遍照寺 (京都市右京区)
Henjo-ji Temple
遍照寺 遍照寺 
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護摩堂


護摩堂


護摩堂






客殿



八幡大菩薩


 遍照寺(へんじょうじ)は、嵯峨野、広沢池の南に位置している。「広沢不動尊」ともいわれる。「史跡 遍照寺旧境内建物跡」の碑が立つ。山号は広沢山という。真言宗広沢流発祥の寺院として知られている。
 真言宗御室派準別格本山、本尊は十一面観音。
 嵯峨野大黒天は、京都六大黒天霊場(京の大黒さんめぐり)の4番。 
◆歴史年表 平安時代、989年、第65代・花山天皇(第64代・円融上皇とも)の勅願により、東寺の真言宗僧・寛朝(かんちょう)僧正が、広沢池畔北西の朝原(あさはら/ちょうはら)山(遍照寺山、231m)麓の山荘を改めて寺院にした。寺名を遍照寺とした。落慶法要が行われる。寛朝の開削によるという池には、金色の観世音菩薩を祀る観音島があり、島には橋が架けられ、観月の名所となる。畔に多宝塔、釣殿、大覚寺の観月所だった潜竜(せんりゅう)亭などが建てられていたという。
 992年、山麓に多宝塔が建立された。盛大な供養が行われる。
 10世紀(901-1000)後半、具平親王(ともひら しんのう、964-1009)は、寛朝の招きにより、大顔を伴い遍照寺を訪れ、月見を行った。最中に大顔は急逝したという。
 998年、寛朝没後、寺は次第に衰微する。
 鎌倉時代、1321年、第91代・後宇多天皇(在位1274-1287)の御願により復興される。
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)により荒廃した。
 江戸時代、1633年、寛永年間(1624-1645)とも、仁和寺宮覚深(かくじん)入道親王の内意により、本尊・十一面観音像本尊、木造不動明王坐像、寛朝画像などを池裏の草堂、現在地に移して遍照寺の寺名を引き継いだ。
 1830年、舜乗律師により復興された。現在の諸堂が整う。
 近代-現代、昭和期(1926-1989)、収蔵庫、護摩堂を再建している。
 現代、1997年、客殿、庫裡を建立した。
◆寛朝 平安時代中期の真言宗の僧・寛朝(かんちょう、916-998)。第59代・宇多天皇の皇子・敦実親王の子。遍照寺僧正、広沢御坊ともいう。祖父・宇多法皇の下で11歳で出家得度し、寛空から両部灌頂を受けた。939年、第61代・朱雀天皇の勅命により、平将門の乱平定の祈祷により乱を治めたという。940年、東国鎮護のために成田山新勝山を開山した。981年、宮中での第64代・円融天皇の病気平癒祈祷の際に、眼前に不動明王が顕れ、たちどころに治癒したという。円融天皇は帰依した。987年、第66代・一条天皇の勅により、六大寺の僧を東大寺大仏殿に集め、降雨を祈願すると、翌日夕刻、大仏殿に遠雷轟き大雨になったという。989年、広沢池畔、遍照山山麓の山荘を改め、遍照寺を建立した。
 真言宗古義派の根本二流のひとつ「広沢流」の始祖となり、遍照寺はその本源地になった。広沢流は後に6流に分かれる。仁和寺、西寺、東寺などの別当に任じられ、第61代・朱雀天皇などの歴代天皇の戒師、潅頂の阿闍梨も務め、985年、真言宗初の大僧正になる。一律上人より声明を学び、密教声明を整え東密声明道の中興と称された。
◆修法
 平安時代中期以降、修法は、醍醐寺開山・聖宝、観賢、小野曼荼羅寺(随心院)・仁海を経て、醍醐寺は真言宗の東密系小野流修験道の本拠地となる。
 ほかに東密の益信法流(宇多天皇、寛空)の広沢・遍照寺、寛朝の広沢流がある。後に、仁和御流、西院流、保寿院流、大伝法院流、忍辱山(にんにくせん)流、華蔵院流の6流に別れ、真言事相の野沢(やたく)2流になった。
◆仏像 美仏の本尊「十一面観音像」(123.6㎝)(重文)は、創建時、平安時代、989年の作とされる。仏師で、定朝の父あるいは師・康尚(生没年不詳)の初期の作という。かつて、広沢池の観音島の御堂に安置されていた。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)の際には、奇跡的に焼失しなかった。観音島にある時、月待していると、音戸山より射した月光が観音像を照らし出したという。権中納言・定頼は、月見に広沢池を訪れ、観音堂で「皆金色(みなこんじき)のほとけ」を拝した。この観音像と見られている。右手は垂れ、左手は上げ、臂を曲げ花瓶を持つ。右足は遊び足、膝は少し曲げる。左足に重心をかけ、腰を捻る。表情は穏やかで豊満、衣文は流麗になっている。和様に飛躍した記念的な像とされる。一木彫。
