曇華院 (京都市右京区) 
Donke-in Temple
曇華院 曇華院
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玄関






鐘楼


鎮守社
 鹿王院西隣に尼門跡寺院の嵯峨・曇華院(どんけいん/どんげいん)がある。曇華とは三千年に一度花開くという優曇華(うどんげ)の花のことであり、花咲く時に聖王が出現するという。
 曇華院門跡、竹の御所、正式には嵯峨・曇華院の日光という。京都の7尼門跡寺院のうち、大聖寺門跡、宝鏡寺門跡に次ぎ、3番目に列せられる。山号は瑞雲山という。
 臨在系の単立尼寺、本尊は十一面観世音菩薩。
 尼寺霊場の一つ。
◆歴史年表 創建、変遷の詳細は不明。
 南北朝時代、暦応年間(1338-1342)、1374年-1380年頃とも、足利義満が、智泉聖通尼を開基として三条東洞院の高倉宮(以仁王)御所跡(中京区曇華院前町の東)に、瑞雲山通玄寺(つうげんじ)を建立したことに始まる。義満は尼五山の一つとし、年に500石の寺領を与えた。寺は尼僧の禅道場になる。
 数年後、智泉尼は境内東の曇華庵(曇華院)に隠退する。以後、将軍家息女が住持に就く。
 1380年、通玄寺仏殿の鍬入れ式には、春屋妙葩、義堂周信らが参列した。
 室町時代、1467年、曇華庵は応仁・文明の乱(1467-1477)により焼失した。また、15世紀(1401-1500)後期、通玄寺、曇華庵はともに焼失した。
 第105代・後奈良天皇(1497-1557)の皇女が入寺した。
 16世紀(1501-1600)初頭、曇華庵、通玄寺はともに再建される。二寺は合併し、曇華院と改称になる。
 近世(安土・桃山時代-江戸時代)、寺領684石を有した。
 江戸時代、1603年、焼失した。その後、衰微する。
 1671年、延宝年間(1673-1681)とも、第111代・後西天皇皇女・大成聖安尼が入る。修復し、中興の祖とされた。聖安尼は慈受院住持も兼務し、以後、江戸時代には歴代住持が兼務した。以来、曇華院に皇女の入寺が続く。
 1707年、曇華院は第113代・東山天皇により紫衣を贈られる。以後、大聖寺、宝鏡寺と並ぶ特権を有した。
 1708年、焼失する。
 1807年、第119代・光格天皇により竹御所の御所号を贈られる。
 1864年、蛤御門の変(禁門の変)で焼失した。その後、無住になる。
 近代、1876年、1871年とも、現在地、鹿王院の塔頭・瑞応院(ずいおういん)の地を得て移り、再興された。本堂は、瑞応院の建物により再建される。
 現代、1953年、飛鳥井慈孝住持の時、境内に保育園が開園になる。門跡寺の初例になる。
◆智泉聖通尼 室町時代の尼僧・智泉聖通尼(ちせん しょうつう に、1309-1388)。室町幕府の第2代将軍・足利義詮夫人・紀良子の母。鎌倉時代の第84代・順徳天皇の皇子・四辻宮善統親王の孫。天竜寺2世・無極志玄の姉。夫没後、晦谷祖曇(まいこく そどん)により得度する。1374年-1380年、通玄寺の開基になる。
◆大成聖安 江戸時代の尼僧・大成聖安(1668-1712)。聖安女王( しょうあん にょおう)、館宮(たちのみや)と称した。第111代・後西天皇の第9皇女、母は梅小路定子。1671年、曇華院に入寺する。1674年、喝食、1679年、得度、1707年、通玄寺住職、紫衣を許される。曇華院門跡になり大規模な修復を行い、後に中興の祖といわれた。
 墓は大徳寺中養徳院内曇華院宮墓地にある。
◆玉江聖珊 江戸時代の尼僧・玉江聖珊(1721-1760)。聖珊女王( しょうさん にょおう)、姫宮と称した。第114代・中御門天皇第1皇女、母は小森頼季女。1722年、曇華院を相続、1728年、曇華院に入寺、喝食。1731年、得度、1735年、内親王宣下、二品の称号を受け紫衣を許された。1746年、第115代・桜町天皇により色衣の着衣を許された。大成聖安より曇華院を引き継ぐ。
 墓は大徳寺中養徳院内曇華院宮墓地にある。
◆和宮親子内親王 江戸時代の皇女・和宮親子内親王(かずのみや ちかこ ないしんのう、1846‐1877)。名は親子、和宮、静寛院宮。第120代・仁孝天皇の第8皇女、母は権大納言・橋本実久の娘・経子。第121代・孝明天皇の妹。孝明天皇の思し召しにより、1851年、6歳で有栖川宮熾仁親王(17歳)と婚約した。1860年、桜田門外の変後、婚約破棄となり、1861年、朝幕関係融和のため、公武合体政策により政略結婚として14代将軍・徳川家茂の正室として降嫁する。1866年、家茂没後、落飾して静寛院と称した。この頃、母、夫、兄を相次いで失う。1867年、大政奉還以降、徳川家救済のため朝廷との間で尽力した。1868年、戊辰戦争で熾仁親王は東征大総督となり、江戸城を目指した。和宮は親王宛に江戸城中止を懇願した。後、和宮は京都に戻り江戸で亡くなる。墓は芝・増上寺に夫ともに葬られた。32歳。
