日吉東照宮 (滋賀県大津市)
Hiyoshi-toshogu Shrine
日吉東照宮 日吉東照宮
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四脚唐門

四脚唐門、極彩色に彩られている。


拝殿は桁行五間、梁間二間、一重、入母屋造、銅瓦葺、正面屋根は軒唐破風、後方は千鳥破風になっている。 


拝殿


拝殿


拝殿、独鈷


拝殿


拝殿



本殿、中央に徳川家康(1542-1616)、右に日吉大神、左に豊臣秀吉を祀るといわれている。かつては左に摩多羅(またら)神を祀ったという。近代、神仏分離令(1868)後の廃仏毀釈により、秀吉に変えられたともいう。摩多羅神は天台宗独自の神であり、円仁と関わりが深いという。往生を邪魔し、往生を助ける。芸能神でもあるというのは、念仏をあげる後ろで跳ね踊り、出鱈目な読経をする。これは、修行の邪魔をする天狗を調伏するためという。

 日吉大社末社の日吉東照宮(ひよし とうしょうぐう)は、比叡山東麓、坂本に位置し、「関西の日光」と呼ばれている。
 祭神は徳川家康、右に日吉大神、左に豊臣秀吉(日吉山王摩多羅神とも)を祀る。
◆歴史年表 江戸時代、1623年、天台僧・天海により創建された。当初は延暦寺の末寺だった。
 寛永年間(1624-1643)、再建着工されている。
 1634年、3代将軍・徳川家光の許可を得て、日光東照宮より遷宮した。勅使を迎え、正遷座(神霊を仮殿、権殿から本殿へ遷し奉る祭儀)が斎行されたという。
 1636年、完成した。
 1645年、小堀遠州奉行により、天海廟(慈眼堂)が建立された。
 近代、1876年、日吉大社の末社となった。
◆天海 室町時代-江戸時代前期の僧・天海(てんかい、1536?-1643)。詳細不明。諡号は慈眼大師。陸奥に生まれた。1546年、11歳で天台宗・龍興寺に入る。1549年、天台の高僧・皇舜の弟子になる。1553年、比叡山に上り学僧になる。三井寺、興福寺で学んだという。上野・長楽寺、1566年、上野・善昌院住持。1571年、各地を旅する。1590年、武蔵国・無量寿寺北院(後の喜多院)住持、この頃、徳川家康と会う。1599年、仙波喜多院に入る。1600年、関ヶ原の戦い後、江戸幕府成立に関わる。1607年、家康の命により比叡山探題執行として南光坊に住し、延暦寺を再興し、天台宗中興の祖とされる。1613年、無量寿寺が家康により喜多院に改められ住持に就く。大坂の役(1614-1615)の発端になった、1614年、方広寺鐘銘事件にも関与した。1616年、家康没後、1617年、家康の遺体を久能山から日光山に改葬した際に、崇伝が吉田神道により家康を「大明神」とした葬儀に対し、天海は山王一実神道形式により「東照大権現」とした祭儀に決めさせ、以後勢力を伸張させた。1625年、忍岡・東叡山寛永寺を創建した。寛永寺で亡くなる。
 紫衣事件(1627-1629)の特赦を数多く嘆願し、沢庵宗彭の赦免にも奔走した。1637年より天海が関わった日本初の版本『寛永寺版(天海版)大蔵経』6323巻は、没後の1648年に完成した。家康、秀忠、家光の3代にわたり政治に関与し、「黒衣の宰相」と呼ばれた。
◆徳川家康 江戸時代の江戸幕府初代将軍・徳川家康(とくがわ いえやす、1543-1616)。三河国岡崎の城主・松平広忠の子。駿河国の今川氏の人質として十数年間過す。1560年、桶狭間の戦いで今川氏が敗れ岡崎に帰る。1564年、織田信長と同盟し、三河一向一揆を平定、徳川姓に改めた。1573年、三方ヶ原の戦以後、戦を続け、1582年までに三河など東海の大大名になった。1584年、豊臣秀吉と小牧・長久手の戦いで争い、後に和解、秀吉に協力した。1590年、小田原平定後、江戸城を本拠とし関東を治め、五大老の筆頭となる。1600年、関ヶ原の戦いに勝ち、1603年、征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開いた。1605年、わずか2年で子の秀忠に将軍職を譲り、実権は握り続けた。1609年、朝鮮との国交を回復する。1615年、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、天下統一になる。同年、武家諸法度と禁中並びに公家諸法度を制定武家諸法度を制定し、全国の大名に対して統制を強めた。
 没後、遺骸は当初久能山に葬られ、後に日光東照宮に改葬された。関ヶ原の戦い後、1609年(1607年、1608年とも)、信厚かった天海に帰依した。
◆山王神道
 奈良時代末期、インドを発祥とする本地仏が日本にすでに伝えられていた。神々とは、仏の衆生のみならず、本地インドの仏、菩薩が日本に迹(あと)を垂れ、救済のために仮に現れたもの(権現)とする本地垂迹説だった。
 平安時代初期、南都六宗に抗して新しく台頭した天台宗は、比叡山延暦寺を開くにあたり、地主神の比叡の神を取り込む。日吉山王社は天台教の護法神になる。
