東本願寺山科別院 (京都市山科区)
Higashihongan-ji yamashina-betsuin Temple
東本願寺山科別院 東本願寺山科別院 
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 東本願寺山科別院(ひがしほんがんじ やましなべついん)は、山科東別院、東別院、東御坊、御坊さんとも呼ばれている。正式には東本願寺山科別院長福寺(ちょうふくじ)という。
 真宗大谷派。東本願寺の山科別院。本尊は阿弥陀如来立像。 
◆歴史年表 室町時代、1478年、本願寺8代・蓮如により創建された。
 1480年、御影堂が建立された。
 1481年、阿弥陀堂が建立されている。境内は現在の山科中央公園一帯(西野阿芸沢町など6町)にあった。当初は、京都本願寺、野村殿御坊、野村殿とも呼ばれた。土地は山科七郷地侍衆の海老名五郎左衛門の寄進によるという。
 1532年、六角氏と法華宗徒(延暦寺衆徒)により焼き討ちされ、廃絶した。
 江戸時代、1732年、17世・真如の命により光敬が、東本願寺の境内にあった長福寺を現在地に移築して創建された。
 1738年、落慶供養になる。
 1788年、東本願寺が天明の大火で被災した際には、親鸞の御真影の避難地になる。
 1864年、東本願寺が禁門の変で被災した際には、親鸞の御真影の避難地になる。
 近代、明治期(1868-1912)、山科別院長福寺と寺号を改める。
◆蓮如  室町時代の真宗の僧・蓮如(れんにょ、1415‐1499)。第7代・存如の長男として東山大谷に生まれた。母は祖母の侍女という。1420年、6歳の時、母が本願寺を去る。継母・如円の下で育つ。1431年、17歳で青蓮院で得度、中納言・広橋兼郷の猶子となる。比叡山、興福寺で修行したという。1442年、如了尼と結婚する。1449年、東国布教に出る。1457年、父の死により本願寺第8代となる。1465年、比叡山衆徒により本願寺は破却された。近江に逃れる。(寛正の法難)。1468年、延暦寺は堅田を攻撃する。(堅田大責)。1468年(1469年とも)、大津近松に移り、祖像を遷す。1469年、東国に修行に行く。1471年、越前・吉崎に襲撃を避けて道場、吉崎御坊を開く。1473年、『正信偈・和讃』開版。1474年、文明の加賀一向一揆が起こる。1475年、一向一揆に敗走し、河内出口に向かう。1478年、山科に移る。1483年、本願寺を再興し、山科での布教を続けた。1488年、長亨の加賀一揆が起こる。1489年、山科本願寺南殿に隠居した。1496年、大坂石山に坊舎を建て妻子と隠棲した。1499年、山科本願寺に戻り亡くなる。
 蓮如は1461年以後、現世利益ではなく、救われて仏となること、師による恩ではなく教説による仏恩を説き、布教に御文(おふみ)(御文章<ごぶんしょう>) を用いた。「南無阿弥陀仏」などと書かれた掛け軸の御名号(おみょうごう)、門徒の組織である講、親鸞の教えの木版印刷などを通じた布教により教団の急拡大を行った。
◆真如 江戸時代中期の浄土真宗の僧・真如(1682-1744)。15世・常如の長男として生まれた。1700年、17代法主となる。大谷祖廟、難波御堂などを再建している。
◆本尊 本堂に本尊「阿弥陀如来像」を安置する。
 本堂安置の「蓮如上人木像」は、75歳の自刻像という。五男・実如に法灯を譲った際のものという。
◆建築 茶室「陽秋亭」は、蓮如隠居所の南殿遺構という。
◆年間行事 蓮如上人御正当法要(3月24-25日)、親鸞聖人報恩講(9月24-25日)。


*年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『真宗大谷派』『事典 日本の名僧』『日本の名僧』『京都古社寺辞典』『京都府の歴史散歩 中』『洛東探訪』


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蓮如像

【参照】山科本願寺寺内町推定復元図(洛東高校本・西宗寺本より、『洛東探訪』より一部抜粋)
map 東本願寺山科別院 〒607-8087 京都市山科区竹鼻サイカシ町13-17   075-581-3410
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