三鈷寺 (京都市西京区)
Sanko-ji Temple
三鈷寺 三鈷寺
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華台廟




「西山善恵上人霊廟」とある。


「国師火葬跡」の石標


地蔵尊


カモシカ嶽、山頂が尖っており三鈷に似ていることから寺号の由来になった。旧三鈷寺は山頂の下(白く見える桜の木が生えている付近)にあったという。


境内よりの眺望は「二大仏七城俯瞰の地」と呼ばれた。(『都名所図会』、江戸時代、1787年)。境内から北山、比叡山、東山三十六峰、大文字山、宇治、木津方面も見渡せる。
 洛西の三鈷寺(さんごじ)は、釈迦岳(631m)の北東、鴨瀬山(かもせやま)の中腹にあり、境内より京都市街地を一望することができる。この地は、平安京の南西に位置し、裏鬼門に当たる。西山派の発祥地になる。 
 正式には本山三鈷寺といい、院号は往生院という。西山往生院とも呼ばれた。
 西山宗総本山。本尊は仏眼明妃坐像画幅。
 十一面観音は京都洛西観音霊場第5番札所。西山国師遺跡霊場第12番札所。
 御朱印(3種類)が授けられる。
◆歴史年表 平安時代、1074年、1042年とも、比叡山の天台僧・源算(げんさん、982-1099)が、吉峯の北尾に草庵を結び隠棲した。往生院(北尾往生院)としたことに始まるという。源算は自ら阿弥陀像を刻み本尊にした。当初は、四宗兼学(天台宗、真言宗、律宗、浄土宗)だった。
 その後、荒廃する。吉峯の賢仁が永尊大徳と再興する。
 1161年、1162年とも、2祖・観性法橋は往生院に入り中興した。自ら浄布を織り、佛眼曼荼羅を描いて本尊にした。左右に釈迦、阿弥陀像も安置し、この地に隠棲したという。
 1169年、賢仁は観性に往生院を譲るともいう。
 1177年、藤原是憲(遊蓮房円照)が往生院で亡くなる。この頃、この地は終焉の地として「吉峯の別所」と呼ばれた。
 1190年、観性は入滅に先立ち、庇護を受けた3祖・慈円に往生院を託す。
 平安時代-鎌倉時代、寺運栄える。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、浄土宗西山派の根本道場として多くの寺領、末寺を有した。
 鎌倉時代、1213年、建保年間(1213-1219)とも、法然の門弟・証空は、京洛の浄土宗の弾圧事件「承元の法難」(1207)により善峯寺に移る。慈鎮より当寺を受け継ぐともいう。
 1221年、4祖・証空は往生院を不断如法念仏道場とし浄土宗西山派を創始した。寺号は、背後の山頂カモシカ嶽の三峰が、密教の宝具三鈷(三鈷杵、さんこしょ)に似ていることから三鈷寺としたという。
 1230年、宇都宮頼綱が往生院に土地を寄進する。
 第88代・後嵯峨天皇(在位1242-1246)の勅願所になる。
 1247年、証空は遺迎院で亡くなり、遺骸は当寺に運ばれた。以後、門弟の5世・良空、6世・円空、7世・栖空が引き継ぐ。
 建長年中(1249-1255)、証空に帰依した実信房蓮生(宇都宮頼綱)により華台廟(三昧院華台廟、多宝塔、観仏三昧院)が建てられ証空が葬られる。
 1289年、栖空が亡くなり、以後、無住になる。
 1323年、8世・康空が継ぐ。
 南北朝時代、1335年、勅願により、天台、真言、律、浄土の四宗兼学になる。
 1346年、康空が亡くなり9世・澄空が継ぐ。第97代・南朝第2代・後村上天皇が綸旨を与え寺領管領を命じる。
 1355年、澄空が亡くなり10世・仁空が継ぐ。
