観智院 〔東寺〕 (京都市南区)
Kanchi-in Temple
観智院 観智院
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、奥の日本に向けて船が渡る。手前が龍、その先に船、さらにその先が亀、一番奥が鯱を表すという。




静観堂

 観智院(かんちいん)は、東寺境内北にある。東寺の院家、随一の塔頭であり、格式高く別格本山になる。歴代住職は東寺の別当職を兼務した。 
 東寺一山の勧学院として教学研究の中心であり、密教関連の史資料を所蔵、その内容、数ともに国内随一とされる。
 東寺真言宗・真言宗東寺派。本尊は、五大虚空蔵菩薩像を安置する。
 知恵を授ける虚空蔵菩薩の信仰を集める。
◆歴史年表 鎌倉時代、1308年、延慶年間(1308-1311)とも、東寺に帰依した後宇多法皇(第59代)が、西院(御影堂)で参籠中に、21院(15院とも)の建立を予定したその一つという。
 室町時代、1359年、1360年、1361年とも、東寺の随一学僧といわれた杲宝(ごうほう)により子院として創建された。真言宗の勧学院であり、多くの学僧を輩出した。
 1373年、2世・賢宝により、山科安祥寺より五大虚空蔵菩薩が遷された。
 安土・桃山時代、1596年、客殿は伏見大地震により倒壊する。
 江戸時代、1605年、客殿は、豊臣秀吉の正妻・北の政所の寄進により再建された。
 1609年、徳川家康(1542-1616)は、黒印状により、真言一宗の勧学院と定めている。
◆杲宝 鎌倉時代後期-南北朝時代の真言宗学僧・杲宝(ごうほう/こうほう、1306-1362)。下野、但馬に生まれたともいう。姓は源氏。幼くして高野山で出家、18歳頃、東寺・宝菩提院の頼宝に師事、槙尾山の浄宝より三宝院流の灌頂を受け、南都、高野山を経る。1346年、勧修寺の栄海より伝法灌頂を受ける。1348年、東寺勧学会学頭、1358年、法印に叙せられた。1359年、大僧都となる。観智院を開く。東山八坂・吉祥薗院で亡くなる。
 「東寺三宝」(ほかに師・頼宝、弟子・賢宝)の一人。真言教学の大家(ほかに高野の宥快、根来の頼瑜)の一人。著作多く、『東宝記(とうぼうき)』を編纂した。
◆賢宝 南北朝時代の真言宗学僧・賢宝(けんほう、?-1398)。杲宝の弟子、1361年、師により灌頂を受ける。「東寺三宝」(ほかに頼宝、杲宝)の一人。山科安祥寺より五大虚空蔵菩薩を遷した。師と共に仏教典の蒐集、書写を行う。それらは、後世のものを加え『観智院金剛蔵聖教』(重文)として伝えられている。当院2世院主。
◆仏像 客殿東の仏堂に安置されている本尊の「五大虚空蔵菩薩像」(重文)は、晩唐時代作という。
 右(東)より獅子座の「金剛虚空蔵坐像」(75.4㎝)、象座の「宝光虚空蔵坐像」(75㎝)、中央の馬座の「法界虚空蔵坐像(金剛虚空蔵)」(73.5㎝)、孔雀座の「蓮華虚空蔵坐像」(70.6㎝)、迦楼羅(かるら)座の「業用(ごうよう)虚空蔵坐像」(70.1㎝)がある。
 かつて唐の長安・青龍寺金堂の本尊だったという。青龍寺の恵果(けいか)の持仏ともいう。法界虚空蔵坐像の框座裏に墨書があり、平安時代、847年、山科・安祥寺の唐僧・恵運(えうん)阿闍梨が唐から持ち帰り、安祥寺金堂に安置されたものという。その後、大風で金堂が倒壊する。867年の「安祥寺資財帳」にも「五大虚空蔵」と記されている。南北朝時代、1376年、2世・賢宝により当院に遷されたという。嘉慶年間(1387-1389)など5度の修復を行っている。長安よりの請来については異説もある。
 虚空蔵とは無尽蔵の意であり、知恵を無尽に蔵していることをいう。菩薩に念じて記憶力を得るという「求聞持法」の虚空蔵といわれている。
 木造、彩色、広葉樹(檜とも)の一本造(動物坐は別木)で、仏像は東から獅子、象、馬、孔雀、架空の生き物・迦楼羅(かるら、金翅鳥<こんしちょう、ガルーダ>)の上の蓮華座に乗る。像は細面の姿をしており、宋代の特徴があるという。眼には練玉、瓔珞(ようらく、胸飾り)も練物による。いずれもクスノキ材、一木造。
 「愛染明王像」は、江戸時代作。大日如来の化身とされ、愛欲貪染を浄菩提心にまで昇華させるという。西陣関連、縁結び、開運、子宝の信仰を集める。寄木造。
