金福寺 (京都市左京区)  
Kompuku-ji Temple
金福寺  金福寺
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開運大弁財天


弁財堂














「花守は野守に劣る今日の月」、与謝蕪村
「西と見て日は入りにけり春の海」、江戸時代の俳人・寺村百池(1748-1836)




 東山のひとつ、瓜生(うりゅう)山北西の山腹に金福寺(こんぷくじ)はある。寺は、俳諧とゆかりが深い。山号は仏日山という。
 臨済宗南禅寺派、本尊は聖観音。
 京都洛北・森と水の会。
◆歴史年表 平安時代、864年、円仁(慈覚大師)の遺志を継ぎ、安恵(あんね)僧都が創建したという。大師自作という聖観音像を安置した。当初は天台宗だった。
 中世(鎌倉時代-室町時代)、荒廃する。
 江戸時代中期、江戸時代初期、貞亨年間(1684-1688)、元禄年間(1688-1704)とも、圓光寺の鉄舟(てっしゅう)和尚により再興された。以後、臨済宗南禅寺派末寺に属した。
 1688年以降、1689年とも、俳人・松尾芭蕉と親しく芭蕉も寺を訪れたともいう。
 1772年以降、芭蕉庵は荒廃していたという。
 1776年、1781年とも、江戸時代の俳人・画家の与謝蕪村が荒廃していた芭蕉庵を再興する。住僧・松宗(しょうそう)の了承を得て、自在庵道立を発起人とした。(『洛東芭蕉庵再興記』)
 1862年、村山たか女が入寺する。
 近代、1867年、1869年とも、村山たか女の寄進により弁天堂が建立された。
 1935年、俳人・高浜虚子が訪れている。
◆鉄舟 江戸時代の臨済宗の僧・鉄舟(てっしゅう、生没年不詳)。詳細不明。圓光寺の和尚。金福寺を再興した。松尾芭蕉と親交した。
◆松尾芭蕉 江戸時代前期の俳諧師・松尾芭蕉(まつお ばしょう、1644-1694)。芭蕉庵桃青など。伊賀国上野(柘植とも)に生まれた。伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将・藤堂新七郎良精家の料理人として仕える。若君・藤堂良忠(俳号、蝉吟)と共に俳諧を嗜む。北村季吟に学び俳号は宗房とした。1666年、蝉吟の死とともに仕官を退き、俳諧に入る。1673年、江戸に出て、水道修築役人になり、やがて俳諧師の道を歩む。其角が入門する。1680年、深川に草庵「芭蕉庵」を結んで隠逸の生活に入る。1682年、庵焼失後、北は陸奥平泉、出羽象潟から西は播磨明石まで旅し、大坂南御堂前花屋の裏座敷で旅の途上に亡くなった。『奥の細道』『猿蓑』などを著す。
 京都には46歳頃に訪れた。京都での旧居は金福寺裏の芭蕉庵、嵯峨・落柿舎、円山・芭蕉堂などがある。庵では「うき我を淋しがらせよかんこどり」と詠んだという。落柿舎滞在中の『嵯峨日記』に記された句になる。境内に句碑が立つ。
◆与謝蕪村 江戸時代の俳人・画家の与謝蕪村(よさ ぶそん、1716-1784)。摂津国に生まれた。1737年、江戸に出て早野巴人(はじん)に師事し俳諧を学ぶ。1742年、関東遊歴、憧れの松尾芭蕉の足跡を辿り、東北地方を周る。1751年、(1752年とも)、京都に上る。1754年、丹後与謝、讃岐などを旅し、1757年、京都に戻る。42歳の頃、京都の四条烏丸付近に住み、与謝を名乗った。1766年、蕪村を中心に結社「三葉社」が生まれた。巴人の夜半亭2世を継ぐ。1771年、尾張国の下郷学海の依頼により、池野大雅との合作「十便十宜帳」を描く。1779年、「奥の細道屏風図」を描く。江戸俳諧の中興の祖、俳画の創始者。
 蕪村は、一乗寺辺りに吟行に訪れていた。遺言に、芭蕉庵と芭蕉句碑の傍らに葬られることを望んだという。金福寺に墓がある。蕪村忌(12月25日)。
◆江森月居 江戸時代の俳人・江森月居(えもり げっきょ、1756-1824)。京都生れ。国学は荒木田久老、村田春門に学び、与謝蕪村門下となり、高井几董(きとう)と共に蕪村門の双璧と称された。1790年、二条家雪月花の会に加藤暁台、井上士朗と銅駝御殿に召され、百韻の連句を興行した。三大家(ほかに、東の道彦、中京の士朗)の一人に数えられた。蕪村没後、一門を統率した。著書に『夜あかし』。墓は金福寺にある。