◆通玄寺・曇華院 南北朝時代、暦応年間(1338-1342)、1374年-1380年頃とも、足利義満は、智泉聖通尼を開基として三条東洞院(中京区)の高倉宮跡に、瑞雲山通玄(つうげん)寺を建立した。尼五山の一つに数えられ、尼僧の禅道場になった。尼僧の住いのために曇華院も建てられている。曇華とは、花名の「優曇華(うどんげ)」のことで、三千年に一度開花し、その時、理想の聖王が出現するとされる。以後、将軍家の息女が住持に就く。
 室町時代、1467年、応仁・文明の乱(1467-1477)で焼失、曇華院に統一されて再興された。その後も、焼失しては再興される。江戸時代、1864年、蛤御門の変(禁門の変)で焼失する。以後、再興はされず、近代、1871年(1876年とも)に嵯峨に移された。
 なお、旧地には、現在も曇華院前町の町名が残る。
◆竹の御所 この地は、近衛天皇中宮・藤原多子の宮殿跡という。公卿・徳大寺実定(1139-1192)は、待宵の小待従(1121頃-1202)に「ものかはと君がいひけん鳥の音の今朝しもなどか悲しかるらん」「またばこそ深けゆく鐘もつらからめあかぬ別れの鳥の音ぞうき」と交わした。(「平家物語」)
 室町時代、応仁・文明の乱(1467-1477)後、室町時代(戦国時代)の第105代・後奈良天皇皇女、江戸時代の第111代・後西天皇皇女、江戸時代の第119代光格天皇皇女などが入寺した。
 江戸時代、1807年、竹御所(竹の御所)の御所号を贈られている。
◆仏像 本堂に安置の本尊は「十一面観世音菩薩」であり、平安時代の恵心僧都(源信、942-1017)作という。
◆建築 本堂、書院、庫裡などがある。
 「本堂むは、明治期(1868-1912)中期に建てられた。
◆庭 本堂南に枯山水式庭園がある。苔地の平庭でなにもない空間を広くとる。庭面の端、右手、西南奥に低い築山、枯滝の石組がある。低木、中木、高木の植栽がある。サカキ、ヒノキ、カシ、カエデ、ツツジ、ハギ、センリョウなどになる。石組、景石もある。
 本堂の西、茶室「篩月庵」の露地庭には、苔地に手水鉢、飛石、織部灯篭、ドウダンツツジなどの植栽がある。
 本堂北の中庭に、見事な日光椿・月光椿が植えられている。
 書院西の新書院前にも庭がある。苔地に植栽、燈籠、飛石などがある。
◆文化財 江戸時代の「智泉聖通尼像」、室町時代の「智泉聖通尼所用九条袈裟」「智泉聖通尼法衣譲状」「伝智泉聖通尼念持仏」、江戸時代の「大成聖安尼像」「中興通玄大成和尚語録」、大成聖安筆「中興通玄大成和尚曇華集」、江戸時代、大成聖安筆「冬日書懐」。
 江戸時代の「花鳥文蒔絵貝桶・合貝」は金地に色鮮やかに王朝が描かれている。室町時代-江戸時代の「さおがけ地蔵」。
 歴代皇女ゆかりの遺品、江戸時代-近代の御所人形「びんぷく立姿」、江戸時代の三折れ人形「皇女御小姓さん」、明治天皇母より寄進の「花笠童子」は頭に花笠の飾りを付け、腹掛けをして左手には団扇を持つ。「つくね」は3人の童子が小亀に乗る。赤衣の「着衣立雛」。「賀茂人形双六」は夫婦が睦まじく遊ぶ姿を表している。
 皇女・和宮愛用のお多福、小姓の人形がある。お多福は頬の部分を高くするように幾度も作り直させたものという。
 江戸時代の「仏法双六」「嵯峨愛宕名所双六」「伊勢道中名所双六」、遊戯具なども数多い。
◆障壁画 本堂の室中に、鶴沢探索筆の「琴棋書画図」8面、左右各室に山口雪渓筆の水墨画「弾琴図」4面、「四愛図」残欠16面がある。
◆年間行事 地蔵盆(8月末)。


*非公開
*年間行事・は中止・日時・内容変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『尼門跡寺院の世界』『京都古社寺辞典』『京都・山城寺院神社大事典』『続・京都史跡事典』『おんなの旅路 京・奈良の尼寺』『京の尼寺 こころの旅』『おんなの史跡を歩く』『古都の尼寺』『京都大事典』『京都 歴史案内』『昭和京都名所図会 4 洛西』『京都の寺社505を歩く 下』『京都秘蔵の庭』



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 曇華院 〒616-8367 京都市右京区嵯峨北堀町25  075-861-0358
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