長泉寺 (京都市右京区)
Chosen-ji Temple 
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「兼好法師旧跡」の石標








【参照】境内の向かいの土堂児童公園には、「オムロン発祥の地」の碑が立つ。かつて、日本キネマ双ヶ丘撮影所があった。
 仁和寺の南、雙ヶ岡(双ヶ岡、双岡)東麓にある尼寺の長泉寺(ちょうせんじ)は、吉田兼好とゆかり深い寺といわれ「兼好塚」がある。 
 浄土宗、本尊は阿弥陀如来像。
◆歴史年表 創建の詳細は不明。
 かつて、この地は、仁和寺の寺領だったという。
 鎌倉時代末期、随筆家・吉田兼好(1283-1352)が、この地に草庵を結んだともいう。無常所を設け、桜の木を植えたという。
 安土・桃山時代、文禄・慶長の役(1592-1598)の際に、日本に連行された高麗の人が開いたともいう。
 江戸時代、1704年、元禄年間(1688-1704)とも、兼好を偲び建てられたともいう。この時、兼好の墓も遷されたともいう。
◆吉田兼好 鎌倉時代-南北朝時代の随筆家・歌人・吉田兼好(よしだ けんこう、1283-1352)。部兼好、兼好法師。吉田神社の神職・治部少輔卜部兼顕、母は金沢貞顕の執事倉栖の娘。公家の堀川家の家司となる。1301年、第94代・後二条天皇即位により、六位の蔵人として仕える。1307年、左兵衛佐となる。鎌倉で歌作し北条氏と関わる。1308年、天皇の死去により退く。1313年以前、政争に嫌気がさし出家、山科小野庄に隠棲し兼好と称した。関東に出て小野庄に戻り、1319年頃、『徒然草』(序-32章)を書いたとみられる。1337年、全段完成した。歌人としても知られ、『続千載集』『続後拾遺集』等にも収められ、二条為世に学び、和歌四天王(ほかに頓阿、浄弁、慶雲)の一人にも数えられる。
 修学院、木曽、吉田、鎌倉、武蔵野など各所を経て、当時、仁和寺境内だった双ヶ丘に草庵を設け、244章段の随筆集『徒然草』を著したとされる。晩年は伊賀国に移り死去したという。その遺志に従い、双ヶ丘二ノ丘西麓辺りに葬られたともいう。江戸時代中期、1704年頃、長泉寺境内に墓が移されたともいう。京都では双ヶ丘以外に、修学院、山科小野、横川などに住したとされる。
◆徒然草 「つれづれなるまゝに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」で始まる『徒然草』(1330?-1331?)は、日本の三大随筆のひとつに数えられている。(ほかに清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』)。
 当時は、鎌倉幕府の崩壊、第96代・後醍醐天皇の建武政治、それに反した室町幕府とその後の南北朝二朝の対立など、混沌とした時代背景があった。
 『徒然草』には、長泉寺に近い仁和寺の法師の話も多く書かれている。
 第52段「和寺にある法師」では、老いた法師が、初めて石清水の八幡宮に参拝し、大いに満足して帰る。だが、肝心の山頂の本殿には参らず、下の末社のみを拝していた。
 53段「これも仁和寺の法師」には、宴席で酔った法師が、酔狂のあまり足鼎(あしながえ)を頭に被ってみる。だが、ついに取れなくなり、医者に行く騒ぎになる。周りが力任せに引っ張り、耳や鼻が欠けたものの、何とか抜くことができる。
 第60段「真乗院に盛親僧都」では、大食漢の僧が師匠没後、譲られた金のすべてを好物の芋頭に使ってしまう。だが、その高徳のためか、全ての我儘を人々から許されたという。
◆文化財 本堂に江戸時代中期作の、書を広げた兼好の木造坐像が安置されている。作者不詳。
 兼好自筆と伝わる60首の句の巻物、清閑院某の署名がある歌の掛軸、江戸時代初期の徒然草の写本などがある。ただ、いずれも後世の寄進物ともいう。
◆兼好井 双ヶ岡の一の丘より二の丘の間付近、丘の西側に井戸が残されている。地元では「兼好井」「草子の井戸」とも呼ばれ、かつて兼好の庵の中にあったともいう。
◆映画 境内の東向かいに土堂児童公園がある。この付近一帯には、1928年、映画の日本キネマ双ヶ丘撮影所が建てられた。マキノを脱退した映画俳優・片岡千恵蔵(1903-1983)、映画俳優・映画プロデューサー・嵐寛寿郎(1902-1980)らによる日本映画プロダクション連盟の拠点になる。ただ、結成直後より、6つあったプロダクションは次々にほかへ移る。
 武井竜三プロの後、1931年、嵐寛寿郎は再びプロを興し、新興キネマと連携しこの地で製作した。山中貞夫監督「磯の源太・抱寝の長脇差」(1932)、入江たか子プロにより溝口健二監督「滝の白糸」(1933)などが完成する。1935年より松竹第二撮影所(市川右衛門プロ)になる。1944年に立石電気本社と変遷し、1950-1951年は工場内で宝プロ(映画プロデューサー・高村将嗣<1891-1967>)による新東宝の撮影が行われた。
 長泉寺は一時、俳優部屋としても用いられたという。境内南の銭湯「御室湯」には、嵐寛寿郎らの役者が通っていたという。
 境内には、兼好の墓と伝わる「兼好塚」がある。ただ、江戸時代、元禄年間(1688-1704)のものともいう。
 その隣の歌碑には「ちぎりをく 花とならびの をかのへに あはれいくよの春をすぐさむ」と刻まれている。歌集詞書に次のように記されている。「ならびの岡に無常所を設けて傍らに桜を植ゑさすとて」。歌碑には、1893年の伊藤吉祐の寄進の銘がある。


*非公開
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『洛西探訪』『京都隠れた史跡100選』『京都府の歴史散歩 上』『京都歩きの愉しみ』『京都シネマップ 映画ロマン紀行』『シネマの京都をたどる』『週刊 古寺名刹巡拝の旅 26 吉田山と白川』


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