義湘、元暁の物語が描かれている。鎌倉時代「春和夜神像」(重文)、鎌倉時代「五聖曼荼羅図」(重文)。平安時代から鎌倉時代「禅宗六祖像」(重文)、鎌倉時代の藤原(近衛)兼経像」(重文)。
 鎌倉時代(13世紀)の「将軍塚縁起絵巻」(38cm×380cm)(重文)は、墨線により東山の将軍塚造営の様を描く。筆者不詳。平安時代、794年、第50代・桓武天皇は、遷都に当たり高さ8尺の武装した土人形を作り、都の守護神として立てて埋めた。絵巻には、人夫がもっこを担いで土を運ぶ様、塚穴に立つ甲冑姿の征夷大将軍・坂上田村麻呂の像が描かれている。
 明恵は、小さいもの弱いものを生涯愛し続けた。「木彫りの狗児」(重文)は、鎌倉時代、快慶作ともいう。
 鎌倉時代の小首を傾げた愛らしい「仔犬」(25.5㎝)の彫り物。湛慶作とみられている。木造、寄木造、彩色、玉眼。
 優しい表情の「神鹿」(重文)(牡51.3㎝、牝46.4㎝)は鎌倉時代作、石水院内春日・住吉明神の神殿前に祀られていた。湛慶作とみられている。木造、彩色、玉眼。
 鎌倉時代作の「獅子・狛犬」(重文)(獅子29.7㎝、27.3㎝、狛犬27.3㎝、27㎝)は湛慶作という。1225年に勧請された鎮守三社に祀られていた。木造、彩色。
 石水院に「善哉童子(ぜんざい どうじ)像」が置かれている。尺八大家で彫刻家の西村虚空(1912-2002)の一木造。善財童子は、仏教の童子の一人であり、『華厳経入法界品』などに登場する。明恵が賞嘆した。童子はインドの長者の子に生まれる。仏教に目覚め文殊菩薩の勧めにより、53人のさまざまな人々(善知識)を訪ねる。修行を積み、最後に普賢菩薩の所で悟りを開いた。菩薩行の理想者として描かれている。教えを乞うたのは比丘、比丘尼、女性、童女なども含まれていたという。
 鎌倉時代、「阿字螺鈿蒔絵月輪形厨子」(重文)。鎌倉時代「輪宝羯磨蒔絵舎利厨子」(重文)。 
 故郷の紀州湯浅沖の鷹島(たかしま、苅藻島とも)で拾ったという2つの小石、丸い「鷹島石」、焦がれた天竺蘇場率堵河(そばそつがわ)に由来する「蘇婆石」がある。明恵の歌、「われなくて後に偲ばむ人なくば飛びてかへれね鷹島の石」「遺跡を洗へる水も入る海の石と思へばなつかしきかな」。蘇婆石は楕円形の黒石に白い一本の線が入る。明恵の墨蹟がかすかにある。石は弟子の高信(1193-1264)、帰依した権中納言・富小路盛兼を経て寺に戻された。
 明恵の母のものという櫛がある。金泥で「南無阿弥陀仏」と記されている。タツノオトシゴのミイラがある。
 南宋時代の「柿蔕(かきのへた)茶入」(漢<あや>柿形茶壺、漢の小柿<あやのこべた>)は、糸切に高山寺の墨書がある。栄西はこの壺に茶の実3粒を入れて明恵に贈ったともいう。径2寸、高さ1寸4分。
 鎌倉時代の跪いた雌雄の阿吽形、木造彩色「神鹿」(重文)は、湛慶(1173-1256)作ともいう。勧請された春日社の狛犬の代わりに祀られていた。
 鎌倉時代の木造彩色、阿形、吽形の「狛犬」(重文)は、1225年、湛慶作とされ3対ある。
 木彫の「馬」は鎌倉時代、運慶(?-1223)作ではないかとみられる。目を見開き、口を開いて嘶いている
 金輪寺(亀岡市)関係の古文書4点が伝えられている。金輪寺には、かつて奈良時代作、医師・丹波康頼(912-955)の念持仏とされていた薬師如来坐像が安置されていた。康頼の6代後裔・丹波基康により寄進されたものという。その際に、像内に1尺8寸(58cm)の金の仏像が納められていた。鎌倉時代、1240-1250年、金輪寺中興開山・高信の時、「薬師如来」(73.6cm)は高山寺に遷された。高信は明恵の高弟だったという。像は手に薬壺を持たない。木心乾漆造漆箔。現在は京都国立博物館に保存されている。
 近代の博物学者・南方熊楠(みなかた くまぐす、1867-1941)が真言宗高野派に宛てた書簡38通がある。
◆石造物 岩水院の入口にある笠塔婆の「下乗石(笠塔婆)」(重要美術品)は、鎌倉時代の基礎に方形の塔身、笠。宝珠が一石で造られている。銘によれば、明恵は、栂尾山中で練行場7か所があり、その一つの遺跡窟跡になる。1233年に木標が立てられ、1322年に石標に改めた。1.7m、花崗岩製。
 