 山王については、最澄が入唐した天台山国清寺で、地主山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)を守護神として祀っていたことに因み、比叡山の守護神・日吉大神を「山王権現」と称したことに始まる。
 平安時代中期、神社内に神宮寺が建立され、神仏習合の傾向が深まる。
 平安時代末期-鎌倉時代、天台神道(山王一実神道)が成立した。釈迦仏は、日吉山王権現大比叡神の本地仏とされた。神仏習合の三王(和光同塵)とは、大山咋神(大比叡神)、大己貴神(小比叡神)、宇佐八幡(聖真子=阿弥陀如来)を主体とした。
 鎌倉時代後期-南北朝時代、吉田神道から出た延暦寺僧の慈遍、さらに吉田兼倶の唯一神道との融合があった。
 また、「山王」の「山」の文字は、縦の「三」と横の「一」の組み合わせであり、逆に「王」は、横の「三」と縦の「一」の組み合わせであるとした。この三画は空仮中の三諦(空諦・仮諦・中諦。あらゆる事象を3つの観点から捉え、相互に完全無欠)であるとし、天台教学の一念三千(日常の人の心中には、全宇宙の一切の事象が備わる)、また、一心三観(円融三観、一切の存在には実体がないと観想する空観(くうがん)、仮に現象しているとする仮観(けがん)、この二つも一つであるとする中観(ちゅうがん)を、同時に体得すること)を表しているとした。
 江戸時代、徳川家康没後の神号を巡り、天台宗の天海は臨済宗の金地院崇伝、家康側近の本多正純らと争う。天海は、「権現」として山王一実神道で祀ることを主張し、神号を「明神」とした吉田神道を退けた。天海は、家康を「東照大権現」としして祀り、久能山より日光山に改葬し、以後、勢力を伸長させた。
◆摩多羅神 祭神の一つ、日吉山王摩多羅(またら)神は、円仁が唐より帰る船中で感得したという障がいを除く障碍(しょうがい)神といい、比叡山の常行堂に勧請したという。以後、平安時代末期以降は念仏の守護神、護法神となる。冥府信仰、夜叉神信仰、北斗七星に象徴される星宿信仰の陰陽道、また室町時代以降は、大黒天信仰の福神信仰と混同され、台密の玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)、近世には東密の真言立川流にもつながったという。摩多羅神は、天台宗儀式の玄旨帰命壇の本尊であり、念仏の守護神とされた。
◆建築 「透塀」(重文)に周囲を囲まれ、正面に「唐門」(重文)がある。
 入母屋造の「社殿」(重文)は、江戸時代、1634年に権現造の様式で改築された。
 権現造は石間(いしのま)造ともいわれ、本殿と拝殿を板敷の「石間(中殿、幣殿)」で繋ぎ、一連の建物にしている。ただ、当宮は、拝殿から本殿に伸びた梁が本殿まで達しておらず、その軒下で止まっているという。間の石間部分は、数段低く造られており、祭典奉仕者が将軍に対して、背を向けても非礼にならないように配慮されたともいう。建物全体が、漆塗り、極彩色の彫刻で装飾されている。
 起源は、仏寺の開山堂とも、切妻造・平入りの建物が前後に二棟並ぶ八幡造ともいう。すでに奈良時代の双(ならび)堂、平安時代に北野天満宮、安土・桃山時代の豊国神社、江戸時代には日光東照宮(1616)、久能山東照宮(1617)でも用いられた。徳川家康を神格化した東照大権現を祀ったことから、権現造といわれるようになる。
 1636年に日光東照宮が再建着工され、正遷座されたことから、1634年に再建し正遷座した日吉東照宮が日光東照宮の雛形になったともいう。また、権現造りの建築様式は、徳川3代大将軍・家光(1604-1651)上洛の際に、延暦寺の天海(1536?-1643)に命じて考えさせたともいう。
 かつて「東照宮橋(権現橋)」が架けられていたが、1935年の洪水により流出したという。
◆文化財 天海筆棟札「南無東照三所大権現 元和九年九月十六日敬白」。
◆年間行事 例祭(6月1日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『比叡山諸堂史の研究』『闘いと祈りの聖域 比叡山史』『事典 日本の名僧』『日本の名僧』『京都「癒しの道」案内』 


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上は熨斗の装飾

石の間の内部、床は本殿(左)、拝殿(右)より数段低く造られている。

外から見た石の間、桁行三間、梁間一間、一重両下造、銅板葺、本殿(右)と拝殿の間に板敷の石間がある。

左の本殿、桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、銅瓦葺、右は拝殿

三つ葉葵紋

千木

透塀(重文)
 日吉東照宮 〒520-0113 滋賀県大津市坂本4丁目2-12  077-578-0009
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