高松神明神社・高松殿跡 (京都市中京区) 
Takamatsu-shimmei-jinja Shrine,The ruins of the residence of Takamatsu-dono
高松神明神社・高松殿跡 高松神明神社・高松殿跡 
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「此付近 高松殿跡」の碑










神明地蔵尊
 高松神明神社(たかまつ しんめい じんじゃ)は、高松明神社ともいう。平安時代この地には、第60代・醍醐天皇皇子・源高松明の高松殿(高松殿)があった。保元の乱の際には、後白河天皇方の本拠地になる。
 祭神は、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、誉田別命(ほむだわけのみこと)。境内には八幡神社、春日神社がある。 
 神明地蔵尊は、子どもの知恵授かりの信仰がある。
◆歴史年表 平安時代、この地には、高松殿(高明親王家)が建てられていた。第60代・醍醐天皇皇子、西宮左大臣・源高明(たかあきら、914-982)の邸宅になる。高明の娘・明子(藤原道長の妻)も住んだ。姉小路北、西洞院東にあった。邸内に鎮守社高松明神が祀られていた。
 その後、公卿・藤原道長(966-1028)が住んだ。道長娘・寛子(999-1025)、その夫、第67代・三条天皇皇子・小一条院(敦明親王)(994-1051)の御所になる。「高松殿」と呼ばれる。
 藤原顕季(1055-1123)の邸宅になる。白河法皇(第72代)が御所とする。
 1021年、焼失している。
 1120年、焼失した。
 1146年、院政期に、第74代・鳥羽上皇の命により新造される。後に大蔵卿になった長門守・源師行(もろゆき)が任に当る。上皇と皇后・藤原得子(なりこ)が移る。
 1155年、第77代・後白河天皇が当所で践祚、即位した。以後、1157年まで内裏(里内裏)になり、「高松内裏」といわれた。
 1156年、保元の乱では、天皇家の兄弟争いに、藤原家、源氏、平氏を巻き込んだ戦になる。第75代・崇徳上皇(兄)方の白河北殿に対し、当初この地は、後白河天皇(弟)の本拠地になる。その後、北隣の左大臣・藤原頼長の東三条院を接取して本陣を移す。源義朝、平清盛らの軍勢が参集し、白河へ攻め込んだ。
 1159年、社殿は焼失している。保元の乱の勝者、後白河天皇方での権力争いに端を発した平治の乱による。
 室町時代、1565年、社殿が建立され、高松神明宮宝性院と称した。
 神仏習合時代、社僧の宥玉法院(伝燈法師位法印大僧都宥玉)が山之内から入る。
 江戸時代末期、1864年、長州藩と、摩藩・会津藩などが戦った蛤御門の変の際の「どんどん焼け」により焼失している。
 近代、1868年、神仏分離令後の廃仏毀釈により、宝性院は廃寺になり、社僧は廃された。
 1893年、地蔵堂が建立され、地蔵尊が安置された。
◆源高明 平安時代中期の公卿・源高明((みなもと の たかあきら、914-983)。第60代・醍醐天皇皇子。西宮左大臣と称した。920年、源姓により臣籍に降下、939年、参議、953年、大納言となる。中宮大夫・検非違使別当・左大将を兼務した。右大臣、967年、左大臣となる。だが、969年、為平親王と守平親王(のち円融天皇)の皇位争いに関し、藤原氏による他氏排斥事件の安和の変により、謀反の疑いをかけられ失脚、大宰府に左遷された。4年後に許され帰京した。
 歌人、琵琶の名手、有職故実書『西宮記』を著した。『源氏物語』の光源氏のモデルともいう。娘の明子は藤原道長の妻。
◆高松明神 邸内に祀られていた鎮守社高松明神が、現在も高松神明神社として残る。
 現在の神社は、室町時代、1565年に建立され、高松神明宮宝性院と称した。
 神仏習合時代には、社僧の宥玉法院(伝燈法師位法印大僧都宥玉)が山之内から入り、社僧は近代、1868の神仏分離令まで続いた。
 その後、廃仏毀釈により宝性院は廃寺になる。
◆神明地蔵尊 境内の地蔵堂に、神明地蔵尊が安置されている。神社に地蔵尊が安置する例は少ないという。石造の半跏像で、かつて、紀州九度山(くどやま)の伽羅陀山、真言宗善名称院真田庵にあり、毘沙門天とともに安置されていたという。安土・桃山時代、1600年の関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、寺に蟄居させられていた武将・真田幸村(1567/1570-1615/1641)が毘沙門天とともに日々拝んだという。
 江戸時代、1794年 善名称院より高松神明宮宝性院に遷され、神殿東に三間四面の地蔵堂が建てられた。半迦思惟坐像の地蔵尊という。以後、「幸村の知恵の地蔵尊」として崇敬を集めた。
 地蔵堂は、1840年に建替えられる。1864年、蛤御門の変により焼失し、地蔵尊のみが焼け残った。近代、1868年の神仏分離令後の廃仏毀釈により、一時廃される。その後、1893年に現在地に地蔵堂が建てられ安置されている。
 正面台座をさすり、子らの頭をなでると知恵を授かるという。かつて、供された米と小豆を材として、地蔵盆の際に小豆粥として振舞われていた。
◆保元の乱 平安時代、1156年、保元の乱では、第75代・崇徳上皇(兄)方の白河北殿に対し、この地は、後白河天皇(弟)の本拠地になる。その後、北隣の左大臣・藤原頼長の東三条院を接取して本陣を移す。源義朝、平清盛らの軍勢が参集し、白河北殿へ攻め込んだ。
 最初に、義康の軍100騎は、西洞院大路を北行、近衛大路を東行し白河北殿に向かう。二手の義朝軍の200騎は、西洞院大路を北行、大炊御門大路より東行し、直行した。三手の清盛軍の300騎は、西洞院大路を北行、二条大路を東行し、鴨川手前で一端、三条大路まで南下、渡河後に再び北上している。これは、方違えのためとも、自軍の損失軽減のためだったともいう。 
◆年間行事 例大祭(10月17日-18日)。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『平安京散策』『京都歴史案内』『京都大事典』『京都府の歴史散歩 上』『京都時代MAP 平安京編』『新版 京のお地蔵さん』


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神明地蔵尊

オガタマノキ(黄心樹、招霊木)「招霊」(おぎたま)から転訛した。モクレン科唯一の常緑樹。

【参照】平安時代の高松殿の復元図、京都アスニー
 高松神明神社 〒604-8271 京都市中京区津軽町790,姉小路通釜座東入北側 
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