開山堂の「織部(キリシタン)燈籠」は、東大寺、仁和寺より寄進されたものという。開山堂の梵字の石碑「阿字石」は、茶畑より発見されたという。
 御廟の「宝筺印塔」(重文)は、日本で最も古い型という。特徴として基礎が低く、塔身が長い。隅飾りが大きく馬耳状になっている。明恵に帰依した富小路盛兼の寄進という。鎌倉時代の形式に先立つものとして重要視される。宝篋印塔は4基、「石水院」(1321)、「華宮殿」(1321)、「羅婆坊」(1402)、「遺跡窟」(1321)がある。高山寺型、高さ2.4m。花崗岩製。
 
宝篋印塔の右に並ぶ2基は「如法経塔」(重文)であり、この石の下に法華経が埋められた。「妙法塔」と刻まれ、下から方形の基礎、方形の塔身、軒が反る宝形造の笠石、その上に宝珠がのる。鎌倉時代、高さ1.34m、花崗岩製。
 
楞伽山の開山堂付近にある「仏足石」は、明恵の遺跡の一つで聖跡とした。江戸時代、文政年間(1818-1830)に復元された。かつて置かれていたものは図形が摩耗したという。卍字文、宝剣、双魚文、宝花瓶、宝螺文、千幅輪、梵王頂相文が描かれている。
◆文学 吉田兼好『徒然草』144段に、明恵についての記述がある。「栂尾の上人」として登場し、馬洗う男とのやり取りをする。
 法鼓台道場前庭に、俳人・富安風生(1885-1979)の句碑「秋更や茶園春よりみどりにて」が立つ。1969年建立。
 川端康成の『古都』では、千恵子は友人・真砂子とともに寺を訪れ、石水院より向かいの山を眺める景色が好きだと語った。
◆石碑・句碑 「栂尾山 高山寺」の石碑が表参道に立つ。近代の文人画家・儒学者・富岡鉄斎(1837-1924)筆により、1924年に建立された。碑は京都の地卸商の三宅清治郎が、父・安兵衛の遺志碑として建立した。これらの石碑群は、1921年から1930年にかけ、府下400か所あまりに建立されたという。石碑の裏面に「京都三宅安兵衛依遺志建之」とあり、「京都三宅安兵衛遺志碑」と呼ばれている。ただ、すべては確認されておらず、他方で消失しつつあるという。
 
