長尾天満宮 (京都市伏見区)
Nagao-temmangu Shrine
長尾天満宮 長尾天満宮
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江戸時代、1840年(天保十一年)に造られた参道石段








拝殿



臥牛
 長尾天満宮(ながお てんまんぐう)は、醍醐寺の北に位置している。醍醐の氏神さんとも呼ばれ、醍醐の産土神として信仰を集めた。
  祭神は菅原道真、大己貴命(おおなむちのみこと)、須佐男命(すさのおのみこと)を祀る。
 学問、受験の神としての信仰がある。
◆歴史年表 平安時代、903年、菅原道真没後、醍醐寺開山・聖宝の弟子・観賢により道真の墓を築いたという。
 940年、第60代・醍醐天皇の御願により、菅原道真を祀ったことに始まるという。(社伝、『山城名勝志』)
 安土・桃山時代、1598年、醍醐寺より知行が許されていた。(『醍醐寺文書』)
 1600年、豊臣秀吉の命により紀州の満願寺を解体移築し、下醍醐の金堂が建立された。この時、工事中に怪我人が続出したため、醍醐天皇の御願寺に功徳することへの菅原道真の祟りがあるとして勧請されたともいう。
 江戸時代、1801年、社殿が再建される。
 1805年、焼失する。
 1821年、再建された。
◆観賢 平安時代中期の真言宗の僧・観賢(かんげん、854-925)。詳細不明。般若寺僧正。秦氏、伴氏ともいい、讃岐国の生まれ。872年、真雅(空海の実弟)により出家・受戒、聖宝より三論・真言密教を学び、895年、灌頂を受けた。900年、仁和寺別当、弘福寺別当・権律師、延喜年間(901-923)、東寺長者・法務・検校、醍醐寺初代座主、金剛峰寺座主・検校を歴任、兼任、923年、権僧正に任じられた。
 真言宗を東寺中心に統合した。般若寺を創建、奏請し、921年、空海に弘法大師の号を賜った。空海が唐から請来した「三十帖冊子」を東寺の経蔵に納めた。
◆聖宝 平安時代の真言宗の僧・聖宝(しょうぼう、832-909)。恒蔭王(つねかげおう)。理源大師。父は兵部大丞葛声王の子。第38代・天智天皇皇子の歌人・施貴皇子(しきのみこ)の子孫。16歳で東大寺・真雅(空海実弟)により出家した。願曉、円宗、平仁、玄栄に三論、法相、華厳を学ぶ。葛城山、大峯山で修験道を修めた。869年、興福寺・維摩会の堅義に三論宗の立場で出る。871年、真雅より無量寿法を受ける。874年、醍醐寺を創建。884年、東寺・源仁より伝法灌頂を受けた。890年、藤原良房が聖宝のために建立した深草・貞観寺の座主。飛鳥・川原寺検校、東寺長者・別当、西寺別当、905年、東大寺東南院院主・別当、七大寺検校。奈良・弘福寺などに就く。第59代・宇多天皇、第60代・醍醐天皇の帰依を受けた。真言宗醍醐派小野流の祖。吉野、金峯山の整備、造仏を行い、中世以降、修験道中興の祖といわれた。
 生前の菅原道真は聖宝にこの地、長尾を自らの墓所とするとの約束を交わしたという。
◆菅原道真 平安時代前期の公卿、文章博士、歌人・菅原道真(すがわら の みちざね、845-903)。菅原是善の3男に生まれた。第59代・宇多天皇、第60代・醍醐天皇に重用される。894年、遣唐大使に任命されるが、その中止を建議した。右大臣(899) となり、左大臣・藤原時平の讒言(告げ口)により、大宰権帥に左遷され、都に戻ることなく大宰府で没した。
 903年に道真が政治的な謀略により左遷され大宰府で亡くなると、その後約50年都では、旱、疫病(疱瘡)、月食、大彗星、地震、天候不順などが続いた。
 道真の政敵・藤原菅根、藤原時平の死(909)、左遷を命じた醍醐天皇の皇太子保明親王の死(923)、清涼殿落雷(930)による藤原清貴、平希世の死、醍醐天皇自身の死(930)が相次いだ。
 これらの異変は、道真の怨霊の仕業と怖れられる。道真怨霊についての文献初出は、平安時代中期「日本紀略」という。没後、正一位、太政大臣を追贈されている。当初は、雷神、祟り神として恐れられ、天神として学問の神様として祀られた。
 生前の道真は、醍醐寺の聖宝にこの地、長尾を自らの墓所とするとの約束を交わしたという。道真没後、道真の衣服と遺物が大宰府から持ち帰られ埋められ、当社境内に菅公衣裳塚が築かれたという。その後、北野天満宮建立後に、当社が営まれたという。(『山州名跡志』) 
◆源頼政 平安時代の武将・源頼政(みなもと の よりまさ、1104‐1180)。源仲正の長男に生まれた。後白河法皇をめぐって藤原通憲(信西)・平清盛と藤原信頼・源義朝とが対立した、1159年、平治の乱では、平清盛方につき、平家政権下唯一の源氏となった。1180年、平氏追討のため以仁(もちひと)王をたてて挙兵したが敗れ、三井寺の僧兵とともに落ち延びる途中、平知盛、重盛の軍に追われ、平等院境内「扇の芝」で自刃した。
 鵺(ぬえ)退治の伝説、歌人としても知られる。境内参道途中に「頼政道跡の碑」がある。道は以仁王挙兵の際に頼政が、三井寺から奈良へ抜ける際に通ったといわれている。
◆建築 「本殿」は、江戸時代、1821年に再建された。柱、垂木、梁などは胡粉下地に朱色、極彩色の岩絵の具の彩色、文様が施されている。正面の仙人・犬・梅、仙人・虎・竹、仙人・松、側面の玄武、鶴・雲などの蟇股は輪郭からはみ出した彫刻がある。木鼻は獏、獅子、龍・獅子、渦・若葉が本殿周囲に飾られている。脇障子には鯉の滝登り、獅子の子育てが彫られている。三間社流造、杮(こけら)葺。
◆鳥居 鳥居は明神鳥居になる。島木の反りはあり、増しはなし、島木鼻の切り様は水切。江戸時代、1641年に建立された。石造。
◆道真 菅原道真と道真左遷に関わった醍醐天皇がこの地で近接している。
 参道の石段を登りきったすぐ右手に「菅公衣裳塚」があり、宝篋印塔、石灯籠などが立つ。醍醐寺の観賢は、道真没後、大宰府よりその衣裳と遺物を取り寄せ、この地に埋めたものという。醍醐寺を創建した醍醐天皇は、藤原時平の讒言により道真を大宰権帥として左遷させている。道真没後、天皇の死もまた道真の怨霊の仕業によるとされた。
 当天満宮は、天皇が道真の怨霊を鎮めるために建立したとされる。ただ、道真と醍醐寺開山の聖宝とは生前より親交があったといい、道真が寺を訪れた際に、道真自らがこの地を墓所とすることを頼んだともいう。その後、道真が北野天満宮に祀られたため、後にこの地に当天満宮の社殿を建立したという。
◆頼政道 境内参道の石段途中に、「頼政道跡」の石標が立つ。
 平安時代、1180年、源頼政の勧めにより、以仁王(もちひとおう)は、最勝親王と自称し、平氏追討の令旨(りょうじ)を各地の源氏に発した。だが、計画が事前に発覚する。王は頼政らと挙兵し、園城寺で頼政と合流した。その後、奈良に向かい、逢坂、山科、醍醐、日野、木幡(平尾山)、五ヶ庄の間道を経て宇治に着く。この間の行程が「頼政道」と呼ばれている。当宮の南、一言寺にも「頼政道」が残るという。
 頼政は平等院で戦死、王も平氏に追われ山城綺田(かばた)で討死した。
◆年間行事 御出祭(例祭)(10月28日)、本祭(例祭)(11月1日)、御送(11月3日)。


