芬陀院 (雪舟寺) 〔東福寺〕 (京都市東山区)  
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芬陀院 (雪舟寺)  芬陀院 (雪舟寺)
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延段




庫裏




雪舟作庭という南庭、白砂と苔と石組みによる。右が亀島、左が鶴島の石組み。亀石の中心石には逸話がある。


茶室・恵観堂、図南亭が復元されたもの。


重森三玲復元の東庭も、苔と石による。


北庭


茶室「恵観堂」の丸窓から望む東庭
 東福寺塔頭のひとつ芬陀院 (ふんだいん)は、利華院(りげいん)、雪舟寺(せっしゅうじ)とも呼ばれている。正式には芬陀利華院(ふんだ りげいん/ふんだ りけいん)と呼ばれる。
 室町時代の水墨画家で「画聖」と呼ばれ、また禅僧でもあった雪舟(1420-1506)が当院に身を寄せ作庭した。
 臨済宗東福寺派。本尊は阿弥陀如来。
◆歴史年表 鎌倉時代、元亨年間(1321-1324)、関白・一条経通が父・内経の菩提のために創建した。東福寺・定山祖禅を開山とする。以後、一条家の菩提所(香華院)になる。関白・一条兼輝(1401-1481)により復興される。
 室町時代、寛正年間(1460-1466)、応仁年間(1467-1468)とも、方丈南庭が作庭されたという。
 江戸時代、1691年、焼失する。
 1755年、本堂、茶室「恵観堂」を焼失している。
 1778年、第116代・桃園天皇の中宮・恭礼門院(一条兼香女)の御殿の一棟を移築し、現在の書院などが再建された。
 近代、1899年、第122代・明治天皇皇后・昭憲皇太后の御内帑(ないど)金を下賜され改築される。
 1937年、作庭家・重森三玲が庭園の実測を行う。
 1939年、重森三玲が庭園の復元を行った。
 現代、1957年、京都府文化財保護委員会の中根金作技師の指導により、庭園の整備修理が行われる。
 1969年、茶室「恵観堂」が復元される。
◆定山祖禅  鎌倉時代-室町時代の臨済宗僧・定山祖禅(じょうざん そぜん、1298‐1374)。相模に生まれた。東福寺・双峰宗源に師事し、その法を嗣ぐ。筑前・承天寺、東福寺27世、南禅寺などの住持を務めた。
 開山堂には、定山祖禅の木像、墓(石造無縫塔)がある。
◆一条内経  鎌倉時代の公卿・歌人の一条内経(いちじょう うちつね、1291‐1325)。一条内実(うちざね)の長男、母は一条実経(さねつね)の娘。従三位、権大納言、内大臣、関白となる。歌人でもあり、「玉葉和歌集」などの勅撰集に収められている。法号は芬陀利華(ふんだりけ)院。
◆一条経通 鎌倉時代-室町時代の公卿・一条経通(いちじょう つねみち、1318‐1365)。一条内経(うちつね)の長男、母は西園寺公顕(きんあき)の娘。従三位、権大納言、内大臣、左大臣を経て関白となる。法号は後芬陀利華(ごふんだりけ)院。
◆一条昭良 江戸時代前期の公卿・一条昭良(いちじょう あきよし、1605‐1672)。第107代・後陽成天皇の第9皇子、母は中和門院、一条内基(うちもと)の養嗣子となる。関白、左大臣、第109代・明正天皇の摂政、第110代・後光明天皇の摂政、関白となり、第108代・後水尾上皇を補佐した。
 茶人・金森宗和に茶の湯を学び、「茶関白」ともいわれた。法名は恵観。
◆一条兼輝 江戸時代前期の公卿・一条兼輝(いちじょう かねてる、1652-1705)。父は関白・一条教輔、母は備前池田光政の娘輝子。右大臣、左大臣を経ずに関白となる。第112代・霊元天皇の信篤く、その執政を支え、朝儀復興や朝廷制度の改革に尽力した。日記『兼輝公記』を著した。
◆雪舟 室町時代後期の画僧で水墨画・雪舟(せっしゅう、1420-1506)。等楊(とうよう)。備中に生まれた。幼くして井山宝福寺(総社市)へ入り、相国寺の周文に水墨画を学んだ。1467年、明に渡り天童山景徳禅寺で宋元画を学ぶ。帰国後、山口に画房「雲谷庵」を開設、石見、豊後に「天開図画楼(てんかいとがろう)」を開設した。晩年、岐阜の正法寺、清水の清見寺、天橋立などを旅して描いた。作品として「天橋立図」、最高傑作といわれる「山水長巻」など。
 備中の宝福寺は、東福寺の末寺であり、中興開山は宝福寺から転住している。このため、雪舟は本山・東福寺を訪れた際には、必ずこの芬陀院に起居していたという。芬陀院の祖師堂には「東福第一座雪舟等楊禅師、永正三丙寅八月八日寂」の木牌が安置されている。
