龍吟庵 〔東福寺〕 (京都市東山区) 
Ryogin-an Temple
龍吟庵  龍吟庵
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渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)に架けられた橋廊・偃月(えんげつ)橋を渡って龍吟庵、即宗院にいたる。


庫裏


方丈(国宝)


開山堂


開山堂の扁額「霊光」








 東福寺塔頭のひとつ龍吟庵(りょうぎんあん)は、東福寺境内の東に位置している。「国宝龍吟庵」とも呼ばれている。 
 臨済宗東福寺派、本尊は宝冠釈迦如来。
 御朱印(特別公開時)が授けられる。
◆歴史年表 鎌倉時代、1291年、東福寺3世・大明国師(無関普門)の創建による。国師最晩年の住房であり、同年に当庵で亡くなる。没後、塔所とされた。
 南北朝時代、1387年頃、現在の方丈が建てられる。現存日本最古の建物となる。
 安土・桃山時代、1603年、現在の庫裏が建立された。
 江戸時代、1823年、龍吟庵の開山像を東福寺に遷す。
 近代以降、荒廃する。
 その後、復興された。
 現代、1961年、無関禅師の骨蔵器、経筒などが庫裏の北側から発見された。
 1964年、現代の作庭家・重森三玲により庭園が造られる。
 1975年、現在の開山堂が建立された。
◆無関普門 鎌倉時代の臨済宗の僧・無関普門(むかん ふもん、1212-1291)。仏心禅師。信濃国に生まれた。13歳で越後・正円寺で出家、剃髪。叔父の寂円に仕えた。19歳で上野国・長楽寺の栄朝から菩薩戒を受ける。関東、北越を遊歴し、東福寺開山・円爾(弁円)に参禅し、その法嗣。越後・華報寺を開創する。1251年、宋に渡り、けい叟如ぎょく、浄慈寺の断橋妙倫の印可を受けた。1262年、帰国。九州、京都、鎌倉、北越、越後、摂津など各地を歴住した。1281年、一条実経の招きにより東福寺3世。1288年、亀山上皇(第90代)の離宮に出没した怪を降伏したとされる。1291年、南禅寺創建の際に、上皇に開山として招かれる。だが、病に罹り住坊の東福寺・龍吟庵に移る。上皇は禅師を見舞い、手づから薬湯を与えたが龍吟庵で亡くなった。遺骸は慧日山龍吟の岡に葬られる。龍吟庵は塔所となる。虎関師錬により南禅寺・天授庵も禅師の塔所として建立された。1323年、後醍醐天皇より諡号は大明国師を贈られる。
 遺偈「来たるに所従なく 去るに方所なし 畢竟如何 喝 当初を離れず」。
◆木像 開山堂に、鎌倉時代の等身大「大明国師坐像」(重文)(81㎝)を安置している。曲ろくに坐し、右手に払子(ほっす)を持つ。左手の竹箆(しっぺい)は失われている。両目に写実的な描写がなされている。衣は江戸時代の補彩という。1963年、像修理の際に、胎内より五輪塔、緑瑠璃壼、諸尊図像陀羅尼、仏舎利、ガラス製舎利器などの納入品が発見された。木造、ヒノキ材、寄木造、玉眼嵌入、彩色。非公開。
◆建築 「表門」(重文)は、安土・桃山時代に建てられた。正面は板扉、側面は白壁になっている。桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、妻入、杮(こけら葺。
 「方丈」(国宝)は、室町時代、1387年(1387年頃とも)に建てられた。現存する日本最古の方丈建築といわれている。書院造だが、寝殿造風で住宅風方丈になる。住職が住む場所という方丈本来の形が残る。正面中央に双折(もろおれ)両開き桟唐戸、両脇に蔀戸(しとみど)明障子になっている。寝殿造風の様式としては、梁間中央に両開きの板唐戸の入り口、両端の柱間に遣戸がある。正面に室町幕府3代将軍・足利義満筆「龍吟庵」の扁額が掛る。内部は6室(6間取り)あり、中央の「室中の間」が脇室(左右2室)に対して広く、奥の仏間とは板壁で仕切られている。これは古式によるという。天井は棹縁天井。広縁付、桁行七間(16.5m)、梁間五間(12.9m)、単層、入母屋造、杮(こけら)葺、玄関は唐破風屋根。
 「庫裏」・「下屋」・「廊下」(重文)は、安土・桃山時代、1603年に建立された。庫裏は屋根上東に煙出し、東南端に屋根片流れの下屋がある。桁行東側5間、西側3間、梁間正面6間、背面4間。桁行10.0m、梁間11.0m、一重、切妻造、妻入、銅板葺。
