去来墓・西行井戸 (小倉山墓地) (京都市右京区)
The grave of MUKAI Kyorai
去来墓・西行井戸 去来墓・西行井戸 
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小倉山墓地


「去来先生墳」の碑、10世庵主・永井瓢齋「秋風に ふきのこされて 墓一つ」。
 近代の俳人・永井瓢齋(1881-1945)は、島根県に生まれた。大阪朝日新聞社社会部長、「天声人語」を執筆。俳誌「趣味」を刊行した。



涌蓮上人墓、去来翁墓の石標


去来墓
 落柿舎の北西にある天龍寺塔頭・弘源寺の境外・小倉山墓地には、江戸時代の俳人、向井去来の墓がある。この地に去来の遺髪を埋めたという。 
◆歴史年表 江戸時代、1770年、俳人・井上重厚により落柿舎が弘源寺跡に再興され、その際に去来墓も立てられた。
◆去来の墓 墓地の外、東に平安時代の西行法師ゆかりという井戸がある。
 句碑は去来の「柿主や 梢は近き あらし山」「応々と 言へど叩くや 雪の門」。芭蕉の「野宮の 鳥居にも なかりけり」「ほととぎす 大竹藪をもる 月夜」。虚子の「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり」がある。
 西行歌碑は「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」「仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらはば」。与謝野晶子の「皐月よし 野山のわか葉 光満ち 末も終りも なき世の如く」も立つ。
 1962年、弘源寺により全国から募集された歌・句碑が数多く立てられている。
◆去来 江戸時代中期の俳人・向井去来(1651-1704)。肥前国の儒医家に生まれた。別号は落柿舎など。蕉門十哲の一人。父・向井玄升が宮中儒医として仕えたことにより聖護院に住む。一時、福岡に下り、武道修行に励む。1675年頃、再び京都に戻る。堂上家に仕えたが、武士の身分を捨て、27歳の時に隠士(隠者)となり、35歳で嵯峨野に別邸を構え、39歳の秋頃庵を「落柿舎」と呼んだ。晩年、去来は芭蕉研究の最高の俳論とされる『去来抄』(1775)を書き残した。
 去来の墓は、弘源寺(右京区)の墓苑内に遺髪を埋めたという「去来墓」と、真如堂(左京区)にも「去来」と刻まれた墓がある。
◆西行 平安時代末期の真言宗の僧・西行(1118-1190)。佐藤義清(のりきよ)。紀州生まれともいう。秀郷流武家藤原氏の出自。父は検非違使の職にあった。16歳頃、徳大寺家に仕え、1135年、兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、1137年、鳥羽院の下北面の武士になる。1140年、妻子を捨て出家、円位、後に西行とも称した。鞍馬山、1144年頃(1147年とも)、奥羽、1149年頃、高野山に庵を結ぶ。1168年、中四国、高野山、1177年、伊勢国二見浦、1186年、東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため2度目の奥州、伊勢国の漂泊で多くの歌を詠む。途中、鎌倉で源頼朝に初対面する。1189年、河内国の弘川寺(大阪府河南町)に庵を結ぶ。当寺で亡くなる。
 平清盛と親交したという。歌人・寂然(藤原為業)、歌人・藤原俊成と親しく、和歌に秀で『新古今和歌集』に94首入集。恋歌が多く鳥羽上皇皇后との禁断の恋に破れたともいう。桜を愛で多くの歌を残す。故実に通じ、武芸、蹴鞠も秀でた。
◆墓 去来、弘源寺開山で室町時代の玉岫禅師の塔、誓興上人、涌蓮上人、落柿舎4世庵主・吾同、8世・山鹿栢年、11世・工藤芝蘭子などの墓などがある。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『日本の名僧』『洛西探訪』


  関連・周辺落柿舎     周辺     関連真如堂(真正極楽寺)

去来墓

弘源寺開山、室町時代の玉岫禅師の塔

誓興上人墓

涌蓮上人墓、江戸時代の僧・歌人。
 天龍寺で奉仕し、お供えされた餅であられを作り、山籠り修行に持って行った。里人に分け与えたという。あられ、かきもちの原形を作ったとされている。

宝厳歴代の墓

募られた句歌の碑

四世庵主・吾同「を鹿なく 小倉の山の すそ近み ただ独りすむ わが心かな」

西行井戸、小倉山麓に住まいを持っていた西行が使ったという井戸、いまも湧水している。
 去来墓(小倉山墓地) 京都市右京区嵯峨小倉山小倉町 

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