◆開山堂 開山堂は境内西南隅に建つ。定山祖禅木像、無縫塔があり、北朝第6代・後小松天皇筆の扁額「普応門融禅師」が掛かる。
◆庭園 庭園は、京都最古の蓬莱式枯山水式庭園であり、近畿地方唯一の雪舟作庭という。室町時代後期、当院の大檀徒一条兼良により、雪舟に作庭させたとみられている。
 方丈南庭は禅院式枯山水の「鶴亀の庭」といわれている。室町時代、寛正年間(1460-1466)、また応仁年間(1467-1468)に造られたという。かつては水を用いない池庭形式だったとされ、鶴島、亀島のある蓬莱式になる。庭に鶴亀のように絵画的造作を配置し、背後に躑躅、刈込も取り入れている。
 庭は、17世紀、18世紀の二度の焼失に遭う。さらに、南庭の鶴島は江戸時代、文化年間(1804-1818)の一条家墓地拡張に伴い壊されている。近代、1939年、現代の作庭家・日本庭園史研究家の重森三玲(1896-1975)が庭園の復元を行った。この際に、亀島の修復と鶴島の復原が施され、東の鶴亀を新たに作庭した。その後、1957年に京都府文化財保護委員会の中根金作技師の指導により、白砂、樹木、周囲の整備修理が行われている。
 現在の方丈南庭は、白砂と苔、植栽の簡素な庭で、苔地の中に鶴島と亀島の立体的な石組になる。西(右手)の亀島は、二重基壇で中心石が立てられる。左手に亀頭石が据えられている。東(左手)の鶴島は折鶴を表わすという。鶴島は、山口市の常栄寺、亀島は益田市の万福寺など雪舟作庭にみられる共通の手法という。南庭西に、重森三玲により1879年に復元された手水鉢が据えられている。
 方丈東庭は、重森が作庭した。平面的な鶴亀石組になる。近景の松の周りに楕円状に石が据えられ亀島になる。遠景の直線状の鶴島を中心に蓬莱の連山を表すという。
 茶室「恵観堂」に露地がある。
 北庭は茶室の西にある。一条昭良ゆかりの曲玉形(まがたまがた)手水鉢、屑屋形灯籠が据えられている。
◆雪舟の逸話 雪舟による作庭に際して逸話が残されている。一条兼良が雪舟に亀の絵を描くように求めた。雪舟は方丈南庭に石組で亀を作った。亀島が組まれたその夜、庭先で物音がする。和尚が庭を覗くと、亀石が手足を動かし、庭を這っていたという。兼良は、雪舟の鼠絵の逸話を思い出し喜んだという。だが、不安を感じた和尚は、雪舟に相談する。雪舟は一笑し、亀の甲の部分に石を突き立て動きを止めた。これがいまも残る二重基壇の中心石、立石になったという。その後、明に留学した雪舟に因み、亀石の石組は「渡明の亀」と呼ばれるようになったという。兼良は、雪舟の技量を称え、一寺を建立しようとした。だが、雪舟は修行を続けたいとしてこれを断ったという。
 雪舟の鼠絵の逸話とは、備中宝福寺に入った幼い雪舟が絵ばかり描き、修行を疎かにした。僧は雪舟を仏堂の柱に縛りつけ反省を促す。夕刻、様子を見に来た禅師は、逃げようとする一匹の鼠を見つけ捕まえようとする。だが、動かない。よく見るとそれは、雪舟が自ら流した涙で、足の親指を使い描いた鼠の絵だったという。
◆茶室 書院の北には、「茶関白」といわれ茶道を愛好した一条昭良(恵観)(1605-1672)好みの茶室「恵観堂」がある。
 昭良は、東福寺参拝の際には、茶室「図南亭(となんてい)」で茶を楽しんだという。没後、その像が安置されていたという。
 江戸時代、1755年、本堂とともに焼失した。1969年に復元され、いまは「恵観堂」と称されている。
 西側に、恵観好みの曲玉(まがたま、勾玉)の手水鉢と屑屋形灯籠が残されている。

*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『古寺巡礼 京都 3 東福寺』『旧版 古寺巡礼 京都 18 東福寺』『京都・山城寺院神社大事典』『京都の禅寺散歩』『重森三玲 庭園の全貌』『重森三玲-永遠のモダンを求めつづけたアヴァンギャルド』『重森三玲 モダン枯山水』『古都歩きの愉しみ』『京都大事典』『週刊 日本庭園をゆく 22 京都洛東の名庭 3 東福寺 高台寺 智積院』『週刊 仏教新発見 19 建仁寺 東福寺』『週刊 京都を歩く 26 東福寺周辺』『週刊 古寺を巡る  38 東福寺』


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 芬陀院 〒605-0981 京都市東山区本町15丁目803  075-541-1761  9:00-17:00(1-3月 9:00-16:30)

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