*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。

*参考文献 『古建築の装飾』『京都・山城寺院神社大事典』『事典 日本の名僧』『鳥居』『京都府の歴史散歩 中』『京都の地名検証 2』『昭和京都名所図会 6 洛南』


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本殿

本殿

本殿、高欄

本殿、妻飾、朱色に塗られた二重虹梁、最上部に大瓶束と左右の笈形、その下に蟇股、その下に龍と獅子の二段の木鼻。その左右端に獅子の木鼻。

本殿

本殿、4つの繋ぎ虹梁

本殿、象の木鼻

蟇股、仙人・犬・梅

透かし彫りの幕板、鯉の滝登り

稲荷社、宇賀御魂神(うかのみたまのかみ)

八幡宮・応神天皇(おうじんてんのう)

三社、春日社・春日大神(かすがおおかみ)、蛭子社・事代主命(ことしろぬしのみこと)、住吉社・住吉大神(すみよしおおかみ)

皇太神宮

皇太神宮


皇太神宮、天照大神(あまてらすおおかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)

手水舎

菅公衣裳塚、菅原道真が生前、墳墓の地にと望んでいたといわれている。死後、道真の衣服と遺物が大宰府から持ち帰られ埋められたとされる。 

菅公衣裳塚

菅公衣裳塚、歌碑

「頼政道跡」の碑、以仁王挙兵の際に頼政が、三井寺から奈良へ抜ける際に通ったといわれている。参道石段途中にある。
 長尾天満宮 〒601-1323  京都市伏見区醍醐伽藍町18  075-571-0074
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