落柿舎 (京都市右京区)
Rakushi-sha
落柿舎 落柿舎
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かつては40本の柿の木が植えられていた。現在は10本が残る。







 田園風景が残る嵯峨に落柿舎(らくししゃ)はある。庵の西には旧愛宕街道が通じている。この地は、江戸時代の俳人、蕉門十哲の一人・向井去来が庵を構えた閑居跡とされている。
 庵内には、柿の木が植えられている。御朱印が授けられる。 
◆歴史年表 詳細、変遷の詳細不明。
 かつて、庵は現在地ではなく、渡月橋脇の臨川寺に接していたともいう。また、天龍寺の北側一丁付近にあったともいう。富豪の有する広大な屋敷だったという。車折神社境内に一時期あったともいう。
 江戸時代、1686年頃、去来が庵を買い取ったともいう。また、元禄期(1688-1704)初期、去来は嵯峨に古家を求め、俳諧道場とした。当初は下嵯峨川端村(現在の右京区嵯峨天竜寺造路町大堰川畔)にあった。
 1689年、12月下旬(旧暦)、松尾芭蕉は初めて落柿舎(下嵯峨川端村)を訪ねた。
 1691年、4月18日(旧暦)、芭蕉が庵を再訪し、庵主・去来、訪ねてきた野沢凡兆と会う。翌日、大堰川、臨川寺、小督局の塚などを訪れている。5月5日、芭蕉は凡兆宅に移る。9月28日、芭蕉は江戸に戻る。(『嵯峨日記』)
 1694年、5月22日、芭蕉は膳所より入洛し、落柿舎を訪れた。「六月や峯に置くあらし山」と詠んだ。6月15日、大津の義仲寺・無名庵(むみょうあん)に移る。
 1704年、去来没後、庵は荒廃した。場所もわからなくなる。
 1770年、俳人・井上重厚が、天龍寺塔頭・弘源寺の跡地に庵を再建したという。その後、弘源寺の老僧退隠所になり「捨庵(すてあん)」と称した。
 1772年、句碑「柿主や木ずえはちかきあらし山」が立てられた。
 近代、明治期(1868-1912)、1868年とも、有志により庵は復興された。
 1895年、弘源寺の旧捨庵を移築し現在の建物になる。
◆向井去来 江戸時代中期の俳人・向井去来(むかい きょらい、1651-1704)。肥前国の儒医家に生まれた。別号は落柿舎など。蕉門十哲の一人。父・向井玄升が宮中儒医として仕えたことにより聖護院に住む。一時、福岡に下り、武道修行に励む。1675年頃、再び京都に戻る。堂上家に仕えたが、武士の身分を捨てる。27歳の時、隠士(隠者)になり、35歳で嵯峨野に別邸を構える。39歳の秋頃、庵を「落柿舎」と呼んだ。晩年、芭蕉研究の最高の俳論とされる『去来抄』(1775)を著す。落柿舎で亡くなる。
 庵の近く北西にある弘源寺の墓苑内(右京区)に遺髪を埋めたという「去来墓」、真如堂(左京区)にも「去来」と刻まれた墓がある。
◆松尾芭蕉 江戸時代前期の俳諧師・松尾芭蕉(まつお ばしょう、1644-1694)。芭蕉庵桃青など。伊賀国上野に生まれた。柘植とも。伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将・藤堂新七郎良精家の料理人として仕える。若君・藤堂良忠(俳号、蝉吟)と共に俳諧を嗜む。北村季吟に学び俳号は宗房とした。1666年、蝉吟の死とともに仕官を退き、俳諧に入る。1673年、江戸に出て、水道修築役人になり、やがて俳諧師の道を歩む。其角が入門する。1680年、深川に草庵「芭蕉庵」を結んで隠逸の生活に入る。1682年、庵焼失後、北は陸奥平泉、出羽象潟から西は播磨明石まで旅し、大坂南御堂前花屋の裏座敷で旅の途上に亡くなった。『奥の細道』『猿蓑』などを著す。
 京都には46歳頃に訪れた。京都での旧居は金福寺裏の芭蕉庵、嵯峨・落柿舎、円山・芭蕉堂などがある。義仲寺に葬られた。 
◆去来と芭蕉 去来は、俳人・和田蚊足(ぶんそく)、宝井其角(1661-1707)を介して芭蕉を知る。去来は芭蕉門下になり俳諧を学ぶ。芭蕉は去来を評し、「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」といった。この「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」の渾名は、篤実な去来が芭蕉によく仕え、西国各地の蕉門をまとめあげた功績をいう。
 芭蕉は落柿舎を3度訪れた。1691年に18日間滞在し、『嵯峨日記』(17531)を書き記した。冒頭の「元禄四辛未卯月十八日、嵯峨にあそびて去来ガ落柿舎に到。凡兆共ニ来りて、暮に及て京ニ歸る。」から始まる。
 去来は俳諧師・野沢凡兆とともに、「蕉風俳諧の白眉」(最も優れたもの)とされた。落柿舎では、「俳諧の古今集」といわれた蕉門の発句・連句集『猿蓑』が編集されている。この猿蓑とは、芭蕉の「初しぐれ 猿も小蓑を ほしげ也」の句に由来する。蕉風俳諧は落柿舎で熟成されたといわれている。
 1689年12月下旬、芭蕉は落柿舎の去来を訪ねる。24日、去来とともに近くの常寂光寺に行き、茶筅売りの鉢敲きに出遭う。この時、11月13日の空也の命日から大晦日にかけ、念仏和讃を唱えて空也ゆかりの墓所などを巡る信者の一行があった。芭蕉は「長嘯の 塚もめぐるか 鉢叩き」と詠んだ。
◆野沢凡兆 江戸時代前期-中期の俳人・野沢凡兆(のざわ ぼんちょう、?-1714)。加賀生まれ。京都で医業を開く。妻・羽紅とともに松尾芭蕉に師事。1690-1691年、芭蕉と親密になる。向井去来と「猿蓑」の編集に参加、最多41句が選ばれた。のち芭蕉より離れ、投獄されるなどした。大坂に移る。
◆井上重厚 江戸時代の俳人・井上重厚(1738-1804)。京都の生まれ。五升庵蝶夢の門人。全国を行脚し、1792年、近江粟津・義仲寺住職、無名庵主。1793年、芭蕉百回忌を営む。号は落柿舎、椿杖斎。
◆落柿舎 落柿舎の名の由来は、去来の『落柿舎の記』にある。1689年秋、去来は、庵の庭にある柿の実を、木に実をつけたまま商人に売った。銭1貫文の代金を受け取る。だが、台風により一夜にして実のほとんどが落ちた。去来は、金を全て返し、庵名を「落柿舎」と名付けたという。
 前庭には、江戸時代、1772年、俳人・井上重厚による「柿ぬしや 梢はちかき あらし山 去来」の句碑も立つ。
◆文学 芝木好子『京の小袖』に描かれている。主人公・知佐子は、染色学を研究している。美大の恩師・頼光一篁に、幻の辻ヶ花の復元を見に来るように京都に誘われる。知佐子は頼光に落柿舎近くで求愛される。
◆花暦 柿の実(11月)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『現代仏教の課題 嵯峨野・常寂光寺の戦後史を通じて』『文学散歩 作家が歩いた京の道』『京都隠れた史跡の100選』『京都大事典』『京都府の歴史散歩 上』『洛西探訪』『京都歩きの愉しみ』『京都の隠れた御朱印ブック』