 「不動明王坐像」(70㎝)(重文)は、「赤不動明王像(赤不動)」、「広沢の赤不動さん」と親しまれている。寛朝僧正の念持仏であり、弘法大師の尊像という。平安時代中期の989年頃、創建時に、仏師で、定朝の父あるいは師・康尚(生没年不詳)の初期の作という。康尚は、「仏師職の祖」といわれている。成田不動明王と一木二体とされる。室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)の際には、奇跡的に焼失しなかった。顔が朱色で塗られており、「赤不動」と呼ばれた。目は見開き、上歯で下唇を噛む。和様化が見られる。火焔を背負う。木造、一木彫、彩色。
 ほかに、平安時代末の「聖観音立像」、鎌倉時代の「釈迦如来坐像」、鎌倉時代の「地蔵菩薩半跏像」、鎌倉時代作の「不動明王立像」がある。
 「大黒天坐像」(30cm)は、「無動大黒天」と呼ばれる。右手に金嚢(財布)、左手に宝棒を持つ。
◆建築 現在は、本堂・収蔵庫、護摩堂、客殿、庫裏が建つ。
 「本堂・収蔵庫」は、1963年に建てられた。
◆遍照寺旧境内建物跡
 平安時代、989年、真言宗の僧・寛朝(かんちょう、916-998)により創建された遍照寺の旧跡がある。遍照寺山(千代原山、朝原山、寛朝山)の麓の旧地・広沢池西北岸の林に、「遍照寺旧境内建物跡」の石標が立てられ、近くに礎石が残されているという。
 1991年に遺構が確認され、建物跡が見つかった。一辺の長さ12mの方形の基壇があり、一間四面の御堂が建てられていたとみられている。京都市指定・登録文化財になった。また、麓に寛朝が修行したという「坐禅石」、山腹に天に昇ったと伝えられる「登天松(とてんのまつ)」があるという。
 なお、「建物跡」は現在、私有地にあり立入禁止になっている。
◆安倍晴明 平安時代の陰陽師・安倍晴明(921-1005)は、遍照寺の寛朝に招かれて寺を訪れたという。寛朝は都で三本の指に入る加持祈祷の高僧だった。
 若い公達(貴族)、僧が呪術により蛙を殺せるかと問う。晴明は、一枚の木の葉を千切り、呪文を唱えて蛙目がけて投げると、蛙は木の葉の下敷きになり潰されていたという。(『宇治拾遺物語』巻24)。
◆源氏物語 平安時代、10世紀(901-1000)後半、具平親王(ともひら しんのう、964-1009)は、寛朝の招きにより、大顔を伴い遍照寺を訪れた。月見の最中に大顔は急逝したという。
 紫式部の父・藤原為時は、この時、親王の家令として仕えており、事の収拾に動いた。為時は、親王の生母・荘子とは親戚関係になる。為時は、親王と大顔の間の王子・頼成を引き取り、養子・伊祐として育てている。
 紫式部は、これを題材として、千種殿を舞台に変え、『源氏物語』第4帖「夕顔」巻の光源氏と夕顔の話を書いた。夕顔は、十六夜の夜に生霊に殺された。
◆文化財 「後宇多天皇御宸翰」、「孝子鶴女田畑寄進状」、「寛朝僧正御影」、「舜乘律師御影」。
 江戸時代の狩野探雪(1655-1714)「竹虎図」、江戸時代末の「呑舟の図」。
◆修行体験 写経会(毎月28日)。
◆年間行事 不動尊大祭・春季大祭(4月29日)、開山忌(6月12日)、灯籠流し(戦後に始まった。霊を回向し、広沢池に灯籠が流される。五山送り火のひとつ 「鳥居形」とともに見ることができる。)(8月16日)。
 月例護摩供(毎月28日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 上』『仏像めぐりの旅 5 京都 洛北・洛西・洛南』『古都歩きの愉しみ』『京都大事典』『平安京散策』『昭和京都名所図会 4 洛西』『平成29年度 春期 京都非公開文化財特別公開 拝観の手引』『京都の寺社505を歩く 下』『京のしあわせめぐり55』『京の福神めぐり』


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宝篋印塔

十三重の石塔

「こころざし 深く汲みてし 広沢の 流れは末も 絶えじとぞ思ふ」、後宇多天皇が遍照寺の隆盛を詠んだ。

道標

道標

【参照】遍照寺の旧跡、広沢池西北岸のこの付近で旧遍照寺の礎石が発見された。山全体に遺構があるという。


五山送り火・鳥居、灯籠流し、広沢池(8月16日)
遍照寺 〒616-8306 京都市右京区嵯峨広沢西裏町14  075-861-0413
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