御廟に、笠石塔婆が立つ。明恵が詠んだという「山のはにわれも入りなむ月も入れ夜な夜なごとにまた友とせむ」の歌碑になる。小川良子筆。
 
御廟の「笠石塔婆」(重文)には、明恵の遺訓「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」碑。「僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。‥我は後世にたすからんという者に非ず。ただ現世にまずあるべきようにてあらんと云う者なり」とある。1969年に住職の小川義章により立てられた。同氏筆。
 「ひぐらしや ここにいませし 茶の聖(ひじり)」、水原秋桜子(みずはら しゅうおうし、1892-1981)が立つ。水原秋桜子は、俳人、医学博士であり、1924年から虚子の主宰する『ホトトギス』に参加、後に独立した。1934年、俳誌『馬酔木』を主宰した。
歌謡曲 1965年に制作されヒットした「女ひとり」(東芝レコード)は、作詞・永六輔、作曲・いずみたくにより、デューク・エイセスが歌った。ご当地ソングの先駆けといわれている。歌詞には、三千院、高山寺、大覚寺が登場する。
◆樹木 石水院前にシャクナゲがある。
 紅葉の名所として知られている。カエデ、メタセコイアの巨木があり紅葉する。ツガがある。
 なお、和歌山県湯浅町の施無畏寺のナギは、高山寺より来た明恵の手植えと伝えられている。
◆墓 明恵は楞伽山(りょうがせん)山腹に向って坐禅をしたという。その地には現在、開山廟、明恵上人御廟があり、覆屋内に五輪塔がある。石造妙法経塔、歴代の真言宗僧侶・土宜法龍(1854-1923)、土宜覚了、27世・小川義章、天台宗の僧・28世・葉山照澄(1803-1989)らの五輪塔が立てられている。
 清滝川対岸、深瀬三本木に摂関・近衛家、鷹司家の墓地がある。鎌倉時代、両家は氏寺として庇護した。
◆映画 時代劇映画「新諸国物語 笛吹童子 第三部」(監督・萩原遼、1954年、東映)の撮影が行われた。
歌謡曲 1965年に制作されヒットした「女ひとり」(東芝レコード)は、作詞・永六輔、作曲・いずみたくにより、デューク・エイセスが歌った。ご当地ソングの先駆けといわれている。歌詞には、三千院、高山寺、大覚寺が登場する。
畑の姥 室町時代、梅ヶ畑の人々は、朝廷に杉材、菖蒲などを献上した。江戸時代、供御人として、杉材、柴などを献上する。
 「畑の姥(はたのうば)」と呼ばれた女性たちは、男たちが作った梯子、鞍掛、床几を頭に載せて都に売りに出た。これらは「畑の姥商法」と呼ばれた。
◆年間行事 新年法要(1月1日)、明恵上人生誕会(1月8日)、明恵上人命日忌(明恵上人坐像開扉)(1月19日)、釈迦涅槃会(2月15日)、春季彼岸会(彼岸中日)、釈迦誕生会(4月8日)、茶摘み(5月中旬)、盂蘭盆会・施餓鬼会(8月15日)、秋季彼岸会(彼岸中日)、献茶式(宇治茶の製造業者から新茶が上人廟前に献上される。明恵上人坐像開扉)(11月8日)。


*一般的な順路にしたがって案内しています。石水院の建物、室内は写真撮影禁止、一部撮影許可を受けています。
*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月は旧暦を使用しています。

*参考文献 『古寺巡礼 京都 32 高山寺』『旧版 古寺巡礼 京都 15 高山寺』『私の古寺巡礼』『京都・山城寺院神社大事典』『昭和京都名所図会 4 洛西』『京都大事典』『京都・美のこころ』『京都の仏像』『京都仏像を訪ねる旅』『京都・世界遺産手帳 6 高山寺』『明恵上人』『社寺』『国宝への旅 2』『京都の寺社505を歩く 下』『事典 日本の名僧』『京都の地名検証 2』『洛西探訪』『京都 古都の庭をめぐる』 『京の茶室 西山 北山編』『京の茶室 東山編』『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』『増補版 京の医史跡探訪』『京都はじまり物語』『大学的京都ガイド こだわりの歩き方』『京都歩きの愉しみ』『京都古社寺辞典』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『京都隠れた史跡100選』『京都で日本美術をみる』『中世を歩く 京都の古寺』『京都 神社と寺院の森』『週刊 仏教新発見 20 高山寺 神護寺』『週刊 日本の仏像 第12号 神護寺 国宝薬師如来と五大虚空蔵菩薩』『週刊 古寺を巡る 36 高山寺』 


  関連・周辺為因寺      関連・周辺善妙大明神      関連・周辺神護寺       周辺西明寺      関連萬福寺(宇治市)       関連延暦寺・東塔(大津市)      関連金輪寺(亀岡市)        

宝篋印塔、如法経塔(重文)

明恵の楞伽山の遺跡
開山堂周辺

仏足石

仏足石

楞伽山(りょうがせん)中腹にある旧石水院跡、かつては現在地より高台に位置していた。

旧石水院跡

境内には多くの杉の巨木が茂っている。

春日明神社、1981年に再興された。

春日明神社、明恵が奈良より勧請したものという。藤原氏の長者に就いた者は最初に参詣していた。


金堂

金堂の内陣

金堂の裏にある湧水、閼伽井

宝塔、写経が納められている。1981年建立

明恵は、楞伽山の樹上や岩上で坐禅したという。「すべてこの山の中に面の一尺ともある石に、わが坐せぬはよもあらじ」(『明恵上人伝記』)

金堂から木立の中の石段を見下ろす。

金堂道、金堂の石段を見上げる。

【参照】平安時代の高山寺の復元模型、京都アスニー
周山街道

清滝川に架かる白雲橋、道は周山街道

清滝川、奥の山は向山。石水院の借景。

清滝川

【参照】白雲橋の袂にある「茶山栂尾 宇治茶発祥地」の石碑

「宇治茶発祥地」と刻まれている。

【参照】茶の実

【参照】山の斜面のツツジ
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