 「開山堂は、1975年に建立された。庇上に足利義満筆「霊光」「勅諡大明国師」の額が掲げられている。印刻は「准三宮」「道右」「天山」とある。内部には、鎌倉時代作の「大明国師坐像」(重文)が安置されている。鉄筋コンクリート造。方三間、単層、銅板葺。
 開山堂の国師像を安置する壇下は、半地下壕になっており、鎌倉時代の「石造無縫塔」、鎌倉時代の銅製「骨蔵器」(重文)、1961年に庫裏北側から発掘された鎌倉時代の「石櫃」(重文)が安置されている。
◆文化財 1961年、無関普門の「骨蔵器」、「経筒」などが庫裏の北側から発見された。無関普門の墓(石造無縫塔)の下にあった石室内に納められていた。墓は江戸時代、1791年の五百遠忌に境内別の埋葬地より移されている。鎌倉時代、「永仁二年(1294年)」銘の経筒と共に納められていた。骨蔵器は鋳銅製、側面には鎌倉時代、「正応四年(1291年)」の鏤刻(るこく、刻んだ文字)銘がある。石櫃は花崗岩製、身には骨蔵器を納めるための円形の孔があった。
◆庭園
 現代の作庭家・重森三玲(1896-1975)が1964年に方丈三方の庭を作庭した。
 方丈前の南庭、「無の庭」は白壁の築地塀内に白砂敷のみが敷かれている。方丈前庭は、かつて儀礼に使われていた。その伝統的な禅寺の庭の様式になっている。西(右)奥に独自の稲妻を表したという「稲妻形竹垣」がある。
 西庭は、寺号に因み「龍門の庭」と呼ばれている。中央付近の三石(青石、阿波産の緑泥片岩)は、龍の頭と角を表し、阿波の青石が使われている。雲と海が、白川産の白砂(雲)と若狭産の黒砂(海)の砂紋で表されている。龍が海から雲に登り左回りに渦巻く姿という。方丈西の縁を移るにつれ、龍の姿が変化するように意図されている。雲紋の様な曲線の黒い地割は、特有のコンクリート(モルタル)で作られている。西北端の竹垣には雷紋が描かれている。
 東庭の「不離の庭」は、三方正面の16坪(52.9㎡)の坪庭になる。鞍馬石の赤砂(錆砂利)が庭面に敷かれ赤褐色に見える。開山・大明国師(無関普門)を表すという長石が中央に斜めに伏せられている。その脇に、無関普門を護ろうとする犬を表す2石が据えられている。さらにその周囲に、無関普門に襲いかかる狼の白黒石(合計6石)が配置されている。この2組の狼の石は、斜めに捻って立てられ、全体として石は稲妻形に配置されている。石は全部で9石になる。
 幼い頃、熱病におかされた無関普門は荒野に捨てられたことがあるという。その時、国師に襲いかかった狼を二匹の犬が救ったという逸話に起因しているという。
◆紅葉 庭と一体になった紅葉で知られている。
特別公開 方丈、庭園の春の特別公開(3月14日-16日)、秋の特別公開(11月1日-30日)。


*普段は非公開、建物内、現在は建物の撮影も禁止。
*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『旧版 古寺巡礼 京都 18 東福寺』『拝観の手引』『京都・山城寺院神社大事典』『京都の禅寺散歩』『昭和京都名所図会 1 洛東 上』『仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』『重森三玲 庭園の全貌』『重森三玲-永遠のモダンを求めつづけたアヴァンギャルド』『重森三玲 モダン枯山水』『重森三玲 庭園の全貌』『京都の隠れた御朱印ブック』『京都大事典』『週刊 日本庭園をゆく 22 京都洛東の名庭 3 東福寺 高台寺 智積院』『週刊 仏教新発見 19  建仁寺 東福寺』『週刊 古寺を巡る 38 東福寺』


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南庭「無の庭」、白砂のみで構成されている。

南庭の稲妻の竹垣




西庭の「龍の庭」、立石、独特の地割、斬新な竹垣の意匠が見られる。青石が龍、白砂が海、黒砂が黒雲を表すともいう。


地割、竹垣



東庭「不離の庭」

東庭「不離の庭」、中央の横石が無関普門を表すという。その両脇に犬の2石が守護している。
map 龍吟庵 〒605-0981 京都市東山区本町15-812  075-561-0087  9:00-16:30

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