崇道神社 (京都市左京区) 
Sudo-Jinja Shrine
崇道神社 崇道神社
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拝殿






本殿



本殿


 崇道神社(すどう じんじゃ)は、上高野の西明寺(さいみょうじ)山麓、高野川(八瀬川)河畔の若狭街道(朽木街道、鯖街道)に沿いにある。この地は、平安京の大極殿の北東、鬼門の方角に当たる。
 かつて、「高野御霊」「高野村御霊社」「高野社」、また「天王さん」「宮さん」とも呼ばれている。
 祭神は第50代・桓武天皇の弟・崇道天皇(早良<さわら>親王)を祀る。
 式内社。平安時代、『延喜式神名式(延喜式神名帳)』(927)中「愛宕郡 二十一座 大八座 小十三座」の小野神社、出雲高野神社、伊多太神社が比定されている。
 かつて比叡山麓(左京区)七里の産土神の一つ。京都洛北・森と水の会。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 平安時代、貞観年間(859-877)以降、創建されたともいう。(社伝)
 863年、神泉苑での御霊会で、崇道天皇ら6人の御霊が祀られた。その後、崇道神社が創建されたともいう。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、周辺の廃社を合祀する。高野郷総社となる。
 江戸時代、高野御霊と呼ばれ地域の産土神として祀られる。
 1613年、付近住民の夢告により、山中の古い墓の石室より「位牌」(小野毛人の墓誌)が発見される。黒川道道祐、伊藤東涯、狩谷掖斎が考証する。
 元和元年(1615-1624)以後、吉田神道に属する。(「京都府愛宕郡村志」)
 1697年、墓誌が再び埋納された。木製の墓誌複製が近くの宝幢寺に移されている。
 近代、1895年、墓誌が盗掘され、その後埋め戻される。
 1908年、伊多太神社が境内に遷される。
 1913年、墓誌は保存のために石室より取り出された。
 1915年、式内社・出雲高野神社、小野神社を再興し合祀する。
 現代、1971年、小野毛人を祀る小野神社社殿が再興される。
◆早良親王 奈良時代-平安時代の皇族・早良親王(さわら しんのう、750-785)。第49代・光仁天皇(白壁王)の第2皇子。母は高野新笠。第50代・桓武天皇の弟。768年、出家し東大寺に住した。770年、父の即位により親王となる。781年、桓武天皇の即位に伴い皇太弟となる。785年、造長岡宮使長官・藤原種継暗殺事件に連座し、その首謀者、また天皇擁立計画があったとされる。皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉された。淡路に流される途中、無実を訴え、河内国高瀬橋付近で絶食死したという。遺骸は淡路島に運ばれた。
 事件は桓武天皇側の謀略とみられている。陰陽師は、桓武天皇の第1皇子・安殿親王の病弱の原因は、早良親王の怨霊によるとした。800年、桓武天皇は、早良親王に崇道天皇の号を追贈する。墓も改葬させ、淡路に寺を建立し、さらに大和の八嶋陵に改葬した。806年、桓武天皇が亡くなったその日、事件に関係したすべての人の罪が解かれた。
◆小野毛人 飛鳥時代の官人・小野毛人(おの の えみし、?-677)。詳細不明。小野妹子の子。毛野の父。第40代・天武天皇の朝廷に仕えた。太政官兼刑部卿に任命された。
◆伊多太 境内に、摂社・伊多太(いただ)神社が祀られている。この地の氏神であり、王城鎮護の神としても崇敬された。
 祭神は伊多太大神になる。この「いただ」は、「湯立て」という豊作祈願の神事(湯立儀)に由来し、その転訛といわれている。神事・湯立儀は出雲系であり、巫女はかつて宮中に奉仕したという。出雲系の農耕守護神を祀っているとみられ、また、湧水の神としても崇められた。平安時代、907年、延喜式内社となった。近世以降は学問の神としても信仰を集めた。
 なお、伊多太神社は、近代以前、子供の虫封じで知られる現在の三宅八幡神社、北東の左京区上高野大明神町にあったという。1908年、崇道神社境内に遷された。三宅八幡神社も現在地(左京区上高野三宅町)に遷る。
◆出雲高野神社 古く廃社した出雲高野神社の所在地について詳細は不明。この高野の地にあっともいう。また、出雲郷一帯、出雲路橋付近、鴨川と高野川の合流した一帯ともいう。
 延喜の制では官社に列せられた。1915年に崇道神社境内に再建された。1976年に社殿が再建された。祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)を祀る。
◆小野神社 小野神社には、この地に移住してきた小野氏の祭神が祀られているとみられている。小野氏は、かつて大和の王珥氏(わに、旧大和国添上郡和邇、現天理市)から、琵琶湖西岸の和邇(わに、滋賀県大津市)に勢力を移し、さらに現在の上高野一帯に移住してきたとみられている。
 この地は、山城国愛宕郡小野郷にあたり、小野氏の本拠地になっていた。崇道神社の地も小野氏の氏神・小野神社の旧地ともいう。当初は境内の川向にある御旅所、里堂(神輿庫、上高野植ノ町)の2mほどの石垣の上に祠があり、祀られていたという。859年、従五位下に叙せられた。延喜の制で官社になる。後に小野氏の衰微により鎮座地を失う。近代、明治期(1868-1912)まで「ズンショ(神所、十三祠の意)」の森があり、ここが旧地ともいう。(「参拝の栞」)
 1971年に現在の神社が再建された。いまは小野毛人(小野妹子もとも)を祀る。
◆七里の産土神 かつて比叡山麓(左京区)に七里(ななさと)の産土神が祀られていた。
