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田中神社 (京都市左京区) Tanaka-jinja Shrine |
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田中神社 | 田中神社 |
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![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 舞殿 ![]() ![]() ![]() 三つ葉葵紋 ![]() 拝殿、本殿 ![]() 拝殿 ![]() 本殿 ![]() 本殿 ![]() 摂社 ![]() 摂社 ![]() 摂社 ![]() 摂社 ![]() ![]() ![]() 玉柳稲荷神社 ![]() 玉柳稲荷神社 ![]() 玉柳稲荷神社 ![]() 玉柳稲荷神社 ![]() 伊勢神宮遥拝所 ![]() 伊勢神宮遥拝所 ![]() 伊勢神宮遥拝所 ![]() 御神水 ![]() 手水舎 ![]() 手水舎 ![]() 石橋 ![]() 旧社殿跡 ![]() 境内に飼われている孔雀 ![]() クスノキ |
高野川の東、御蔭通に面して田中神社(たなか-じんじゃ)がある。古くより旧田中村の産土神として崇敬を集めてきた。 祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)を祀る。 京都洛北・森と水の会に参加。 ◆歴史年表 創建の詳細、変遷は不明。 平安時代、863年、「田中神」と記されている。(『三代実録』)。旧地の愛宕郡伊佐弥里(左京区岩倉)より遷して創建されたとみられている。 鎌倉時代、弘安年間(1278-1288)、創建されたともいう。(社伝) 中世(鎌倉時代-室町時代)、下鴨神社の末社になったという。 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)で、田中郷民が神社を中心として、防壁「田中構(たなかかまえ)」を築く。 1474年、応仁・文明の乱で、「田中構」は西軍の攻撃により炎上した。 1536年、天文法華乱で法華衆の攻撃により被災した。その後も含め、度重なる火災により文書類は消失した。 江戸時代、1628年、賀茂御祖神社(下鴨神社)の式年遷宮の際に、賀茂御祖神社の比良木(ひらぎ)社の旧殿を当社に移築した。このため、当社より青銅(銅貨)を賀茂社に奉納する。 1706年、田中村の火災により類焼する。社記などを失う。その後、再建された。 近代、1879年、末社・玉柳稲荷神社は、氏子の要望で、談合の森(団子ノ森、現在地の北東、叡山電鉄茶山駅周辺)より当社に遷された。 現代、1952年、宗教法人とし京都府知事より認証される。 ◆旧社殿 旧社殿の跡は、表参道中央部にあり、盛土し榊を植えている。 ◆賀茂社 当社は賀茂社との関わりがあった。安土・桃山時代、天正年間(1573-1592)以来、賀茂社より神供が奉仕せられていたともいう。(「賀茂御祖神社蔵鴨邑県纂書」)。 江戸時代、1628年、賀茂御祖神社(下鴨神社)式年遷宮の際に、賀茂御祖神社の比良木社旧殿を当社に移築し、青銅(銅貨)を賀茂御祖神社に奉納したとの記録がある。 ◆摂社・末社 稲田姫大神、事代主大神、倉稲魂大神、猿田彦大神、末社・玉柳稲荷神社(稲荷大神)がある。 ◆玉柳稲荷神社 末社「玉柳稲荷神社(稲荷大神)」は、本殿の東に祀られている。祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)になる。 近代、1879年、玉柳稲荷神社は、氏子の要望で、談合の森(団子ノ森、現在地の北東、叡山電鉄茶山駅周辺)より当社に遷された。かつては、団子ノ森稲荷神社と称されていた。 ◆田中構 鎌倉時代前期に、田中神社(左京区)一帯には鴨氏の集落があった。鴨長明(1155-1216)一族の鴨村であり、河崎社(こうさきのやしろ)が祀られていた。 室町時代後期、応仁・文明の乱(1467-1477)により、西軍の攻撃により河崎集落は略奪、放火にあう。1474年8月に、田中郷民により田中神社を中心にした防御壁「田中の構(かまえ)」が築かれた。(『親長卿記』)。「構」は、京中・京外の防御設備であり、南北朝時代以降に現れた。武士、貴族、庶民により構築される。田中構のほか、賀茂構、壬生構などが知られている。 1530年5月にも、乱により集落が襲われ兵火にみまわれた。(『実隆公記』)。1530年12月には、襲撃により集落がことごとく焼討ちにあい壊滅状態になる。(『二水記』)。1536年7月にも、天文法華乱で法華衆の攻撃を受けて炎上し、構、河崎社も壊滅する。(『鹿苑日録』) その後、度重なる戦渦により集落は崩壊し、下鴨神社(左京区)糺の森の西方、乱で焼亡した鴨社神舘御所跡へ氏人の村ごと移住した。江戸時代、1785年に河崎社も遷御されている。 ◆談合の森 境内末社・玉柳稲荷神社が祀られていた「談合(だんご)の森」は、「団子の森」とも呼ばれた。森は、境内の東北、250m付近(茶山、旧一乗寺道の南、田中春菜町)にあったという。 ここに、墳丘様の丘があり、墳上に稲荷社が祀られていた。「団子ノ森古墳」と呼ばれた。森は、現代、1960年頃まで残っていたという。 団子(談合)とは、「太后(たいこう、皇太后)」よりの転訛ともいう。(『愛宕郡村志』)。この太后とは、平安時代の第55代・文徳天皇皇后・藤原明子(ふじわら-の-あきらけいこ/めいし、染殿皇后、829-900)であり、その「白河陵(しらかわりょう)」ともいう。ただ、後世の付会ともいう。 また、「太后森(たんこのもり)」は知恩寺東北にあったともいう。(『山州名跡志』)。これが藤原明子の白河陵であり、現在の京大農学部構内ともいう。ただ、白河陵と北白河陵との混同によるともいう。 ◆年間行事 例祭(10月第3日曜日)。 *年間行事(拝観)などは、中止・日時・内容変更の場合があります。 *年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。 *参考文献・資料 『京都・山城寺院神社大事典』、『昭和京都名所図会 5 洛中』、『昭和京都名所図会 3 洛北』、『京都大事典』、『京都市の地名』、『京都府の歴史散歩 中』、下鴨神社駒札 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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