 1362年、北朝第4代・後光厳天皇の綸旨により、当寺は西山流根本地とした。住持は紫衣、裏頭を着て参内し、末流にも香衣、裏頭を許した。
 1385年、仁空の時、多くの末寺、所領を得る。(「仁空置文」)
 室町時代、1470年、応仁・文明の乱(1467-1477)の兵火により焼失した。本堂と華台廟だけは焼失を免れる。
 1476年、第103代・後土御門天皇は、14世・善空に命じ宝祚(天皇の生命、位)長久を祈願させる。
 1482年、仏殿が再建される。
 1483年、本山義派末寺は34か寺あった。(「善空置文」)
 安土・桃山時代、1575年、常念仏再興の綸旨、寺領を贈られる。だが、寺運再興には至らなかった。
 1585年、羽柴秀吉により寺領は没収された。
 江戸時代、1689年、5代将軍・徳川綱吉による善峯寺復興に伴い、当寺域は縮小される。
 1787年、当寺は「二大仏七城俯瞰の地」と記されている。(『都名所図会』)
 近代、52祖・台龍により復興された。
 現代、1951年、台龍により四宗兼学(天台、真言、律、浄土)の西山宗本山として独立した。
 2002年、平成大修理が完了した。
◆源算 平安時代の僧・源算(げんさん、982-1099)。因幡に生まれた。991年、9歳の時、 比叡山首楞厳院(しゅりょうごんいん)の恵心僧都・源信の徒弟に入り、 995年、13歳で剃髪受戒した。1029年、西山・良峰に小堂「法華院」を建て、良峯寺(善峯寺)の開山になる。1074年、比叡山の天台僧・源算が吉峯の北尾に草庵を結び往生院(北尾往生院)とした。
◆藤原是憲 平安時代末期の公家・浄土宗の僧・藤原是憲(ふじわら の  これのり、1139?-1177?)。高尹。父・藤原通憲(信西)の三男、母は高階重仲の娘。飛騨守になる。源義朝は娘婿に望むが拒絶し、1159年、平治の乱の一因になったという。乱で、父に連座し免職、佐渡島に流罪になる。21歳で出家し、遊蓮房円照と号し法然の弟子になる。信乃入道と呼ばれ、善峰寺・往生院で亡くなったという。従五位下、少納言。
◆観性 平安時代後期の天台宗の僧・観性(かんしょう/かんせい、?-1190)。美作守・藤原顕能の子、葉室(はむろ)中納言顕隆の孫、天台座主・権僧正顕真の弟。1161年、往生院(三鈷寺)に仏眼曼荼羅、釈迦・阿弥陀如来像を安置し再興した。1185年、仏眼法により源行家・義経の追捕・降伏を祈念する。僧位は法橋。中納言法橋と称された。
◆慈円
平安時代後期-鎌倉時代の天台宗の僧、歌人・慈円(じえん、1155-1225)。吉水僧正、諡号は慈鎮。公卿・藤原忠通の子、九条兼実の弟に当たる。覚快法親王に師事、明雲、全玄に学ぶ。4度天台座主に就き、無動寺検校、四天王寺別当などを歴任した。9歳の親鸞の得度に際し、剃髪の師になる。歴史書『愚管抄』を著し、「新古今和歌集」に92入集。墓は善峰寺にある。
◆証空 平安時代-鎌倉時代の僧・証空(しょうくう、1177-1247)。善恵房証空。鑑知国師、西山国師、弥天国師。京洛の村上源氏の流れをくむ久我一門源親季の長男。加賀に生まれたとも。1185年、内大臣・久我通親の猶子になり、道元の兄弟に当たる。1190年、14歳で出家した。当初、親季は許さず、一条戻橋での橋占いにより、僧が法華経普門品の偈を唱えながら橋を渡ったことから許したという。浄土宗開祖・法然の弟子になり、善恵房證空と名付けられた。以後、法然臨終までの23年間師事した。1198年、法然が九条兼実の請により浄土宗の根本聖典「選択本願念仏集」を撰述した際に勘文の役を務めた。