 七社とは、一乗村・八大神社、高野村・御霊社(現・祟道神社)、修学院村・天主社(現・鷺森神社)、舞楽寺・天王社(八王子社、後に現・八大神社に合祀)、藪里・比良木天王社(牛頭天王社、後に現・八大神社に合祀)、山端・牛頭天王社、白川村・天王社(現・北白川天満宮)だった。
 祭礼(七里祭、さんやれ祭)(3月5日)では、修学院天王社に各社の神輿が集まった。
◆藤原種継暗殺事件 奈良時代、785年9月23日深夜、桓武天皇の側近、長岡京遷都を推進していた造長岡宮使長官・藤原種継が射殺された。種継は嶋町の巡回中だったという。
 この藤原種継暗殺事件の実行犯・大伴継人は即刻射殺、共犯者ら数十人が捕えられる。首謀者とされた官人・歌人の大伴家持は死亡していたにもかかわらず官位を奪われ、子らも流罪となる。皇太子・早良親王は、乙訓寺に幽閉、無実を訴え淡路に移送される途中で、絶食して亡くなる。処刑されたともいう。事件は、桓武天皇の子・安殿親王(のちの第51代・平城天皇)を皇太子にするための陰謀だったともいう。
 これより以前、770年、第49代・光仁天皇は、井上内親王を皇后、子・他戸(おさべ)親王を皇太子に定めた。771年、二人は「謀反大逆」の嫌疑により皇后、皇太子を廃される。代わりに皇太子には、山部親王(のちの桓武天皇)が決まった。775年、井上皇后、他戸親王も囚われ、憤死している。
 その後、桓武天皇の周辺に死者が相次ぎ、天変地異も続く。788年、桓武天皇夫人・藤原旅子が亡くなり、長岡京が雷と暴風に見舞われた。789年、美作女王、命婦・大原室子が亡くなる。790年、桓武天皇の生母・高野新笠、皇后・藤原乙牟漏、夫人・坂上又子が相次いで亡くなる。また、皇太子・安殿親王も重病になった。さらに都では旱魃、悪疫が流行する。792年、長岡京で二度の大洪水があり、それら一連の出来事は早良親王の祟りによると恐れられた。
 桓武天皇が占わせた陰陽師は、早良親王の祟りによるものとした。和気清麻呂は、宇太の地(平安京)への再遷都を桓武天皇に進言した。794年、遷都は実行され、長岡京はわずか10年で棄京された。だが、この年、安殿親王の妃・藤原帯子が急死している。また、地震も起きた。
 800年、桓武天皇は、早良親王に崇道天皇の号を追贈し、墓も改葬させる。淡路に寺を建立、大和の八嶋陵に改葬した。806年、桓武天皇が亡くなったその日、事件に関係したすべての人の罪が解かれた。
 桓武天皇陵は当初、葛野郡宇太野の地に定められた。だが、山火事が発生し、煙と灰で都が黄昏のような光景になったという。賀茂神による災火ということで、紀伊郡柏原に移された。(『類聚国史』)。863年、神泉苑で御霊会が開かれ、崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原仲成、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六霊が祀られている。
◆文化財 江戸時代、1613年、境内裏山(愛宕郡小野里、左京区上高野)で、古い墓の竪穴式石室(主体部長さ2.5m、幅1m、高さ1m)より「位牌」(小野毛人の墓誌)が発見される。3枚の石を下に敷き、4枚の板石の側壁、2枚の板石の蓋で覆われていた。その後、墓誌は一度元の墓に戻されている。近代、明治期に盗難に遭う。1914年、保存のために取り出された。
 「金銅小野毛人墓誌」(国宝)は現在、京都国立博物館所蔵になっている。鋳銅製であり、文字を刻んだ後に鍍金を施す。文字は両面に刻まれ、表に小野毛人が天武朝に仕え、納言の職、刑部卿で正四位の地位にあったと記している。677年、小野毛人の墓が営まれた。ただ、墓誌自体は後世の追納ともいう。奈良時代(8世紀前半)、飛鳥時代(687-697)ともいわれる。読み下し文は次のようになる。「飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)に天の下治めたまいし天皇の御朝、太政官兼刑部大卿に任じ、位は大錦上なる小野毛人朝臣の墓、営造は、歳は丁丑(ひのとうし)に次(やど)る年の十二月上旬、即ち葬る」。墓誌の長さ58.9cm、幅5.8cm。
◆例祭 宵宮祭(5月4日)では、本社より鞍に榊を立てた神馬が高野川向の里堂(さとんどう、上高野槇ノ町)に神霊を迎える「みこし遷し」が行われる。例祭(5月5日)では、神輿は上高野の氏子区域を巡行し、御旅所(おかいらの森)で神事を行い本社に還幸する。
 古く、祭礼の時、神輿の巡行は定められておらず、神意のままに渡御していたという。神意に背くと神輿が重くなりまったく動かなくなったという。(『拾遺都名所図会』)
◆源氏物語 『源氏物語』「夕霧」巻では、落葉の宮母娘が、延暦寺律師の加持祈祷を受けるために「小野わたり」の山荘に移る。夕霧は見舞いに訪れる。一条御息所は亡くなり、夕霧は落葉の宮と結婚する。
 祟道神社付近を愛宕郡小野郷と呼んだ。
◆樹木 シイの林がある。モミがある。
◆年間行事 元旦祭(1月1日)、成人祭・勧学祭・宮座就任奉告祭(1月15日)、節分祭・古神符礼焼納祭(2月3日)、祈年祭(田作の事始め)(2月17日)、宵宮祭(5月4日)、例祭・神幸祭(5月5日)、花摘祭(田植五穀豊穣祈念)(6月30日)、伊多太神社例祭(9月9日)、真榊祭・神忌祭(早良親王慰霊)・小野神社例(10月17日)、新嘗祭・新穀感謝祭(11月23日)、小野毛人墓前祭・御火焚祭(12月5日)、除夜祭(12月31日)。
 月次祭(毎月1日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 「崇道神社参拝の栞」『京都・山城寺院神社大事典』『京都大事典』『日本の古代遺跡28 京都Ⅱ』『平安の都』『洛北探訪 京郊の自然と文化』『京都府の歴史散歩 中』『昭和京都名所図会 3 洛北』『京都の寺社505を歩く 上』『京都事典』『京のしあわせめぐり55』『京都 神社と寺院の森』