建築 「客殿」(国宝)は、安土・桃山時代、1596年の伏見大地震により倒壊する。江戸時代、1605年、豊臣秀吉正妻・北の政所(1549-1624)の寄進によりに再建された。桁行6間半、梁行7間あり南東の上段の間、南西の次の間、北東の羅城の間、間の暗の間、北西の使者の間の5室からなる。上段の間に、床の間壁貼付、違棚がある。
 桃山時代の書院造で、上座間に違棚、棹縁天井、次の間とは竹の節欄間で間仕切りする。付書院、帳台構など住房機能を備えている。三井寺光浄院客殿、勧学院客殿と同様の様式になる。入母屋造、妻入、車寄は軒唐破風、中門廊を突出させる。
◆茶室 書院風の茶室「楓泉観(ふうせんかん)」は、室町時代に足利家、上流武士が集った。本席、奥の席、京間で貴賓口がある。本床には、樹齢800-1000年という南天の材が使われている。
 狩野氏信筆の襖絵「楼閣山水図」、中林竹洞筆「秋草図」で飾られている。
◆文化財 『観智院金剛蔵聖教』(重文)は、典籍、仏画、仏像を集めた。「東寺の三宝(頼宝、杲宝、賢宝)」が著した疏(注釈書)、収集の経論(仏の教えを記した経とその注釈書)による。質量ともに国内最高峰といわれている。江戸時代、13代・賢賀が一部の修理を施した。
 「観智院伝来文書典籍類」(重文)(京都府立総合資料館所蔵)。
 絹本著色「十一面観音図」1幅(重文)、鎌倉時代作。
◆障壁画 客殿上段に宮本武蔵((1584?-1645)筆の襖絵がある。二羽の鷲が獲物を狙う様を描き、二刀流開眼を告げたともいわれる「鷲の図」(1605)、静の「竹林の図」になる。京都では珍しい武蔵の遺物とされる。吉岡一門を破った武蔵が命を狙われたため、一時当院に匿われていたという。その際に描いたという。違棚付近にも描かれている。
 書院には、現代の画家・浜田泰介(1932-)による「春の朝」「初夏の芽」「秋の音」「新雪」が描かれている。
◆庭 客殿南の庭園は、禅院式の枯山水式庭園であり「五大の庭」と呼ばれている。1977年に白砂が入れられた。
 「弘法大師行状絵巻」に因み、平安時代、806年、遣唐使として渡った空海が、法具経典とともに船で日本に帰国する様が表現されている。海難を龍神の加護により免れたとの逸話に因む。
 西の築山の洞窟石組は、唐の長安・越州を表し、東の築山である日本に向け、荒海を石組の遣唐船(渡海船)が進む。円文は荒れる海の渦を表し、船の先頭に独鈷杵(とっこしょ)が置かれている。これは、嵐を鎮めるために空海が海に投じたものという。船を守護する鯱、右手斜め前に神亀、後方左手に龍神、鳥がそれぞれ石で表現されている。
 西の築山には、五大虚空蔵菩薩像を表す5個の石があり、礼拝石が立てられている。
 客殿東の中庭は、安土・桃山時代の枯山水式庭園であり、東寺創建時の礎石が置かれている。
 北に、茶室、露地庭があり、石灯籠、蹲踞、手水鉢が据えられる。
◆樹木 オガタマノキ、クロガネモチ、ナツツバキが植えられている。
◆年間行事 春季特別公開(3月20日-5月25日)、秋季特別公開(9月20日-11月25日)。


*普段は非公開、建物、室内は撮影禁止。
*年間行事は中止、日時変更の場合があります。
*年号は原則として西暦を、近代以前の月日は旧暦を使用しています。
*参考文献 『京都・山城寺院神社大事典』『京都の寺社505を歩く 下』『事典 日本の名僧』『京都古社寺辞典』『昭和京都名所図会 6 洛南』『京都大事典』『京都 神社と寺院の森』『週刊 日本の仏像 第43号 観音寺 国宝十一面観音と蟹満寺・国宝釈迦如来』『週刊 仏像めぐりの旅 4 京都 洛中・東山』



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「五大の庭」

龍神

遣唐船(渡海船)



神亀


独鈷杵

五大虚空蔵菩薩像の一つ

空海

六地蔵尊

坪庭

坪庭

茶室「楓泉観(ふうせんかん)」の露地庭
 観智院 〒601-8473 京都市南区九条町403,八条大宮西入る  075-662-0173(東寺拝観部)  春期 9:00-17:30 秋期 9:00-16:30

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