1199年、法然に代わり九条兼実邸で選択集を講じる。1207年、法然とともに遠流になる。慈円に預けられ京都に留まる。「七箇條起請文」を制定し、その第四位に署名した。日野の願蓮に天台学、政春に台密も学ぶ。1211年、太子御陵に二重の塔を建て仏舎利を納めた。1212年、法然没後、1213年、東山小坂から慈円の譲りを受け、善峯寺中尾・蓮華寿院に入り、道覚法親王に譲り北尾往生院(三鈷寺)に移った。1215年、「観経玄義分観門義」を開講する。1217年、仁和寺経蔵より善導大師の「般舟讃」を発見した。1221年、往生院で初の不断念仏を行う。仰木の公円より伝法灌頂を受ける。1225年、慈円の臨終の善知識になる。1227年、嘉祿の法難に際し流罪を免がれる。西園寺公経の北山邸で念仏勧進をする。1229年、奈良・当麻寺の「観経曼陀羅」に感得した。寛喜年間(1229-1231)、関東から陸奥へ游化。1230年、西山・三鈷寺塔を建てる。1231年、浄蓮寺、鵜野木光明寺を開基、復興する。1243年、第88代・後嵯峨天皇の勅により歓喜心院を創建する。1244年、生瀬浄橋寺の梵鐘鋳造になる。1247年、後の天台座主道覚法親王のために「鎮勧用心」を述べる。宮中で度々講じ円頓戒を授与した。建立した主な寺院は、西山善峯寺北尾往生院、歓喜心院、浄橋寺、遣迎院など11寺になる。浄土宗西山義の派祖。
 往生院では、観性の建てた堂を改築し多宝塔とした。「観門義」を講じ、不断念仏、六時礼讃、問答論議なども復した。白河・遣迎院で亡くなり、門弟により遺骸は西山三鈷寺・華台廟に葬られた。
◆宇都宮蓮生 平安時代後期-鎌倉時代の武将・宇都宮蓮生(うつのみや れんしょう、 1178-1259)。頼綱。実信房、宇都宮入道。宇都宮成綱の子。宇都宮5代城主、鎌倉幕府御家人。1205年、謀反の疑いにより27歳で出家、宇都宮蓮生と称した。この時、郎党60余人も出家した。摂津箕面・勝尾寺で法然に会い、後に証空に師事し、西山往生院の復興を行う。1227年、天台衆徒より法然遺骸を護った一人になる。藤原定家より歌を学び、定家の子息に娘を嫁がせた。二尊院近くの小倉山麓に「中院山荘」を構える。1235年、山荘障子に貼る色紙の執筆を定家に依頼し、定家は天智天皇以来の一首ずつを綴り、「小倉百人一首」の原型になる。1257年、三鈷寺で不断念仏を始める。西山上人13回忌の準備途中で亡くなる。
 遺言により、西山上人石塔の横に蓮生の石塔を建てて供養した。現在、三鈷寺・華台廟に西山上人と共に祀られている。
◆善空 室町時代の僧・善空(?-1492)。恵篤善空、諡号は円慈和尚。二尊院善空とも称された。三鈷寺14世。嵯峨・二尊院、白河遣迎院、摂津生瀬・浄橋寺の兼帯。第103代・後土御門天皇の信篤く、1471年、大無量寿経四十八願を講じた。1475年、天皇に授戒する。1479年、天皇が伏見に建立した般若三昧院の開山。学僧として知られ多くの西山末疏を書写した。現在は失われた「如法念仏」を整えた。『顕浄抄』を著す。
◆康空 鎌倉-南北朝時代の僧・康空(1286-1346)。示導(じどう)。比叡山の相実、良祐らにまなぶ。浄土宗に転じ、鎌倉の覚空仏観、三鈷寺の玄観に西山派をまなぶ。証空の教えを研究し本山流をたてた。1323年、三鈷寺8世、後醍醐天皇の戒師になる。『観無量寿経四帖疏康永抄』を著す。
◆仁空 鎌倉時代-南北朝時代の僧・仁空(1309-1388)。実導(じつどう)、静山、諡号は円応和尚。京都の生まれ。藤原為信の子。比叡山で顕密二教をおさめる。西山・三鈷寺の示導(じどう)にまなび、戒をうける。三鈷寺10世となり中興する。著作に『西山上人縁起』『論義鈔』。