   伊多太神社旧跡
      宝幢寺      御蔭神社      三宅八幡神社      塚本社跡      上御霊神社      珍皇寺      高野川       出雲路橋     乙訓寺(長岡京市)      長岡京跡(大極殿公園)        

天照大神、豊受大神

式内社、出雲高野神社

春日大神、赤山大神、十二社大神

宇佐八幡大神、北野天満大神、市杵嶋姫大神、弁財天大神

恵比須大神、貴布祢大神、日吉大神
式内社 小野神社

摂社・小野神社、小野氏が創建し、小野氏一族を祀る。祭神は小野毛人を祀る。

「式内社 小野神社」の石標

小野神社

小野神社

宝塔

如意輪観世音大菩薩
如意輪観世音大菩薩

扁額「観世音」

地蔵尊


役行者?
式内社 伊多太神社

伊多太(いただ)神社は、この地の氏神として祀られていた。湧水の神、農業神、王城鎮護の神。神事・湯立儀は出雲系で巫女は宮中にも奉仕した。平安時代、907年、延喜式内社となった。近代、1908年崇道神社に合祀された。

伊多太神社

右より教之大神、足之大神、三輪大神、三穂津大神、日吉大神、鎌倉大神
そのほか

社務所



手水舎

「崇道神社之碑」

御滝

御滝

五味藤九郎之碑、五味藤九郎は、江戸時代、1676年に、高野川の水を高野村の川南台地に送る水路を開いた。
小野毛人の墓

小野毛人の墓

小野毛人の墓碑、内藤湖南の筆による石碑。「飛鳥浄御原宮治天下天皇、御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上 (裏) 小野毛人朝家臣之墓 営造歳次丁丑年十二上旬即葬」と刻まれている。
 墓誌の長さ58.9㎝、幅5.9㎝、厚さ3㎜、墓誌は後に追納されたともいう。

「金銅小野毛人墓誌」(国宝)、説明板より

小野毛人の墓のある裏山からの眺望

【参照】近くを流れる水路
御旅所・里堂

【参照】崇道神社御旅所、おかいらの森

【参照】御旅所は「おかいらの森」にある。

【参照】おかいらの森

【参照】崇道神社の里堂

【参照】里堂、神輿庫、小野神社の旧地という。

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 崇道神社 〒606-0064 京都市左京区上高野西明寺山町34   075-722-1486
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