  関連・周辺去来墓・西行井戸(小倉山墓地)    関連・周辺常寂光寺       周辺嵯峨天皇皇女・有智子(うちこ)内親王墓       関連車折神社        関連金福寺       関連芭蕉堂          

蓑笠、壁に掲げて主人の在宅を知らせたという。

天井の茅組


釣瓶

井戸




燭台





文机

落柿舎制札、一、家の俳諧に遊ぶべし 世の理屈を謂ふべからず/一、雑魚寝には心得あるべし 大鼾をかくべからず/一、朝夕かたく精進を思ふべし 魚鳥を忌むにはあらず/一、速に灰吹を棄つべし 煙草を嫌ふにはあらず/、一、隣の据膳をまつべし 火の用心にはあらず 右條々 俳諧奉行 向井去来

投句箱

次庵

次庵
次庵
猪威し

ムラサキシキブ

平沢輿「春の雨天地ここに俳人塔」

保田興重郎「何もない庭の日ざしや冬来る」

工藤芝蘭子「十三畳半の落柿舎冬支度」

芭蕉「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」

嵯峨天皇皇女・有智子内親王「加茂川のりはやせの波のうちこえしことばのしらべ世にひびきけり」

高浜虚子「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり」

去来「柿主や 梢はちかきあらし山」

「去来先生神忌」の幟



落柿舎の遠景

【参照】周囲の風景

【参照】落柿舎の前の畑地に小倉餡発祥の由来と題する立て札がある。
 平安時代、820年頃、京都において日本初の小豆と砂糖を用いた餡が炊かれた。当時のこの付近、小倉の里に亀の甲せんべいを作る和三郎という人がいた。809年、空海は唐より小豆の種子を持ち帰る。和三郎は小豆を栽培し、御所より下賜された砂糖を加えて煮詰め餡を作った。以来、毎年、御所に餡が献上された。空海はこの亀の甲せんべいの製法も伝えたという。840年に和三郎が亡くなると、子孫、諸国同業の者は、小倉中字愛宕の「ダイショウ」の里に、屋号「亀屋和泉」より、和泉明神という社を建立した。その後、社は兵火により焼失し、子孫も絶えた。
 江戸時代、京都には小豆が広く栽培され、茶道の菓子、祝飯としても用いられるようになる。

【参照】土佐四天皇天王の像、落柿舎の南にある。説明の碑文によると、1864年、坂本竜馬が中岡慎太郎を伴い、長州本陣が置かれた天龍寺の来島又兵衛、久坂玄瑞を訪ねたという。像は右より中岡慎太郎、坂本龍馬、武市瑞山、吉村寅太郎。江里敏明作。

【参照】落柿舎の西に隣接する嵯峨天皇皇女・有智子(うちこ)内親王墓、

【参照】落柿舎の北にある去来墓には、遺髪が納められている。真如堂にも、もう一つの去来の墓があったという。だが、一族の墓は現存しない。
 落柿舎 〒616-8391 京都市右京区嵯峨小倉山緋明神町20  075-881-1953  9:00-17:00(1-2月 9:00-16:00)
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