親鸞聖人御旧跡きらら坂・雲母寺跡比叡山 (京都市左京区)
Kirarazaka
きらら坂・雲母寺跡 きらら坂・雲母寺跡
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「親鸞聖人御旧跡きらら坂」の石標




きらら坂


音羽川沿いに見える比叡山(左手奥)、山頂まで2時間30分-3時間ほどかかる。


比叡山


音羽川流域にはかつて白川石の石切場があった。白川石工という言葉は、平安時代以来あったという。近世以降、白川石、白川砂が造園用などに利用されるようになった。
川は、1972年の水害以来、砂防工事が行われている。



きらら坂、さらに山に入ると、岩の間に細い道が続いている。修学院から東塔・根本中堂までは、約6.6㎞、3時間の道程になる。水飲対陣之跡碑、千種忠顕卿戦死之地碑、山頂、鎮護国家碑、山王院脇を経て東塔に至る。



ケイ酸塩鉱物、山道の山肌に露頭している。



音羽川にかかる雲母橋
 修学院鷺森から東北へ、音羽川沿いに向かうと比叡山(843m)が目に入る。この山道を雲母(きらら)坂という。夕雲がかかると洛中からは坂に雲が生まれるようであることから、雲母坂といわれたともいう。
 山道は、比叡と京都を結ぶ最短の道であり、古くより高僧たちが往来してきた信仰の道でもあった。
◆歴史年表 平安時代以来、比叡山と京の都を結ぶ道として栄えた。近江穴太(あのう)に通じる古路越と、坂本に通じる今路越が通じていた。 
 平安時代、天台宗開祖・最澄(767-822)が通り抜けた道だった。
 平安時代末期から鎌倉時代初期、浄土宗開祖・法然(1133- 1212)も使った。
 鎌倉時代の浄土真宗の開祖親鸞(1173-1263)は、六角堂(頂法寺)に参詣する際にも比叡山との往還に通った。日蓮宗(法華宗)宗祖・日蓮(1222-1282)、日本曹洞宗の開祖・道元(1200-1253)も利用したという。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、比叡山の僧兵(山法師)は、日吉神社(大津市)の御輿を担ぎ坂を下り都に向かい、摂関家への御輿振り、強訴(ごうそ)を行っていた。
 南北朝時代、1336年、足利尊氏の同母弟・足利直義(1306-1352)の軍と戦った公卿・千種忠顕は、山城国愛宕郡西坂本の雲母坂で戦死している。
 室町時代、1396年、延暦寺大講堂の落慶法要に際して、雲母坂より比叡山に向かう足利義満の輿を担いだのは八瀬童士だった。八瀬童士は、以後、足利家の輿を担ぐ。
 1434年、6代将軍・足利義教は、比叡山衆徒が鎌倉公方の足利持氏と通じたため延暦寺を攻撃した。
 安土・桃山時代、1571年、織田信長は比叡山を焼討している。
雲母坂 雲母(きらら)坂は、鷺森神社の北から林丘寺の東、比叡山の四明ヶ岳、東塔までの約5.7㎞の道のりで、急峻だが比叡山への最短距離だった。また、千日回峯者の赤山苦行、京都大廻りの道にもなっている。
 平安時代以来、比叡山と京の都を結ぶ道として栄えた。近江穴太(あのう)に通じる古路越と、坂本に通じる今路越が通じていた。
 「きらら」とは、周辺の土砂に見られる鉱物(ケイ酸塩鉱物)のグループ名で、結晶がキラキラと光に輝くことから「きらら」、「きら」とも呼ばれたことから名づけられたともいう。
 また、諸山の中で最高峰の比叡に雲湧くことから、この坂が雲を生むと見えたことに起因するともいう。
 坂にはさまざまな名がつけられている。都から勅使が比叡に参向するために使ったため「勅使道」、修行僧が通るので「禅師坂」ともいわれた。また本坂に対して「西坂」、「表坂」、水飲(みずのみ)を越えるので「水飲越」、途中にあった無動寺の不動尊に因み「不動坂」とも呼ばれたという。
◆雲母寺 平安時代、847年、唐より帰国後の円仁はこの地、旧雲母寺付近で、比叡山に登る際に暫し休んだという。
 雲母寺(うんもじ/きららじ)は、平安時代末期の883年、また元慶年間(877-884)、天台宗の相応により創建された。比叡山延暦寺東谷西谷に属した。
 雲母坂の登り口、音羽谷にあり、門、堂は南面し、2600坪の境内を有したという。平安時代の伝教大師(最澄)自作ともいう本尊・不動明王立像(八尺、約2.4m)が祀られていた。江戸時代初期の文人・石川丈山(1583- 1672)筆による「雲母寺」の横額が掲げられていたという。
 近代、1885年に延暦寺直轄となる。その後廃寺になった。本堂(雲母不動堂)と本尊・不動明王は赤山禅院に遷された。
 西光が京都七口に建立した地蔵堂のひとつがあった。その本尊だった地蔵菩薩は帰命院(山端森本町)に遷され、いまは山端地蔵と呼ばれている。また、禅華院にも石仏(1126)が遷されたという。
◆親鸞 平安時代-鎌倉時代の僧・親鸞(しんらん、1173-1263)。京都の日野(伏見区)に長男として生まれた。父は藤原北家の流れをくむ日野有範。母は源氏の出身。幼くして両親を失う。1181年、叔父・日野範綱に連れられ、1181年、9歳で青蓮院・慈円のもとで出家得度し範宴(はんねん)と称した。以後、比叡山横川首楞厳院の堂僧として20年間修行を続けた。東塔無動寺谷の大乗院で修業する。1201年、29歳の時、比叡山を下り、六角堂に参籠、師・源空(法然)の導きにより、浄土教に帰依した。1204年、法然が定めた「七箇条制誡」弟子のひとりとして連署する。1205年法然は『選択本願念仏集』の書写、法然肖像を描くことを許す。1207年、承元(じょうげん)の法難により、専修(せんじゅ)念仏停止(ちょうじ)にともない、35歳で越後に流罪になり、僧籍剥奪される。禿釈親鸞と自称する。1211年、赦免され、1214年、42歳で妻・恵信尼、子らとともに関東での布教を行った。晩年、1235年頃、恵信尼らと別れ、末娘・覚信尼と京都に戻る。1256年長男・善鸞を義絶した。弟・尋有の善法坊で90歳で亡くなったという。浄土真宗の祖。
 浄土真宗の教義が体系化された6巻からなる『教行信証』(1224)などを著した。この年に立教開宗し、「非僧非俗」を宣言した。罪深い身である者は、阿弥陀仏の本願力を信じ、念仏を唱えることが基本であるとした。絶対他力の自然法爾、悪人こそが本願により救われるという悪人正機を唱えた。
◆千種忠顕 鎌倉時代から南北朝時代の公卿・千種忠顕(?-1336)は、第96代・後醍醐天皇(1288-1339)の信任厚く、1331年、元弘の乱で隠岐に流された天皇に従った。建武政権下では結城親光、楠木正成、名和長年らと共に「三木一草」と称され、権勢を振った。足利尊氏 (1305-1358)により政権が瓦解し、尊氏の異母弟・足利直義(1306-1352)の軍と比叡山麓西坂本で戦い、雲母坂で戦死した。
 比叡山山中に戦死した場所という「水飲対陣之跡」、「千種忠顕碑」、「忠顕塚」などが立てられている。
◆足利直義 鎌倉時代から南北朝時代の武将・足利直義(1306-1352)。足利貞氏の子。異母兄・尊氏とともに建武政権樹立に貢献した。1335年中、先代の乱で建武政権と決別する。室町幕府では尊氏を補佐した。観応の擾乱(1350-1352)以後、尊氏と対立、和睦後戦い降伏した。鎌倉で暗殺されたといわれている。
 妻、本光院殿(渋川貞頼の娘)は、尼寺・本光院を開山した無説尼とみられている。
◆雲母坂城 築城年など詳細は判明していないが、雲母坂沿いに築かれた城があった。東端に虎口があり、土塁で固められていた。現在も主郭跡、土塁遺構がある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『日本の名僧』『足利義満と京都』