◆寺号 寺号の三鈷寺は、1247年の証空没後も「往生院」と呼ばれたという。三鈷とは、背後の山が仏具の三鈷の様に3つの峰が並んでいることに因む。
 「三鈷寺」の文献初出は南北朝時代、1362年の「後光厳天皇綸旨」という。また、15世紀(1401-1500)後半より称されたともいう。
◆仏像・木像 本堂の本尊、紙本「妙法佛眼曼荼羅(仏眼明妃坐像画幅)」は、2代・観性筆という。
 本堂に木像の「阿弥陀如来」、西山上人作という「十一面観音菩薩」、「金色不動尊」を安置する。
 「抱止(だきとめ)阿弥陀如来」(木像)は、鎌倉時代、1232年、頼綱入道蓮生が、正真の阿弥陀如来を拝しようと称名念仏した。三尊二十五菩薩を具して現れ、空に帰ろうとする。名残を悲しみ、抱止めてみると阿弥陀如来だった。以来、「抱止めの如来」と称されたという。(三条西実隆筆『頼綱ゆかりの抱止阿弥陀如来縁起』)
◆建築 山門、本堂、拝堂、客殿などが建つ。
 証空は白川・遺迎院で亡くなる。遺骸は、往生院の傍らの華台廟に葬られた。後に、蓮生が廟所に多宝塔を建て、観念三昧院と呼ばれた。現在の本堂は、この廟所に接して建てられている。
◆文化財 「当麻曼荼羅図」「大聖歓喜天尊」、木像「西山上人思惟の像」「西山上人思惟の御影図」「宇都宮頼綱画像」「宇都宮家系図」などがある。
 平安時代、鎌倉時代の古文書を所蔵する。
 「三鈷寺文書」は、平安時代-戦国時代の文書になる。所領の富坂庄関連、後村上天皇、後光厳天皇、後土御門天皇の綸旨、足利義政御判御教書など室町幕府将軍関連文書などがある。当寺のほか、多くは東京大学法学部、京都大学文学部博物館などに蔵されている。
◆墓所 華台廟は証空の墓所になっている。宇都宮蓮生も祀る。
◆観月 境内は急峻な山の頂付近にあり、この地からの東山に昇る月の眺めは関西随一とされている。
◆花暦 春(サクラ、ツツジ、シャガ)、夏(アジサイ、キキョウ、タカサゴユリ、秋(ハギ、シュウメイギク、紅葉)、冬(ナンテン、サザンカ)など。
◆旧三鈷寺跡 寺号は、現在の境内背後の山、カモシカ嶽の三峰が、密教の宝具三鈷(三鈷杵、さんこしょ)に似ていることから三鈷寺とされた。当初の草庵は、この峰の中腹にあったという。
 山門左脇にある卒塔婆形の結界石には平安時代「承保元年(1074年)」の銘がある。創建の頃の名残という。
 山門を出て200mほど西に後嵯峨天皇宣旨の碑が立つ。本寺が浄土宗西山派の根本山であると記している。
 旧三鈷寺跡へ向かう道の途中に樹齢800年という桂の巨木がある。「西山上人逆さ杖の桂の木」と呼ばれている。


*善峯寺の北門側からも入山できます。
*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。
*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都古社寺辞典』『浄土宗西山派と三鈷寺文書』『京都府の歴史散歩 上』『事典 日本の名僧』『京都おとくに歴史を歩く』『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都御朱印を求めて歩く札所めぐりガイド』『京都の隠れた御朱印ブック』、当寺サイト



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