◆村山たか女 江戸時代の尼僧・村山たか女(むらやま たかじょ、1809-1876)。たか。近江に生まれる。父は多賀大社・般若院の社僧、母は彦根の芸妓という。また、父は尊勝院長老、母は般若院の娘ともいう。すぐに養女に出された。美貌の人であり、三味線、歌、茶、華道も嗜んだ。江戸幕府の大老で、井伊直弼の兄・井伊直亮(1794-1850)の侍女、祇園の芸妓・可寿江(かずえ)として名をはせた。後に金閣寺住職に囲われる。その坊官・多田一郎の妻となり、帯刀(たてわき)を生む。近江彦根藩第15代藩主で、江戸幕府大老・井伊直弼(1815-1860)の愛人、後に国学者で井伊参謀の長野主膳(1815-1862)の妾になった。第121代・孝明天皇の女官になり、直弼、主膳の隠密として尊攘派志士の情報を流した。1858年、尊攘派らを弾圧した安政の大獄に協力、貢献する。1860年、桜田門外の変で直弼が暗殺される。1862年、その報復のために、たか女は長州と土佐藩士により洛西で捕らえられる。主膳は彦根で斬首、たか女は荒縄で縛られ、三条大橋に尼姿で晒された。子・帯刀は粟田口で斬られた。3日後、たか女は宝鏡寺の尼僧により助けられる。その後、清凉寺、圓光寺を経て、金福寺に寺守として入る。尼となり妙寿と称した。金福寺で晩年の14年間を過ごした。直弼の菩提を弔い、日々戒名を書き綴ったという。金福寺で亡くなる。墓は圓光寺にある。
 生涯は、舟橋聖一『花の生涯』、諸田玲子『奸婦にあらず』に描かれている。境内には、寄進した弁財堂が建つ。遺品も展示されている。
◆芭蕉庵 境内に、江戸時代の俳人で「俳聖」と呼ばれた松尾芭蕉(1644-1694)ゆかりの「芭蕉庵」が建てられている。芭蕉は、貞亨年間(1684-1688)に鉄舟を訪ねたともいう。芭蕉は寺を訪れなかったともいう。芭蕉と鉄舟とは親交があり、鉄舟が芭蕉を偲んで庵名を名付けたともいう。また、後に里の人々が呼ぶようになったともいう。庵は、その後、荒廃した。
 1781年、江戸時代の俳人・画家の与謝蕪村が庵を再興する。庵では、結社「写経社会」の句会(4月、9月)を催していた。
 庵室は、四畳半、そのうち台目の床の間があるため三畳台目になる。隅炉を切る。東、南に廻縁。北に水屋(四畳半)は板間、流し、長炉がある。藁葺。
◆仏像 本尊の「聖観音」は円仁作とされる。
 弁天堂に「弁才天像」が安置されている。
◆庭園 方丈南の書院「残照亭」に南面して、枯山水式の庭園がある。江戸時代中期に作庭された。白砂、築山、大小の皐月(躑躅)の丸刈り込みがあり、その奥の高台に芭蕉庵が建ち、東山を借景にしている。
 紅梅、馬酔木、山茶花、紅葉が植えられている。
◆文化財 蕪村自筆の『洛東芭蕉庵再興記』は、「四明山下の南西一乗寺村に禅房あり」で始まる。
 蕪村一門愛用「二見型の文台と重硯箱」、鉄舟「芭蕉翁図」。
 村山たか女関連としては、1869年に自ら書き改めた過去帳、弁天堂建立の際の棟札、遺品などがある。
◆翁の水 境内に「翁の水」がある。かつて芭蕉が使ったという。
◆墓 背後の丘に、与謝蕪村ら近世の俳人の墓や句碑がある。蕪村の句碑は「吾も死して碑にほとりせん枯尾花」とある。蕪村の墓には妻も眠る。妻は蕪村没後剃髪し、清了尼と称した。周囲に門人・月居、月渓、景文、大魯の墓がある。
 江戸時代の絵師、呉春(月渓、1752-1811)は、四条派の始祖とされている。
 俳人としては、「京都満月会」を興した中川四明(1849-1917)、正岡子規門下の青木月斗(1879-1949)、蕪村門下の江森月居(1756-1824)、蕪村門下の吉分大魯(?-1778)、国文学者で蕪村などの研究をした穎原退蔵(1894‐1948)、画家・森川曾文(1847‐1902)、呉春の異母末弟で弟子の画家・呉(松村)景文(1779-1843)などが葬られている。
文学 俳人・高浜虚子は当寺を訪れ「徂く春や京をひと目の墓どころ」と詠んだ。 
◆樹木 ヤマモモは、樹齢300年という。京都名木百選の一つに数えられる。紅葉で知られている。
年間行事 蕪村忌(12月25日)。