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「雲母寺(うんもじ)跡石碑」、登山道入り口に立つ。碑のある場所へは近年に移されたものという。周辺には、この石標しか見当たらない。

雲母寺の石垣跡?

「水飲対陣之跡」(1921年建立)碑、1336年6月7日、千種忠顕戦死の地という。山の中腹にある。延元元年の乱で中将・忠顕は官軍の将となり、後醍醐天皇守護のため四明嶽を守った。敵軍は西坂の三方より攻撃をしかけた。官軍は水飲の地を攻め対陣する。翌6月8日、敵軍・足利尊氏の大軍が後方より攻撃をしかけ、忠顕は水飲の地で戦死したという。(『太平記』)

きらら坂途中からの京都市内の景観

「浄刹結界跡」の石標、延暦寺の結界を示すという。「水飲(上ノ水飲)」にある。比叡山中興の祖・良源(慈恵大師)が定めたという。12年籠山僧は、これより下に降りてはいけなかった。石標は1921年建立、山の中腹の山道脇にある。

「浄刹結界跡」を守るかのように立つ小さな石像

「千種塚旧跡」、山頂近くの山道から分かれた「西坂」の杉の植林地内にある。

「脱俗院跡」の碑、千種塚旧跡にあり、かつて脱俗院(だつぞくいん)という寺が存在した。最澄の企画した十六院の一つで、水飲堂、本地地蔵ともいい地蔵菩薩を安置していた。向真院、而二門とも称したという。脱俗の意は、西坂を登って延暦寺に向かう人は、ここで垢衣を脱いだことに由るという。

「千種塚跡」の道標

「千種忠顕(ちぐさただあき)」碑、山頂近くの小さな尾根にある。

ケーブルカー駅付近からの京都市の眺望

鎌倉時代の「やどり地蔵」、子どもが宿るの意という。ケーブルカー駅付近にある。

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 親鸞聖人御旧跡きらら坂・雲母寺 京都市左京区修学院音羽谷 

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