花背 (京都市左京区)
Hanase
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地域には、まだ茅葺の家が残っている。


桂川の支流のひとつ別所地区を流れている別所川


若狭、小浜にいたる若狭街道(鯖街道)の旧道。


花背の松上げ(8月15日)
 洛北の花背(はなせ)は、鞍馬の北に位置する地域で、花背峠を越えた若狭街道沿いの4地区、別所(べっしょ)、大布施(おおふせ)、八桝(やます)、原地新田(はらちしんでん)地区をいう。花背峠の開削後、花背(花瀬)と呼ばれる。 
◆歴史年表 平安時代-鎌倉時代、弥勒信仰による北方浄土、北方守護の地として、現在の福田(ふくでん)寺を中心にした大平の谷には、経塚(花背経塚群」が多数造られてた。
 平安時代以来、この地は、天皇の御領地(杣山)になり、御所には材木が送られていた。文人墨客の避暑地としても知られた。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)初頭、山城国愛宕郡に属した。
 江戸時代、1780年、「花瀬峠」、別所村の「観音堂」について記されている。(「都名所図会」)
 1787年、「花瀬峠」、大岩の「唐櫃岩(からびついわ)」について記されている。(「拾遺都名所図会」)
 近代、1899年、旧峠の東に花背峠(759m)が開削される。付近の4地区が合併し、花背村になる。
 1921年以来、「花背経塚群」が相次いで発見された。遺蹟からは、石室、経筒、仏具なども多数発掘される。
 1949年、花背は、京都市左京区に編入された。
◆花背 地名の花背(はなせ)は、以前より通じていた花背(花瀬)峠に由来している。旧花背峠(750m)は、現在の花背峠の西に位置していた。花背の語源は、「都(花)の背(背後)」を意味するともいう。また、「ハナ」は「端、縁、先」、「セ」は「狭隘地、尾根筋の鞍部」の意味ともいう。
 花背は、地理的に若狭、丹波にも近い。若狭との関わりも深く、この地域の家は若狭の大工が手掛けた。若狭街道(鯖街道)により魚などももたらされた。 
 花背はかつて、鞍馬炭の生産地になっていた。冬季に焼かれた炭は、鞍馬へ送られ、京都では鞍馬炭として売られた。花背の女性は15kmの炭を背負い、雪の峠を越えて鞍馬へ運んだという。炭を売った金で味噌醤油を購入し、再び峠を戻ったという。
◆松上げ 8月15日に八桝地区で、火祭りである「松上げ」(市登録)が行われる。精霊送りの祭礼であり、火神(軻遇突智神、かぐつちのかみ)に捧げる五穀豊穣、火難除けの祭事でもある。
 上桂川の「灯籠木場(トロキバ)」と呼ばれる祭場には、日中に「灯籠木(トロギ、長さ20mの檜丸太)」1本が垂直に立てられる。先端部には「モジ(笠、竹製で直径2m)」が作られ、中には着火剤になる藁、鉋屑が詰められている。
 夕刻、トロキバ、周囲の河原には1000本の地松が立てられる。役員の禰宜(ねぎ)は、愛宕社より種火を移し、松明に次々に火を灯していく。午後8時、鉦、太鼓の合図後、男たちが一斉に、モジを目がけて、火のついた「上げ松(小松明)」を投げ入れ始める。上げ松の端には縄が付けられ、これを縦に回転させながら、綱を放して投げ上げる。モジに、うまく上げ松が入り火が付くと、やがて激しく燃え上がる。やがて、トロギ支えていた綱が切られ倒され、炎と火の粉が周囲の闇に飛散する。
 その後、惣堂に地区の人々が集い、深夜まで盆踊りが行われる。 
◆木守り 12月9日に「山ノ口」という風習が残されている。樵人が山の神の祭りをするもので、この日には、必ず雪が降ると伝えられている。
 当日、山に足を踏み入れてはいけない慣わしになっており、山の神の祠に参拝する。女性は当家で膳部の支度をし、酒宴が営まれる。
◆寺谷川 寺谷川は、保津川の支流であり、平安時代-昭和初期まで、丹波材の伐り出し地になっていた。
 9月半-翌年5月半頃、杉、檜のほか、松、楓などの木材が筏(2間の材×12本)に組まれ、京都まで木流しにより運ばれた。川の水量が不足すると堰が作られ、水を溜めて堰を切って流していた。
◆年間行事 八桝の松明上げ(8月15日)、山ノ口(12月9日)。


*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都大事典』『京都府の歴史散歩 中』『古都の歳時記 くらしと年中行事』『京都の地名検証 2』


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