*年間行事は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 上』『京都府の歴史散歩 中』『幕末京都 新選組と龍馬たち』『新選組と幕末の京都』『京都隠れた史跡の100選』『おんなの史跡を歩く』『京に燃えたおんな』『京を彩った女たち』『京の茶室 東山編』『古都歩きの愉しみ』 『週刊 日本の美をめぐる 29 与謝蕪村 池大雅と文人画』『週刊 京都を歩く17 修学院・白川』


  関連・周辺圓光寺       周辺詩仙堂           周辺狸谷山不動院       周辺本願寺北山別院       関連与謝蕪村宅跡             

方丈

方丈、井伊直弼筆の和歌「元旦緩々芝の戸のしばしと云ひてもろともにいざ語らはん埋火のもと」、たか女が大切にしていたものという。

方丈、たか女が祀っていたという福巳塔

枯山水の庭園、白砂と3段の生垣、芭蕉庵の萱葺き屋根、その背後に借景の東山が見える。

芭蕉庵


裏の丘からは、愛宕山、五山送り火「船形」なども見える。

「うき我を さびしがらせよ かんこ鳥」、松尾芭蕉

芭蕉水


鉄舟が芭蕉をもてなしたという井戸

芭蕉の碑、江戸時代、1776年に与謝蕪村、俳人・儒者・樋口道立(1738-1813)が立てた。
 蕪村は「我も死して 碑に辺せむ 枯尾花」と詠んだ。 蕪村の遺言通り、碑の近くに納骨された。

「時雨るるや 軒の干菜の 錣(しころ)釣り」、近代の俳人・編集者・中川四明(1850-1917)。ほかに当寺で詠んだ句に「初虹や 白川道を 花売女」「金福寺の 忌によりて また蕪汁」。

「松村呉春之碑」、江戸時代の絵師・松村呉春(1752-1811)。碑は舎弟の絵師・松村景文(1779-1843)が立てた。

「初省墓」、村山たか女(1809-1876)の参り墓、たか女の本墓は近くの圓光寺にあり、その土を埋めてある。

「粟色乃 落葉をいだき かまきりの 今朝のつめたき 土にうごかず」、ゆ里?

「潁原退蔵筆塚」、近代の国文学者・俳人・潁原退蔵(えばら たいぞう、1894-1948)。揮毫は近現代の言語学者・新村出(しんむら いずる、1876-1967)による。

「青木月斗の墓」、近代の俳人・青木月斗(あおき げっと、1879-1949)。当寺で詠んだ句に「蕪村の墓に隣して寝る霜夜かな」「狸追いし和尚の話夜半(よわ)の冬」「提灯で墓へ参りぬ星冴ゆる」がある。

与謝蕪村の墓

江森月居の墓、江森月居(えもり げっきょ、1756-1824)。「朝霧にまぎれて出む君が門」「敗軍の五六騎蓑をうちかづき」

吉分大魯の墓、江戸時代の徳島藩士・俳人・吉分大魯(よしわけ たいろ、?-1778 )。

森川曽文の墓、江戸時代後期-近代の画家・森川曽文(もりかわ そぶん、1847-1902)

呉月渓の墓、江戸時代の画家

呉(松村)景文の墓、江戸時代の画家・呉(松村)景文(-1843)

ヤマモモの大木

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